長沙の兎は悩んでいた。

 それはつい最近になって自分の夫となった長沙の若虎こと孫策についてである。まあ平時の彼女の悩みなど七割⋯⋯いや八⋯⋯九割は孫策についてだが──ともかく、彼女は悩んでいた。
 孫堅を言わしめて勇猛果敢な彼女でも、怯むことはある。あまり知識や経験のないこと、自信のないことにおいては誰しも大なり小なり足踏みするものだ。いまの彼女にとって言えば、そう──房事とか。

 しかし、玉兎にはこの手のことについて相談できる者がいなかった。武将として地位を確立している彼女の周りには必然的に男が多い。親しく話す同性がまったくいないというわけではないのだが、ここまで突っ込んだ話をできるほどの仲かと言われたら首を傾げてしまうし、彼女らは総じて恋バナが好きだ。こんな相談を持ちかけようものなら一日と経たず長沙中に悩みの内容が知れ渡っていそうで怖い。人の口に戸は立てられぬことは分かっているので咎めるつもりもないが、だからこそ、そもそも話すべきではないと思っている。
 だが時が経てば消える悩みというわけでもなく、玉兎が物憂げに考え込む姿はしばしば目撃されるようになった。ひどい時には訓練場の片隅でぼんやりとしていて、自慢の耳も役に立たず、気配も消していない兵に傍に立たれてようやく気付くという有様だった。
 これはおかしい、絶対に何かあったのだと囁かれるようになり、その話は兵から黄蓋へ、黄蓋から孫堅の耳へと入った。

「とりあえず策に話を聞いてみるか⋯⋯」
「それがよろしいかと。あの娘のことです、涼しい顔ではぐらかすに違いありませんからな」

 というわけで孫策が呼びつけられたのだが。

「策よ。玉兎とは睦まじくしておるか」
「は──ぁ、まあ⋯⋯」

 何が何やら分からぬといった体の彼は、曖昧に頷いた。

「喧嘩などもしてはおらぬか」
「ええ、とくには」
「優しくしてやっておるか?」
「はあ⋯⋯まあ⋯⋯はい⋯⋯私なりにしているつもりではありますが⋯⋯」

 隠し立てしているような様子もなく、孫策は至って普通に──少々戸惑ってはいるが──受け答えしてくる。

「そうか⋯⋯ふむ⋯⋯」

 それで理由が思い当たらず、考え込んだのは孫堅だけではなかった。孫策も何やら気まずげに、視線を逸らして考え込んでいる。

「策よ⋯⋯やはり何かあったか?」
「いえ、そういうわけでは⋯⋯ただ⋯⋯」
「ただ?」
「私たちは夫婦(めおと)になってまだ日が浅く⋯⋯世継ぎの催促でしたら今しばらくお待ち頂きたくて⋯⋯」

 まだ夫婦二人きりで過ごしたいという気持ちももちろんあるのだが、それよりも信頼関係を築くのが先だと孫策は思っている。玉兎はいまだ自分の心を疑っているようだし、何があろうと揺らがない信頼を築いてからでなければ、子を理由に自分を遠ざけようとする気がしてならない。

「ああ、いや、そういうわけではないのだが──まあ睦まじくしておるのならそれでよいのだ。呼びつけてすまなかったな」
「いえ⋯⋯」

 けっきょく互いに要領の得ない問答を終え、孫策が首を捻りながらも広間を去った後。

「分かりませんなあ⋯⋯玉兎はいったい何を考えておるのやら」
「ただでさえ腹を隠すのが上手い女子(おなご)ですからな⋯⋯困ったものよ」
「しかし夫である若にも相談せぬとは」
「まあ若相手だからこそ言えぬ、ということもあろうが⋯⋯」

 四騎衆も首を捻りながら腕を組み、

「仕方がないな。やはり本人に聞くとしよう」

 孫堅がそう締め括ったので、めでたく玉兎は呼びつけられる運びとなった。




「というわけで、玉兎よ⋯⋯何か気がかりなことがあるのだろう? 正直に申せ」

 孫堅の前でこうべを垂れる玉兎は、五対の目に囲まれて冷や汗が噴出していた。そっと上座の侠を窺う。その瞳の鋭さに、適当な誤魔化しは許されそうにないと悟り、指先の感覚が失せていくようだ。

「玉兎⋯⋯お前、いったい何をそこまで思い悩んでおるのだ?」
「兵達も、近頃お前の様子がおかしいと心配している。このままでは士気にも関わりかねん」
「この場ですっかり吐いてしまえ」

 促す言葉に、だがしかしまさか言える筈がない。
 黙ったままの彼女に、黄蓋がとどめを刺すように重ねた。

「玉兎よ⋯⋯殿に隠し立てをすればお前の立場を悪くしかねん。我らはそれも心配している。お前が謀反や裏切りとは無縁だと長沙の者は皆知っているが、付け入る隙を与えるような真似をしてはならん。分かるだろう?」

