霊泉の娘2
取り残された玉兎は、後を任された社員にひとまず奥へと促されていた。背中を強く押されながら、肩越しに階下を窺う。火の手が上がり、炎に巻かれた者を見た瞬間、玉兎は階段も使わず飛び降りていた。
「落ち着いて! いま助ける!!」
服に燃え移った火にパニックに陥った男を、傍の社員たちと共に数人掛かりで無理やり押さえ込んだ。あちこち叩いてなんとか消し止めたとき、背後から悲鳴が上がった。聞き覚えのあるその声に、玉兎は素早く入り口のほうを振り返る。こちらへ駆け寄ってくる男たちはブルーウイングの者ではない。混乱にまぎれ、誰にもとめられることなく玉兎の前に辿り着いたのは、彼女の部下たちだった。
「お嬢さん!!」
「
会社の留守を頼んだはずの彼らがこの場にいることに、玉兎も驚きの声を上げた。
「僕達、や、やっぱりお嬢さんが心配で、着いてきたんです⋯⋯」
「そんなことより早く逃げましょう!」
「さあ早く! 急いで!」
強く手を引かれ、反射的に踏ん張った玉兎は、爆発音に息を呑んで三人の向こう側に目をやった。
「ダメよ、怪我人を助ける! あなたたちは逃げて!」
「で、でも⋯⋯」
玉兎は三人の反応を待たず、手を振り払って駆け出した。
爆発、火炎、怒号と悲鳴。戦場そのものだ。瓦礫の下敷きになった者を助けようとしている男に手を貸し、なんとか外へ引きずり出す。
「俺たちも手伝います!!」
「李許⋯⋯」
頷いて彼に怪我人を預けた玉兎は不意に顔を上げた。外に嫌な気配がある。
「あとお願い! わたし、外を見てくる!」
「ダメです、危ないですよ!」
「あなたたちも気をつけて!」
「お嬢さん!!」
制止を振り切り、外へ飛び出した玉兎は息を飲んだ。男が斬られた瞬間、喉を競りあがる怒りに目の前が真っ赤になって──そこから先は、覚えていない。
◆◇◇
「やめろ!!」
曹操も兄もやられ、飛び出した夏侯淵を庇うように突っ込んできたのは玉兎だった。小柄な身体から繰り出された突進に呂布の巨体がよろめき、その場に居た者は誰もが驚いた。だが一番驚いたのは呂布だったらしい。反射的に殴り飛ばしたものを目にして、一瞬言葉を失い、次に大笑いし始めた。
「ブルーウイングはこんなガキまで雇ってんのか。どれだけ人材に困ってるんだ」
「馬鹿か。そんな子供がうちの社員なわけないだろ。無関係の人間に手を出すな」
「ふん⋯⋯」
倒れた彼女に視線をやった呂布に、曹操は焦りを生じた。殴り飛ばされた玉兎は気を失ったのか動かない。まずいことになりそうだった。
「張遼」
「は、⋯⋯いえ、しかし⋯⋯」
呂布に顎で示されて思わず頷いていた張遼だったが、しかし彼は躊躇った。いくらなんでも子供をどうこうする趣味はないし、さすがに手も貸したくない。
「ガキでも酌くらいは出来るだろ」
まどろっこしくなったのか、呂布は自分で玉兎の身体を掴み上げた。ぽいと赤兎馬に放り投げる。
「おい!! そいつは無関係だと言っているだろう!!」
「お前こそ馬鹿か。そんなことはどうでもいいんだよ」
言いながら振り上げられた戟に待ったをかけたのは、驚いたことに、張遼だった。
「我々の受けた仕事は“ブルーウイングの機能停止”です。それはすでに果たしたといえるのでは? これ以上はタダ働き。利益になりません」
呂布は少しのあいだ自分をとめた男を窺うように黙り込んだが、やがて鼻から息を抜いた。
「ふん⋯⋯行くぞ」
◆◆◇
