「周瑜──ちょっと、いいかしら」
「どうした、玉兎?」
「協力してほしいことがあって」

 その言葉で連れて来られたのは彼女の部屋だった。寝台に伏せるよう言われ、それまでは素直に言うことを聞いていた周瑜もさすがに首を横に振る。

「いや⋯⋯ちょっと待て、さすがに不味いだろう、それは」

 彼女は袖で口元を隠し、目だけでにいやりと厭らしく笑った。

「あらあら、軍師さまはいったいナニを考えていらっしゃるのかしらね?」

 揶揄いの強い口調に、周瑜はぐうと言葉に詰まる。
 ちらとでも考えたようなことではないと悟りはしたものの、あらぬ誤解を受けて孫策の逆鱗に触れるのは避けたい。命を狙われても不思議じゃないのではと思う。

「冗談よ。悪いんだけれど、ちょっと練習台になってほしいの」
「練習台?」

 いやそれってまさか夜枷のあれじゃないだろうなと、若さゆえの妄想力で周瑜は考えを巡らせた。

「按摩の」
「あんま」
「ええ、按摩の」
「ああ⋯⋯」

 安堵と落胆の中間な息をつき、周瑜は強張っていた肩を落とした。

「いや、うん、まあ⋯⋯お前が練習台を探しているのは分かったが、それはべつに私でなくともよいだろう。ご家老たちにでも⋯⋯」
「ダメよ。本番が若殿さまなんだもの」
「えっ」
「孫堅さまの命で、今日から若殿さまの⋯⋯按摩⋯⋯というのかしらね?
 よく分からないけど、とにかく、痛みが和らぐように、お休みになられる前に身体をさすることになったの。成長痛ってそんなに辛いのね、おいたわしいわ」

 それってあれじゃん。玉兎の貞操がやばいやつじゃん。

 周瑜は絶句し、彼女の顔色を窺った。暗に⋯⋯いやだいぶ露骨に⋯⋯既成事実を作らせようとしている孫堅様の思惑を、彼女も分かっていないわけではないと思うのだが⋯⋯。

「⋯⋯一応聞くが、お前くらいの歳の娘が夜半に侠のふしどを訪ねるのがどういうことか、分かっているか?」

 彼女は目をぱちくりとさせた。途端に幼い様相になり、周瑜はものすごく不安になった。

「若殿さまはそんな侠ではないわ」

 きっぱりと言い放った彼女に、分かっていないわけではないのだなと安心した。と同時に、ここまで堂々と宣言される孫策の心境も分かってしまった。
 これは間違っても手を出せない、出したら侠の矜持が折れるやつだ。

「まあともかくそういうことだから、同じ痛みに悩むあなたが一番都合が良いのよ。頼まれてくれるわよね?」
「⋯⋯⋯⋯。⋯⋯少しだけだぞ⋯⋯」
「ありがとう、周瑜。だからあなたって好きよ」
「やめてくれ。殺される」
「まあ、まさか。いったい誰に?」

 他の誰でもない、私達の友にだよ⋯⋯。

 そんな言葉は到底言えず、周瑜はそろそろと寝台に伏せた。女の甘い香りがする。やわらかな手が肩や背を優しくさすってくる感触に、身震いしそうになった。

「痛くない?」
「⋯⋯ああ」

 周瑜はもぐもぐと呟いて、これを耐えねばならない孫策を思って枕を濡らしそうだった。友よ、お前はなんと哀れな侠なのだ⋯⋯。

 それからしばらく黙って撫でさすられていたが、若さに似合わず切れ者の周瑜といえど、下半身の事情は如何ともしがたかった。じわじわと熱がこもり始めた場所に内心冷や汗を流していたら、腰に手がいった。鋭く危険を感じて身を起こす。

「ちょっと、まだダメよ」
「いやもう無理だ。すまんが他を当たってくれ」
「あなたが一番都合が良いと言ったじゃないの」
「あのな、玉兎。私も侠なんだ。ついでに言えば若いんだ。もっと言うと、これでもお前より力が強い。分かるだろう。頼むからこれ以上、苛めないでくれ」