 それでも答えあぐねる彼女に、孫堅が口を開いた。

「お前、まさかとは思うが⋯⋯孫策のことではあるまいな」

 ぴくりと動いた細い肩を見て、五人はいっせいに溜め息を吐いた。しまったという顔をした玉兎に、これはもう確定だなと遠い目になる。

「玉兎──お前⋯⋯ようやく、策と⋯⋯ようやく落ち着いたと、そう安堵しておったというのに、お前という奴は⋯⋯」

 まさに針のむしろだ。居た堪れず、玉兎はますますうつむいた。

「⋯⋯あれもまだ若い。お前が不満に思うことは大いにあろうが、そういうことこそ互いによく話し合って擦り合わせてゆくものだぞ」
「いいえ、決して⋯⋯ふっ、不満なんてありません」

 不満どころか、彼にこれ以上望むものなど何もない。ないけど、それとこれとは話が違う。

「ではなにが不服なのだ」
「身分違いの恋が実って不安なのも分かるが、そう隠し立てをされると力になってやることも出来んではないか」
「これまで、どれだけ我らが若とお前のことで心を砕いてきたか分かっているか?」
「もうあのような揉め事はごめんだぞ。若とお前の仲がまた拗れたら我らも敵わん」

 泣きそうな表情になっている彼女に、ぐさぐさと追い討ちがかかる。玉兎はとうとう白旗を揚げた。
 ぱくぱくと口を開閉させ、涙目で声を絞り出す。

「ぼ、っ⋯⋯房事の、ことで⋯⋯」

 女になったばかりの娘を取り囲んで聞き出すべき内容ではなかったことに、今度は侠たちのほうがやばいという顔になった。凍った空気に、孫堅が気まずげな咳払いを一つ。

「お前たちは少し外してくれ」

 そそくさと広間を出て──むしろ逃げて──いった彼らを見送り、孫堅は改めて玉兎に視線をやった。

「玉兎」

 手招いて呼び寄せ、傍に座らせる。これはじっくりと話を聞いてやらねばならない。孫策自身は優しくしているつもりだと言ったが、もともと気性が荒いので本人がそう思い込んでいるだけの可能性がある。

「⋯⋯まさか、策に酷いことでもされておるのか」
「いいえ──いいえ、決してそのようなことは⋯⋯あのお方は、いつも、あの⋯⋯とても⋯⋯や、優しいです、たぶん⋯⋯」
「たぶんか」
「とっときどき⋯⋯意地悪ですから⋯⋯」

 もぐもぐと呟く彼女に、まあ気持ちが分からんでもないなと思う。惚れた女を苛めたくなるのは侠の性というやつだ。しかもこう初心だと尚更だろう。

「それで悩んでおるのか?」
「⋯⋯⋯⋯いえ⋯⋯」

 長い沈黙が落ちた。孫堅は彼女が話し出すまで根気強く黙って待った。

「わたし、⋯⋯武の道しか知りません。他のことは、何にも。牙として生きると決め、そうしてお傍に仕えてきました。万一にも、こんな、⋯⋯若殿さまの⋯⋯つっ、妻になれるなんて思ってなかったから、」

 声を震わせる彼女の背を撫でてやりながら、孫堅はやはり黙って続きを待つ。

「だから⋯⋯房事の、ことも⋯⋯わ、分からないんです。女であるわたしのほうがご奉仕するべきだということくらいしか⋯⋯⋯⋯で、でもっ⋯⋯どうすればいいのか、それすら⋯⋯」

 じわじわと目尻に涙を溜めて、玉兎は真っ赤になった顔を覆った。

「そうか、そうか──」

 そこまで聞き終わる頃には、孫堅はそれはもうにこにこと破顔していた。
 つっかえつっかえぎこちない彼女の言葉を要約すると「ふしどで孫策に悦んでもらいたいんだけどやり方が分からない。どうしよう」である。これで笑うなというほうが無理だ。息子の新妻の健気さが微笑ましすぎて顔がだらしなく緩んでしまう。

「お前の話はよく分かった。では今夜、お前の元に師を遣わせよう」
「⋯⋯師⋯⋯ですか⋯⋯?」

 不安げな玉兎に、孫堅はきりりと表情を引き締めてみせた。

「そうだ。その者の言うことをよぅく聞くのだ。そうすれば策は必ず悦ぶだろう」
「は、はい⋯⋯」
「それから一つ⋯⋯その者がお前の部屋を訪ねたら、必ずこう言え。“どうすれば孫策が悦ぶか教えてほしい”と。よいか、必ずだぞ」
「はっ、⋯⋯ぃ⋯⋯」

 羞恥にか細くなった声に、孫堅は念押しした。

「これはワシの命だ。聞けるな?」
「はい⋯⋯はい、確かに⋯⋯」
「良い子だ、玉兎。さあ──もう何も心配せず、安心して夜を待つといい」

 そうして玉兎を広間から送り出した孫堅は、早速、とある者を呼びつけた。

 で、その夜である。

 玉兎は戦場でも見せない緊張の面持ちで、部屋の中をうろうろとしていた。師を寄越すと言われたが、もう陽が落ちてしばらく経つ。いつ来るのだろうかという不安と、来たらどうすればいいのかという不安で落ち着かない。師事されても上手くできなかったら。というか、どういうことを教わるのか。着物は脱ぐのだろうか。どこまで仔細にナニをどう教わるのかも分からないのですごく怖い。

 虎のようにぐるぐると部屋の中を回っているうちに、ついに戸を叩く音がした。力強い、女のそれではない音に、玉兎は息が乱れた。もしかして、もしかしなくても、侠に教わるのか?