頬の痛みで目を覚ました玉兎は、自分の置かれている状況をすぐに理解できず、視線を泳がせた。見覚えのない部屋の中に一人で取り残されている。よろよろと身体を起こすとあちこち痛んだ。とくに痛む頬に手をやると、熱を持ち、腫れ上がっているのが鏡を見なくても分かった。記憶を手繰って、はっと目を見開く。
「やっと起きたか」
背後に怖気を齎す気配──なぜ声を掛けられるまで気付かなかったのかと思えるほどの。高い場所から降った声に、玉兎は素早く振り向いた。
「はっは、ヒデェ顔だな。酒が不味くなりそうだ」
呂布は笑い、ごくりと喉を鳴らした。空になった酒瓶を放って傍の布を取ると、それを投げ寄越してきた。
「着替えろ。馬子にも衣装というからな、ちったぁマシになるだろ」
強く襟を掴み上げられ、首が絞まる。玉兎は息を詰まらせ、しかし激しく抵抗した。
呂布の機嫌があっという間に傾く。相手が女子供でも暴力を躊躇うような男ではない。だが、さすがにこれ以上殴り付けると見れたもんじゃなくなりそうだと考え直す。酌をさせるのにそれだと都合が悪いので、一気に服を裂いた。同時に高い悲鳴が上がる。
「いや⋯⋯!!」
顎が軋むほど強く掴まれた玉兎は、必死に抗おうとしたが無駄だった。圧倒的な力の差に、本能的に身体が逃げを打つ。
「そのまま酌させてやってもいいんだぞ。それとも下の連中に投げ込んでやろうか?」
「っ⋯⋯」
“下の連中”というのが何なのかは分からない。だがどう考えても事態が良くなるようなものではないことだけは分かる。突き放された玉兎は床に落ちた布地を拾い、震える手で身に付けた。
「それでいい。女は素直なほうが可愛いぞ。俺はいま機嫌が良いからな。大人しく言うこと聞いてりゃあ無事に帰れるかもしれんぞ」
ずいと杯と突き出してきた呂布に、玉兎は嫌々といった様子を隠すこともなく、近くの酒瓶を手に取った。重いそれを両手で支え、零さないようにゆっくりと注ぐ。呂布がアホみたいにがばがば空けていくので、休む暇もない。腕が辛くなってきても、玉兎は何も言わず、それを顔や態度に出すこともなかった。
彼女のその精一杯の虚勢に呂布ももちろん気付いていたが、しかし何も言わなかった。どこまで痩せ我慢が出来るか見ものだ。面白い拾い物をした、これは長く楽しめるかもしれない。
「俺はガキは嫌いだが、お前のように賢いガキは嫌いじゃねえ。ただ女は馬鹿なくらいがいいがなぁ。二律背反ってやつだな」
二刻以上の時が経っても、呂布はペースを落とすことなく杯を空けていた。玉兎も同じペースで、ただ黙って酒を注ぐ。最初は無言だった彼も、さすがに酒が回ってきているのか、先ほどから饒舌に喋り始めた。延々一人でつらつらと、こちらが相槌も打たないのに語っている。本当に機嫌が良いらしい。
黙って酌を続けながら、玉兎はなんだか妙な気分になった。大人しくしていればガラが悪いだけの男のようにも思えるのに。
「⋯⋯あなたは、どうしてあんな酷いことを⋯⋯」
「あ?」
「なんの罪もない人を傷つけるなんて、どうしてそんなことが出来るの」
十中八九機嫌を悪くするだろうという玉兎の予想に反して、呂布は心底呆れた声色だった。
「ガキのわりには賢いかと思ったがやっぱり馬鹿か? 罪のねえ人間なんざこの世にゃいねえんだよ。お前だって虫も殺さねえような顔してやがるが、どれだけの犠牲の上にいま生きてると思ってんだ」
詭弁だと分かっている。それでも反論できず、玉兎はうつむいた。呂布は変わらず機嫌良く杯を傾け続けていた。
