長沙の若虎は悩んでいた。

 それはつい最近娶った長沙の兎こと玉兎についてである。まあ平時の彼の悩みなど七割⋯⋯いや八⋯⋯九割は玉兎についてだが──ともかく、彼は悩んでいた。
 孫堅を言わしめて勇猛果敢な彼でも、怯むことはある。あまり知識や経験のないこと、自信のないことにおいては誰しも大なり小なり足踏みするものだ。いまの彼にとって言えば、そう──房事とか。

 しかし、孫策にはこの手のことについて相談できる者がいなかった。普段であれば真っ先に名を挙げるのは周瑜だが、こと戦や軍議ならばいざ知らず、房事についての相談となるとどうも抵抗がある。同い年であるし、平たく言えばライバル心だ。それにここまで突っ込んだ相談となると如何に周瑜といえど嫌がるだろう。嫌がるというか、絶対呆れる。話を振ったときの心底呆れた顔がまざまざと想像できるだけに却下だった。それでなくとも娶るまでにも散々面倒をかけた自覚があるし、玉兎との関係において、さすがにこれ以上煩わせるわけにはいかない。
 ──となると相手は限られてくる。まさか兵たちに相談するわけにはいかないし、下手すると話が漏れて玉兎がヘソを曲げる。いや、曲げるくらいで済めばいいが拗れるとヤバい。幼馴染とはいえ夫婦になって日が浅いのだ。いきなり侠と女の関係になってしまったし、信頼はまだまだ不安定だと言わざるを得ず、もし拗れたら修復は容易ではなさそうに思われた。
 かと言って、よもや父に房事の相談などできようはずがない。情けなさすぎて口が裂けても無理だ。

「若殿様⋯⋯私の部屋までわざわざご足労なさらずとも、呼びつけていただければこの黄蓋、いつ如何なる時でも飛んで参りますのに」

 孫策は彼の言葉も右から左で、勧められた椅子に腰を落ち着けたまま、沈思黙考していた。
 黄蓋は口が堅く、父の腹心であるということを除いても信頼の置ける侠であると孫策は思っている。この侠相手であれば自分が何を話したところで誰にも漏れはしないだろう。どれほど荒唐無稽なことを言い出そうが、乱心を疑われるような話であろうが、馬鹿みたいに情けない相談であろうがだ。
 孫策はそう思っている。思ってはいるが、はて、どう切り出せばよいものやら分からない。

「茶を淹れますので少々お待ちを⋯⋯」

 腕を組んで黙り込んだまま動かなくなった孫策に、これは長くなりそうだと黄蓋は棚に足を向けた。特別な時にしか飲まない取って置きの茶葉を棚の奥から出しながら、そういえば今日みたいにこの茶を淹れたことがあったなあと思い出す。
 あれは彼がまだ自分を「じい」と呼んでいた頃で、玉兎とやり合って泣いて戻ってきた日だった。殿に泣きつくのは幼いながらもプライドが許さなかったのか、自分の部屋にいきなり来たと思ったらぼろぼろ泣き出したのだ。

 ⋯⋯もしかして新婚早々、喧嘩したか。

 まあ不思議ではない。二人の婚姻はあまりに急な成り行きで、玉兎はほとんど無理やりといっていい形で召し取られた。玉兎は本心はどうあれ口では拒否っていたし、けっきょく「主の言葉が聞けぬのか」と脅されるような形で夫婦となったので、遅かれ早かれ衝突するのではと思っていた。玉兎も内心ではきっと喜んでいたに違いないが、まあ花も恥らう年頃の娘だ。乙女心は死ぬほど複雑なのである。

「⋯⋯相談があるんだが」
「はい、何なりと」

 茶を出しつつ、黄蓋は応えた。しかし孫策はまた黙る。父の孫堅に似て割り切りの良さとアタック精神を持っている彼がこうも渋るとは、よほどのことに違いない。
 孫策はそのまま長いこと湯飲みから立ち上る湯気を眺めていた。茶に手をつける気配もなく、冷めると勿体無いのになあと思ったが、黄蓋も黙って待った。

「玉兎のことなんだが」

 はい来たー。

 黄蓋は神妙な顔で頷きつつ、やっぱり喧嘩かと思った。
 あの娘は頑固だし、いきなり離縁するとか言い出しかねない危うさがある。ようやく、せっかく、収まるところに収まったと安堵していたのにと遠い目になりかける。