「だ、誰ですか⋯⋯?」

 怯えを隠せず、玉兎はそっと扉の向こうにいる者に問いかけた。

「玉兎、俺だ」
「えっ、あ⋯⋯は、はい、」

 聞き間違えようのない夫の声に、玉兎は慌てて閂を外して戸を開けた。
 もしもいま、遣わされた師が来たりなんかしたら。鉢合わせたりなんかしたらどうしようと冷や汗が滲む。

「どっ、ど、どうかなされましたか」

 なにやらひどく狼狽えている玉兎に首を傾げつつ、孫策が言った。

「いや⋯⋯お前が俺に教えを請うているから指南してやれと父上に言われて来たんだが⋯⋯」
「えっ!!!?」

 飛び上がって驚いている玉兎に、孫策はますます首を傾げた。赤くなったり蒼くなったり一人で百面相している。

「よく分からんのだが⋯⋯お前、俺に何か教えてほしいことがあるのか?」

 疑問符が頭上を飛び交っている孫策に、玉兎はもう絶句するばかりだった。てっきり百戦錬磨の女でも寄越してくれるのだと思っていたのに。ハメられたと気付いたが時すでにお寿司である。

「そういえば、父上はお前に命を与えたとも言っていたが、一体全体なんなんだ? まったく意味が分からんぞ。ちゃんと説明しろ。いまさら俺に隠し事をするな」

 空気を求めるように玉兎は口をぱくぱくとさせた。顔どころか身体全体が淡く色づいているようにさえ見えるほど羞恥に震えている。その様は孫策の劣情を掻き立てるには十分すぎるほどだった。なにやら隠し立てしていることも気に喰わないし、少し仕置くかと嗜虐心に火が着き始める。

「まさか俺に言えぬような命でも受けたのではなかろうな」
「ちが、ちがいます⋯⋯」
「ならば言え。酷い目に遭いたくなければな」

 がつんと肩を掴み、孫策は勢いのまま玉兎を壁に押し付けた。彼女は哀れなほど震え、いまにも泣きそうなほど涙目になっている。ひゅうひゅうと息を乱して、彼女は観念したように声を絞り出した。

「どっ⋯⋯どぅ、すれば⋯⋯そん、そ、そんさくさまが⋯⋯ょろこぶのか、お、おっ、ぉしえてください⋯⋯」

 予想外の言葉に孫策は目を真ん丸くして固まってしまったが、それも一呼吸のことだった。

「なるほど──なるほどな。そういうことか」

 にたりと笑い、顔を伏せようとする彼女の細い顎に手をやって強引に上向けさせる。

「愛しい妻の頼みだ。もちろん教えてやるとも。たっぷりとな⋯⋯」

 濡れる目を深く深く覗き込み、孫策は歓喜に胸を昂ぶらせながら、舌なめずりするように言った。













「にしても、お前、よくこんなことを父上に相談したな」

 事が終わった後、孫策は寝台で頬杖を着いて玉兎の横顔を上から覗き込みながら、心底意外といった様子でそう口にした。

「相談するつもりなんてありませんでした⋯⋯!!」

 ばしばし布団を叩き、真っ赤になって否定してくる。まあ彼女の性格から考えてもそうだろうなとは思っていたし、おそらく先の言葉こそが“父上の命”だったのだろうという見当もついていた。それでもあえて言ったのはその真っ赤になった顔が見たかっただけである。

「わたしが何やら悩んでいるようだと兵たちから孫堅さまにお話がいったみたいで⋯⋯それであなたと仲違いしたのではないかと疑われ、また拗れたら敵わないと無理やり聞き出されて⋯⋯」

 半分はあなたのせいです、とヤケクソになってむくれる彼女の背中を優しく叩いてご機嫌取りをしておく。あんまり可愛いことを言うものだから少し──いや、けっこうかなり──やりすぎたこともあり、玉兎は大変ご立腹だった。
 でもそれってほんとに俺のせいなのかなあと孫策は思わないでもないのだが、言えばまた怒り出すだろうし、これ以上機嫌を損ねさせたところで何も良いことはない。⋯⋯だが、やはり。

「まあ、これでどうすれば俺が悦ぶか少しは分かっただろう⋯⋯と言っても、こんなものまだまだ序の口だがな。これからもっと色々と教えてやる。──励めよ、期待しているぞ」

 絶句のあと、怒りからか羞恥からか、平手が飛んできた。それを難なく受け止めて、孫策は呵々と笑った。懲りない自分と、溢れる妻への愛おしさに。






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