──異変を感じたのは、そう経たずしてからだ。階下に、これまでと違う気配を感じる。呂布も僅かに顎を上向け、鼻で笑った。だがソファーに張り付いたまま動くことはなく、強襲を楽しんでいる風でさえあった。
◆◆◆
曹操の奇襲は、半分は成功した。
警備の無力化と張遼の足止め──しかし本命はここからである。玉兎の姿が見えないことが唯一気掛かりだったが、呂布の傍で酒瓶を抱えていた。
「玉兎、逃げろ!」
促したが、彼女は腰を抜かしたのか頭を抱えて蹲ったまま動かない。幸い部屋の隅に逃げているものの、これでは策が上手くいっても彼女の身が危険に晒されてしまう。舌打ちし、とにかく彼女が逃げる時間を稼ぐしかないと、曹操は斬りかかっていった。
「ぐはっ!」
「フン⋯⋯お前の攻撃は軽過ぎる! いくら攻撃を当てられても、致命傷にはならん」
つかの間の激しい攻防の末、斬り返されて吹き飛ばされた曹操は壁を背にしたまま座り込んでいたが、呂布の背後へ玉兎が忍び寄っているのを視界の端に見て、思わず声を上げそうになった。寸でで堪らえ、口元を拭う振りで誤魔化す。呂布は彼女にまったく気付いていない。当たり前だ、先ほどまで部屋の隅で怯えていた子供なのだ。注意どころか存在さえ失念していた呂布は、膝裏に強かな蹴りを入れられたことでようやく玉兎を思い出した。どれほど屈強な男でも、身体の構造上、そこを蹴られれば膝が折れる。がくんと体勢を崩した呂布の怒気が一気に膨れ上がり、空気を揺るがせた。
「このクソガキィッ!!」
呂布が振り向いて叫んだときには、玉兎はすでにドアの外へ逃げ出しているところだった。最後に見えた横顔は、わずかに微笑っている。曹操も、呂布の気の逸れた隙に梁の上へ飛び上がりながら、思わず口角を持ち上げていた。まったく、彼女には驚かされるし──それに、借りが一つ出来てしまった。
「⋯⋯ならばお前もついてくるか? 曹操の描く未来に」
曹操と呂布が熾烈な戦いを繰り広げている真下の階で、一足先に勝利を収めた夏侯惇は床に伏す張遼をじっと見下ろしていた。明確な返答を聞くより先に、部屋へ駆け込んで来る気配を感じて振り向いた。曹操かと思ったが彼よりずっと小柄だ。
「お前、無事だったか。⋯⋯なんだその格好」
張遼の姿を見て怯えたのか、玉兎は少し動きをとめた。しかし不意に上に視線をやる。轟音と同時に天井が吹き飛び、瓦礫と共に呂布が降ってきた。傍に降り立った曹操に、夏侯惇は内心で胸を撫で下ろした。策は上手くいったようだがやはり無傷とはいかなかったらしく片翼を斬り落とされている。だが、目立った傷はそれだけだ。
「今回は俺たちの勝ちだ、呂布!」
「くっ⋯⋯お、おのれ⋯⋯」
「お前の敗因は圧倒的な力を持っているがゆえの⋯⋯油断と慢心だ。良い反面教師になったよ、礼を言う」
曹操が勝利を確信し挑発したとき、ようやく護衛を粗方縛り終えた夏侯淵も駆け込んできた。素早く曹操の隣に並ぶ。
「貴様の名は覚えたぞ⋯⋯曹操! いずれお前は俺が殺してやる!!」
敗北を喫したとはいえさすがの気迫と殺気である。呂布が引き際を誤って第二ラウンド突入となると相討ち覚悟になるだろう。曹操はわずかに怯んだものの果敢に吼え返した。
「望むところだ!」
隙をついて飛び出した呂布はそのまま赤兎馬に跨り敗走した。その姿を見送り、夏侯淵は舌打ちしてみせた。
「チッ、逃がしたか⋯⋯」
こっちは暴れ足りないくらいだと虚勢を張るが、次には「はは⋯⋯」と笑いが漏れる。曹操と夏侯惇も、夏侯淵に釣られて笑いをこぼしながら座り込み、後ろに引っくり返った。