「いや玉兎というか、違うな。むしろ俺のことだ」
「⋯⋯と、言いますと?」

 とにかくなんにしても何があったか聞き出さなくては話が進まない。
 促した黄蓋に、孫策は難しい顔で一つ頷いた。

「⋯⋯⋯⋯あれを傷付けぬようにするにはどうすればいい?」
「⋯⋯傷付けぬようにとは、具体的に申しますと?」
「陽が昇ってからあいつの身体を見ると、掻き傷だの歯型だの手の跡だのが残っていて⋯⋯」
「は?」
「いや、俺が夢中になりすぎるのが悪いというのは分かっているんだが⋯⋯」
「ああ、はい。そうですね──ええと、はあ⋯⋯」

 予想外というか唐突すぎて驚いた。黄蓋は意味のない言葉を並べて、話の内容をようやっと飲み込むと、顎に手をやってうんうん頷いた。

「分かっていて自制できるのであれば苦労はありますまい」
「⋯⋯だからどうすればいいのか聞いているんだが」

 気まずげに言う孫策は、目を合わせようとしなかった。普段の彼からは想像もできぬほど弱った顔で虚空を睨みつけている。

「なに──気にすることはありますまい。むしろ玉兎は喜んでいると思いますが」
「あれは傷付けられて本気で悦ぶような酔狂な女ではないと思うが⋯⋯」
「いえ、そうでなく。若殿様ほどの侠を夢中にさせるなど、女冥利に尽きるというものでしょう」
「⋯⋯よく分からんのだがそんなものなのか」
「そんなものです。伊達に歳は取っておりませぬ。じいを信じなされ、策坊ちゃま」

 胸を一つ叩いて言ってみせれば、彼はやはりよく分からないという顔であったものの喜んではいるようだった。

「ふむ⋯⋯よく分からんがそんなものなのか。すまん、下らぬことで時間を取らせたな」
「下らなくなどありませぬ。実を申しますとな⋯⋯昔、殿も同じことで悩んでおられました」
「⋯⋯父上がか?」

 さすがに嘘だろと言わんばかりの表情になった孫策に、黄蓋はくつくつと低く喉を鳴らしながら答えた。

「本当のことですぞ。虎夫人様は玉兎と違ってやたらに自分の腹を隠すような御方ではなかったので“自分は嬉しい”とはっきり申されておりましたが」
「⋯⋯⋯⋯女冥利に尽きるとも?」
「ええ」

 孫策はまたしばし黙って考え込んだ。仮に黄蓋の言うことが真実なら、玉兎のものの見方は母と同じということだ。

「⋯⋯もしかして俺の女の趣味は父上に似たのか」
「やっとお気づきになられましたか」

 あっけらかんと肯定されたが、喜ばしいことなのか孫策にはよく分からない。そりゃ父のことは尊敬というか敬愛している。敬愛しているが女の趣味まで似るのはどうなんだろうとも思う。

「強く優しく美しく⋯⋯玉兎も虎夫人様によく似ておいでです。愛する者のためならば戦場にも立つ気性の激しさと熾烈さが、ことさらに」

 そう言われても、しかし母が戦場に赴いたところを孫策は見たことがない。孫権を身篭ったのは自分が物心付いてからだったが、それ以前も内の守りを担って城に留まっていたように記憶している。玉兎のように進んで戦場に立つような女ではなかった。まあ、たまに訓練場で薙刀を振り回してはいたが⋯⋯。

「⋯⋯俺たちは父上と母上に似ているか?」
「そうですなあ⋯⋯。時折、ハッと息を呑むくらいには」
「そうか⋯⋯」

 父と母のあいだには、口に出さずとも断ち難い絆があることが、幼い自分にも感じられた。二人は言葉がなくとも互いを強く信頼し合っていた。いまの自分と玉兎とはまるで違う、細い糸を手繰るような信頼関係ではなく──。

「⋯⋯俺たちも、あのように⋯⋯父上と母上のようになれるだろうか⋯⋯」
「もちろんですとも」

 とてもそうは思えない。孫策は無意識に首を横に振っていた。

「若──玉兎は恐ろしいまでに若を想っております。あれほど強く若を拒絶したのも、身分違いのせいで若や殿、ひいては孫一族の立場が悪くなるのではという憂慮のためでしょう」
「いまだに俺を遠ざけようとするのもか?」
「でしょうな。時間が解決するとは思いますが⋯⋯若が根負けして玉兎を放さぬ限りは」
「俺があれを手放すなど死んでも有り得ん」
「ならば何の心配もありませぬ」