 早口に言って、周瑜は寝台を降りた。あまりの早業に玉兎は呆気に取られた顔をしていたが、いつものように口元を隠した。頬を染め、決まりが悪そうに目を逸らす。

「ごめんなさい、周瑜、あなたが、まさか⋯⋯その⋯⋯そんな風になるなんて⋯⋯だって周瑜なのに⋯⋯⋯⋯」
「お前、私を侠と思っていないだろ⋯⋯」

 呆れたように言って、周瑜は居住まいを正した。

「まさか。あなたは長沙の誇る立派な侠よ」
「ならば、あまり侠を信用しすぎるな。孫策も、ある面ではな」
「若殿さまはそんな侠ではないわ」

 先の言葉をブレず揺らがず繰り返した彼女に、周瑜はもう何も言わなかった。というか、言うことが見つからなかった。

 もういっそ一呑みに喰われてしまったほうがいいんじゃないのか、こいつは。

「あなたも辛くなったらいつでも言ってちょうだいね。さすられると少しは楽になるんでしょう?」
「お前、私の話を聞いていたか」
「ええ、もちろん。でもね、周瑜。あなたもそんな侠ではないわ。そうでしょう?」
「⋯⋯さあ──どうだろうな?」

 ぐいと彼女の細い顎を掴み、周瑜はその瞳を見据えた。

「少しは侠というものを知ったほうがいい。いつか、本当に痛い目を見るぞ」
「あなたになら──」

 フフ、と唇を緩めた玉兎に、周瑜は負けを認めて身を引いた。

「敵わないな、まったく」
「美周郎と呼ばれるあなたに迫られるこっちの身にもなってほしいわ。ビックリしたじゃないの」
「全然そう見えなかったからな!?」
「あなたこそ、脅しに見えなかったわよ。お互いさまじゃない」



 もう何日前だったか、そんなことがあった。

 鈍痛に悩まされながらもとくに変わりなく日々を過ごしていた周瑜は、よたよたしている孫策の背中を見つけて心底哀れになった。これはもう拷問に近いのではないかと思う。孫策は精力溢れる年頃というだけでなく、もともと血気盛んな侠なのだ。そのうち額の血管が切れるのではないだろうか。

「孫策」
「⋯⋯周瑜か」
「⋯⋯大丈夫か?」

 なんと声をかけてよいやら分からず、当たり障りない言葉を吐いた周瑜に、孫策はライバル心もどっかに放り投げて目元に手をやっていた。

「とても つらい」
「だろうな」
「父上は何を考えているのだ。あいつもあいつだ。父上の命だからと毎晩、律儀に俺のところへ来るんだぞ。来るなと言っているのに、やめろと言っているのに、しかも寝台の上の侠の身体を撫でさするなどあいつは頭がおかしい。毎晩なんだぞ。毎晩だ。毎晩毎晩毎晩毎晩⋯⋯」

 壊れたように繰り返し始めた孫策の目の下は墨で塗ったように真っ黒だった。

「毎晩毎晩毎晩⋯⋯」
「おい、孫策」
「ちょっと、いやかなり、どう考えても、あいつは頭がおかしい。あいつに付き合っていたら、いい加減、俺のほうがおかしくなりそうだ」
「いや、もうだいぶんキてるっぽいが」
「そうか。そうだろうな。毎晩毎晩⋯⋯」

 頭を掻き毟って首を振り始めた孫策に、周瑜は怯えた。人間は眠れないとここまで気が狂うのだなとどこか冷静な部分で思う。

「玉兎をお前の部屋に行かせないよう、私から殿にお頼みしておこう。お前は少し眠ったほうがいい」
「眠る⋯⋯」
「そうだ。寝ろ。お前がそんな有様では兵たちも士気が下がる」

