「⋯⋯孫策さま、⋯⋯どうなさったの?」

 早朝だった。

 刺すような視線を感じて目を覚ました玉兎は、起き抜けにしばし固まってから、恐る恐る訊ねた。隣に、寝乱れた着物の裾を直しもせず、若虎が胡坐を掻いて腕を組んでいる。その目はまじまじと彼女を見つめていた。
 夫とはいえ、さすがにこうもじっくり観察するような視線を向けられると居心地が悪い。しかも寝顔だ、少々不躾なのではないかと思う。まあ自分も彼の寝顔を飽きずに眺めていることがあるから、言えたものではないのだが。

「⋯⋯あの、」
「ああ」

 二度目の呼びかけには、溜め息のような返事が返ってきた。
 孫策は困惑する玉兎の顔を見下ろし、つくづくと──穴が開くほどにつくづくと見つめた。

 昨晩、孫策は夢を見た。古い夢だ。玉兎の上背を越す越さない以前の、もっと古い記憶の。

 幼少の時分の孫策は、今の彼からは想像もつかぬほどひ弱な体躯をしていた。その頃から活発でやんちゃで腕っ節も強かったが、歳の割りに身体が小さく、線も細かった。それを幼いながらも孫策自身が気にするようになったのは、隣に立つ玉兎が自分よりも背が高く、身体つきもしっかりしていて、力も強ければ足も速かったからだ。思えばその頃から玉兎を女として意識していたのだろうなと大人になった孫策は自分を分析するのだが、まあそれは今はどうでもいい。とにかく、玉兎は自分と同い年とは思えぬほどに見た目も中身も大人びていた。大人の目から見ればそんなことはなかったのかもしれないが、少なくともその頃の自分はそう感じていた。

 玉兎の生まれた村は山間にあり、山は彼女の庭で、遊び場だった。芝を刈り、山菜を採り、鳥獣を狩り、時にはその獣と共に駆け、玉兎の足腰の強さは山の恵みそのものだった。村の子らの中でも際立った強さを持っていることは、周りの大人が口を揃えて「あれで侠であれば」と言っていたことから孫策も感じ取っていた。五感も獣じみていて、音や匂い、目には見えない気配も恐ろしいほどによく覚り、戦いにおいて必要な才の全てを備えていた。
 当然、普段は城の中で過ごしている子供が勝てるはずもないのだが、孫策はそれでも躍起になって木刀を振り回しては、ままごとのような真剣勝負を挑んでいた頃の話だ。



「ねえ、さくって、そんけんさまのあとを つぐんでしょ?」

 その日、真剣勝負でコテンパンにのされた──傍から見れば転げ回って遊んだ──後に、玉兎からそう訊ねられた孫策は、尊敬する父の話題が出たことで胸を張り、これ以上なく力強く頷いて見せた。

「うん。おれは、ぜったい、とおさまのような、りっぱなおとこになるんだ! りっぱなぶしょうになって、とおさまのあとをついで、それで、⋯⋯」

 沈黙に首を傾げた玉兎に、孫策は意地悪く笑った。

「うーん⋯⋯。おまえが、どうしてもっていうなら、けっこんしてやってもいいぞ」
「わたし、じぶんより よわいおとこに きょうみないわ」

 精一杯大人ぶってみせた孫策は、これまた叩きのめされた。玉兎も背伸びしていただけなのだが、幼い孫策にそんなの分かるわけがない。

「ばかにすんな!! おれは、おまえより つよくなるし!!」
「わたしに いっかいも かったことないくせに?」
「うっうるさいうるさい!! いまに、ぜったい、おまえより つよく、おおきくなるもん!!」

 持っていた枯れ枝を振り回して喚く孫策に、玉兎は今日のおやつのアケビを差し出しながら、笑った。

「ふぅん⋯⋯。じゃあ、わたしが、それまで まもってあげる。おおきくなるまえに、ちいわかさまが、けがしないように」
「うるさい! おれは ちいさくない!!」

 城の者や民からは親しみを込めて“小若様”と呼ばれていたのだが、馬鹿にされているとしか思っていなかった孫策は、他ならぬ玉兎にそう呼ばれたことで癇癪を起こした。アケビを叩き落とし「玉兎のばか!!」と非常に幼稚な罵りを残して、孫策は泣き帰ったのだった。