 黄蓋はそう締め括り、茶を啜った。






 孫策は蜀台の明かりにも分かる玉兎の肩の歯形を指先で撫でながら、ぼんやりと昼間に交わした黄蓋とのやり取りを思い出していた。

「玉兎」
「⋯⋯はい」

 彼女の身体を腕に抱え直しながら呼べば、従順に答えてくる。だが素肌が大きく触れ合うと嫌がるように小さく肩を揺らした。押さえ込むように身体をきつく絡め、彼女のこめかみに鼻先をすり寄せて、孫策は訊ねてみる。

「辛いか」
「⋯⋯なにがです」
「痛むだろう」

 くっきりと残る歯形に、虎が傷を舐めるようにして舌を這わせると、少し血の味がした。

「夢中になる俺が悪いというのは分かっているが、抱かれるのが嫌にならないか」

 わざと試すような物言いをしてしまうのは不安だからだ。相変わらず卑怯だなと思う。

「⋯⋯わたしは⋯⋯」

 玉兎は迷うように口を開き、しかし長々と考え込んだ。あまりに長く考え込むので、もしかして目を開けたまま気絶しているんじゃないかと孫策が案じ始めた頃、彼女はゆっくりと手を伸ばした。遠慮がちに背中に回ってくる細腕に、心の臓を抱かれている心地になる。

「⋯⋯わたしは⋯⋯惜しくて堪らない。あなたの残してくれたものが、この身体から消えるのが」
「⋯⋯ずいぶんと愛いことを言うのだな」

 胸に顔をうずめて、隙間なく身を寄せてくる。こちらからもさらに抱き寄せながら、まさに黄蓋の言う通りであったと、孫策は二重の意味で感動していた。“嬉しい”という言葉は使わなかったが、これはそう取っても構わない台詞だろう。玉兎がこのような返事をしてくるとは夢にも思っておらず、不意に投げつけられたせいで胸を抉るような衝撃がある。

「いくらでも消えればいい──そうでないと残す楽しみがなくなるからな」

 孫策は余裕ぶって言い、耳や項を甘く噛んで、きつく吸って、白い肌にたっぷりと自分の匂いをつける。これは俺のものだと、誰にも渡しはしないと、目に見える形ではっきりと。

「⋯⋯でも、見える場所はやめてください」
「お前が誰のものなのか、見せ付けてやらんと虫除けの意味がないだろう」
「若虎に真正面からけんかを売るような者なんていませんよ⋯⋯」
「それでもだ。いらん心配はしたくない」
「いがいとしんぱいしょうですね」
「お前のことに関してはな」

 玉兎はむず痒そうにはにかんで、ゆっくりと目を閉じた。眠るのだろう。吐息が変わりつつある。

「玉兎」
「⋯⋯うん⋯⋯」

 夢うつつに答える声は、昔の、まだ幼かった頃の口調だった。

「⋯⋯俺を夢中にさせるのは、女冥利に尽きるのか?」

 ふと思い立って囁いてみれば、玉兎はゆるく口角を上げた。吐息が細く笑う。

「そうよ⋯⋯。あなたには きっと わからないだろうけどね⋯⋯」

 彼女はそれですっかり眠りに落ちた。しかし孫策は眠れるわけがない。黄蓋はまったく正しかったのだ。感動がとまらず、抑えられない情動が腹の底から湧き上がり、そろそろと玉兎の尻に手を這わせた。身体の中心を探ると、自分の名残が溢れてくる。我ながら呆れるほどによく出したものだ。けれど仕方のないことだった。
 自分を遠ざけようとする彼女の本心が分からない。だから身体だけでも縛り付けようと、そういう抱き方をしてきた。お前は俺のものだと言い聞かせるように繰り返し。

 だが、今なら。

 ──今なら、これの心は誰のものかと問われれば、他ならぬ己のものだと答えられる。しかも、あまり根拠のない自信を持って。

 腹を隠すのが上手く、何を考えているのか分からないこともある。
 それでも。
 そう、それでもだ。

 それは、いや、もしかしたらそれこそが、父と母とのあいだにあった、何物にも断てない絆なのだろうか。

「玉兎⋯⋯」

 ──思い知ってもらわなくてはいけないと思った。
 自分がどれほど想っているか、愛しているか、求めているか、お前のためならば全てを捧げる、この心も、身体も、命さえ──嗚呼、そうとも、どうか骨の髄まで思い知ってほしい。

「⋯⋯起きろ、玉兎」

 孫策は安穏な眠りに在る玉兎を叩き起こすべく、陶然と名を呼びながら、ふたたび彼女の中に潜っていった。






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