 肩に手をやった途端、孫策はがっくりと膝から崩れ落ちた。

「おい!? 待て、ここで寝るな!」

 孫策を部屋まで引き摺っていくとなると、いくら周瑜でも相当の重労働だ。なんとか歩いてもらいたい⋯⋯と、その顔を覗き込んだ──

「眠れるかぁぁあああああああああ!!!!」

 瞬間、虎の咆哮のような絶叫だった。ビビった周瑜は次の言葉にさらに驚いた。

「夢にまで出てくるんだぞ!! 裸で!! これで寝ろだと!? 眠れるわけあるか!!」
「おい──おい、」
「ぶち犯されたいのかあいつは!! くそが!! 俺がどんな思いで我慢していると思っている!!!」
「おい、孫策」
「もう今夜という今夜は勘弁ならん!!! 今すぐぐちゃぐちゃにしてやる!!!!」
「デカい声でそういうことを言うな。品性を疑われるぞ」
「知るか!!」

 孫策はすっくと立ち上がった。目が据わっている。

「玉兎め、覚悟しろぉぉおおおおおおおぉぉぉぉ⋯⋯!」

 孫策は超元気にダッシュしていった。呆気にとられ、遠くなる背中と声を見送るしかできなかった周瑜は、中途半端に上げていた腕を下ろした。
 これで二人がどうこうなれば、殿の思惑通りである。なんか蟠りが残りそうだなあと思わないでもないが、もう自分に火の粉が降りかからなければそれでいい。勝手にやっててくれ。私はもう巻き込まれたくない。

 ⋯⋯まあけっきょく、二人がどうこうなることはなかった。
 孫策は玉兎の元へ辿り着く前にぷっつり燃料が切れて廊下で転がっていたらしい。周瑜はそれを玉兎の口から聞いたのだから、まったくとんだ茶番である。

「というわけで、殿のお考えはあまり良い手とは言えないかと⋯⋯」

 腹からの発声をもって馬鹿でかい音量で玉兎を犯すだのなんだの、兵や文官が聞いてもどうとも思わないだろう──二人の仲が拗れているのは周知の事実である──が、この城の中には幼い子供もいるのだ。

「そうか、駄目か⋯⋯」
「あまり露骨過ぎては二人とも余計頑なになるばかりかと⋯⋯」

 なんでこんな相談に乗っているのだろうと思わないでもない周瑜である。
 軍師だからってなんでもかんでも作戦を出せと言われても困ってしまう。自分だって彼らと同い年なのだ。色恋の経験なんて同じ程度にしか持ち合わせていない。

「なにか良い手はないものかのう⋯⋯」

 私に言われてもって言いたい。すごく。

「この手のご相談は、私などよりご家老たちのほうがよほど良い案を出せると思いますが」
「歳が近いほうが心情も分かろう」

 いやだからね。無理ですよ。この歳で色恋の駆け引きについて妙案を出せというのはさすがに難題が過ぎます。

「⋯⋯と思うが、まあお前も若いからな。物静かで頭も切れるが、そちらの方面では年相応ということか」
「さようにございます」
「では直にお前にも良い縁談を持ってくるとしよう」
「けっこうです」
「なんだ、お前も玉兎のように「色恋なんかしない!」などと言う気ではあるまいな」
「いまはお二人のことで手一杯です」

 ああそうか⋯⋯と妙に虚ろな目になった君主に、まさか酔っているのではと不安になった。孫の家系はどうも少々酒乱の気があるっぽいので怖い。

「まあともかくこれからも二人を頼みたい」
「⋯⋯はあ⋯⋯」
「そう嫌そうな顔をせんでくれ。お前が間に入ってくれぬと、あの二人は秒で致命的に険悪になってしまうだろうからな⋯⋯」
「はあ⋯⋯」
「すまなかったな。下がってよいぞ」
「はい。失礼します」

 素早く姿を消した周瑜に、孫堅は溜め息を吐いた。
 なんとも絶妙なバランスで事が成り立っている二人である。さっさとくっついてくれないかなと一番思っているのは周瑜だろうが、長沙の者のほとんどが同じ気持ちだ。見ていてやきもきする。

 それにしても息子がここまで耐えるとは思わなかった。自分だったらとっくに手を出しているところだし、なんなら手篭めにしている。それだけ真摯に思っているということか。いや、あるいは⋯⋯。

「あやつ、もしや意外と意気地がないのか⋯⋯?」

 正解は前者なのだが、自分の預かり知らぬところでそんなことを疑われる孫策なのだった。





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