「⋯⋯小若様か」

 おもむろに呟いた孫策に、玉兎は危険を察知した。勘付かれぬよう、じわりと身体を引く。彼はなにやら自分で自分の言葉に機嫌を損ねたらしい。とばっちりもいいとこだ。最悪である。

「⋯⋯ずいぶん懐かしい名ですね」
「⋯⋯その様子だと覚えているようだな」

 彼女の変化を、孫策も敏感に察知した。逃げられてはつまらない。素早く薄い腹の上に腰を据えると、玉兎の顔が引き攣った。だが、潰さぬように体重を掛けているので、痛いとか苦しいとかではないはずだ。

「なにをです」

 動揺を隠して玉兎ははぐらかしたが、どう転んでも不味い方向に行くだろうことは浅い経験からでも分かっている。ならば極力、傷が浅くなるよう努めねばならない。⋯⋯浅く出来るかどうかは別として。

「とぼけるな。お前、覚えてるだろ」

 幼い頃、二人は幾つかの約束をした。一方的なものもあれば、指きりを交わしたものもある。ちなみに「大きくなったら結婚してやってもいい」という言葉も──孫策にとっては精一杯のアピールで約束のつもりだった──あの時が最初で最後というわけではなく、まだ分別のつかない頃までに、二度か三度は同じやり取りをしている。所詮子供の約束だが、玉兎は律儀に「小若様を護る」という約束を守り通したし、なんならいまも守っている。形こそ変わっても。
 そして、そんな約束の中の一つに、孫策にとっては決して忘れられないものがあった。玉兎も覚えているはずだ。覚えているに違いない。自分よりも昔の記憶を大切にしまい込んでいるのだ、覚えていないほうがおかしい。

「俺がお前より大きくなったら、子供扱いをやめるんだったな」
「そっそんなの、とっくにやめているでしょう!」
「疑わしい」

 ばっさり切り捨て、孫策は自身の帯を解いた。

「どうだ。お前より大きくなっただろう」
「バッカじゃないの!!」

 玉兎は顔を真っ赤にして、自分の上で恥ずかしげもなく真っ裸になった侠に叫んだ。普段の澄ました態度もどこへやら、幼馴染に対する気安い言葉遣いだった。それほど取り乱したといえる。

「なに? 俺がまだ小若様だと? 聞き捨てならんな」
「そんなこと言ってない!!」

 玉兎はばたばたもがいたが、孫策の身体はもちろんビクともしない。力ずくで衿を開かれ、袖から腕を、それから帯を抜かれる。抜いたそれで手首を纏められ、すっかり抵抗できなくされてから、ようやく孫策は腰を上げた。あっと思う間もなく身体を引っくり返される。そのついでと言わんばかりに遠慮も容赦もなく着物を剥ぎ取られ、逞しい侠の体重が背中に圧し掛かってきた。

「や、やめてっ⋯⋯」
「俺は大人になったぞ、玉兎。だがお前は認めていないようだから、これからじっくり分からせてやる」
「もっ、もう、もう知ってます、分かってますから⋯⋯!」

 聡いくせに、察しが悪い。こんなのただの戯れの口実で、やめる気もないと分かっているだろうに。いや、察していて、それでも逃げ道を探っているのか。どちらにしても今朝の玉兎の末路が変わらないことだけは確かだった。

 孫策は夢と同じに意地悪く笑い、玉兎の身体を弄り始めた。彼女が正解を見つけるまで、自分を大人と認めるまで──さて、どれほど時が必要であろうか。なるべく長いほうが楽しめるのだが、さりとて長すぎても面白くない。なんとも我が儘なことを考えながら、孫策はくつくつと喉を鳴らした。

「俺は“大人”になったぞ、玉兎──」






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