「は、はは⋯⋯もう限界だ」
「リベンジ⋯⋯成功だ!!」
ハイタッチして、それから夏侯淵は思い出したように飛び起きた。
「あ、そうだ、玉兎!!」
辺りを見回し、風通しの良くなったドアの近くで所在無さげに立っていた彼女を見つけ、
「お前も無事だったか! 良かった!」
走り寄った夏侯淵は勢いのまま玉兎を思い切り抱き締めた。
「あ、あの⋯⋯」
「おい、なんだよ、その格好! ていうか顔も! まさか、呂布のヤロー、お前に酷ェことしたんじゃあ⋯⋯!」
「い、いえ、ただ着替えさせられただけで何もされてないです。顔は⋯⋯たぶん、昼間に殴られたときに⋯⋯」
「ほんとか? 他に怪我は?」
「大丈夫です、ないです」
「⋯⋯ほんとだな?」
念押ししてくる夏侯淵に、玉兎は何度も頷いた。無骨な手が、肩からずり落ちる乱れた布地をしっかりと押さえてくる。
「よし⋯⋯んじゃ、帰るか!」
あっけらかんと笑う彼に玉兎も小さく頷いたが、ふと自分の腕に鼻を近づけて顔を顰めた。
「⋯⋯くさい。⋯⋯きもちわるい⋯⋯」
「めちゃくちゃ酒臭かったからな。匂いで酔ったんだろ」
傍に来た夏侯惇が呆れた様子で言った。階下までほんのりと酒の匂いがしていたのだ、上は相当なものだったに違いない。
「⋯⋯っていうか、お前⋯⋯酷い顔だな⋯⋯」
同じく傍に来ていた曹操は、玉兎の身を確認してつい指摘してしまう。すると恥ずかしそうにうつむいた彼女に、なんだか最後の緊張の糸まで切れたような気がした。曹操は大きく息をついて、視線を上げた。
「さあ、ここにもう用はない。引き揚げるぞ!」
おう! と威勢良く返してくる夏侯兄弟と肩を貸し合い外に出て、曹操はバイクに足を向けた。
玉兎はぼんやりとそれを見送る。先のことをなにも考えていなかった。とりあえず家に帰ったほうがいいだろうかと思ったが、そういえば李許たちはどうしているのだろう。曹操に声を掛けようとして、しかし彼のほうが早かった。
「おい、何してる。お前も来るんだ」
「あ、⋯⋯え? でも⋯⋯」
「とにかく一度、会社に戻るぞ。お前のところの⋯⋯李許だったか? あいつらもお前を心配して、うちで待ってるからな」
「分かりました。⋯⋯あの、」
すでにバイクに跨って待っている曹操の目をしっかり見てから、玉兎は深々と頭を下げた。
「助けてくれて、ありがとうございます」
「⋯⋯べつに、礼はいらん。本命は反撃で、お前はついでだったしな。いいから早く来い」
「⋯⋯はい」
従順に頷いたものの、傍に来た玉兎が一向に動かないので、曹操は呆れたように言った。
「おい⋯⋯お前、まさかそんな格好で飛ぶつもりか?」
「え? えっと⋯⋯でも⋯⋯」
「乗れ」
促すと後ろに回ってきたので、曹操は腕を掴んで引っ張った。
「そっちじゃない、こっちだ。後ろだと服が吹っ飛ぶぞ」
無理やり前に横乗りさせて抱え込む。玉兎が口を開く前にエンジンを吹かして反論を封じた。
「喋ると舌噛むからな」
一方的に告げ、曹操は待っていた夏侯惇たちに頷き、バイクを駆って帰路に着く。
時はすでに陽が昇ろうとしていた。一筋の暁光に照らされながら、長い二日間だったなと思う。失ったものは大きかったが、得たものもまた大きかった。先は長いが、着実に理想への歩みは進んでいる。それを実感し、曹操はひと時の勝利に浸った。
「今日の朝陽は別格だな」
「ホントだ。すげぇキレイだ」
夏侯兄弟のやり取りに、彼の疲れた顔にもわずかに笑みが浮かんだ。
──夜が、明けていく。