「周瑜──ちょっと、いいかしら」
「どうした、玉兎?」
「協力してほしいことがあって」

 長沙の若虎に仕える二人の、いつものやり取りである。

「今日も按摩か?」

 そしてこれまたいつものように、彼女の部屋の寝台で周瑜は首を傾げていた。女の寝床だというのに慣れたものだ。玉兎は孫策のためにと按摩の腕を日々磨いていて、練習台にいつも周瑜を使っているので当然のことである。
 まあはっきり言って練習台などべつに彼でなくともいいのだが、女だてらに武将の身であり孫策の寵愛を受ける玉兎は、兵たちから慕われてはいるもののある面では腫れ物扱いされている。玉兎本人の不興を買うのはもちろんのこと、深く関わりあって若虎の怒りも買いたくない⋯⋯と、そういうわけだ。
 その点、友である周瑜なら良い悪いを正直に言ってくれるので玉兎としては非常に助かるし、孫策と同い年で身体の具合も近いので他の者より勝手が良い。周瑜のほうも、実験台や練習台というと聞こえは悪いが実際のところ彼女の按摩の腕は確かなので、むしろありがたいという利害の一致もあった。

 そんなわけで普段ならもはや何も言わず、勝手知ったる玉兎の部屋とさっさと横になっているのだが、周瑜が今回首を傾げたのには理由があった。
 寝台横の卓の上に、普段と違う物がある。

「ええ。でもいつもの按摩じゃないの」
「それを使うのか?」

 卓に並ぶ、小瓶と湯の張られた手桶、それから布を指して聞けば、彼女は頷きながら答えた。

「そう。香油を使った按摩を試してみたいの」
「ほう、香油を?」
「疲労の回復に良く効くのだとか」
「ふむ、なるほど⋯⋯まあ構わんが」
「ありがとう。じゃ、上を脱いで横になって」
「いや⋯⋯ちょっと待て、さすがに不味いだろう、それは」

 彼女は袖で口元を隠し、目だけでにいやりと厭らしく笑った。

「あらあら、軍師さまはいったいナニを考えていらっしゃるのかしらね?」

 この会話、いつぞやもしたような気がするぞと思いながら、周瑜は頬を引き攣らせた。

「冗談よ。でも言ったでしょう、香油を使うから脱いでもらわないと」
「理屈は分かるが、私もまだ死ぬわけには」
「大げさね。侠でしょう、ぐだぐだ言わない」

 ずどんと寝台に押し倒され、周瑜は服を剥かれた。さすがに力が強い、普通の女であれば彼が座っていたとはいえ押し倒すなど至難の業である。周瑜はさらに、ぽいとうつ伏せにさせられたかと思うと、逃げられないように腰に跨られた。

「ちょっと待て!」
「もう、逃げないで!」
「分かった、分かった! 逃げないから!」

 ──と、ぎゃあぎゃあ一悶着あってから、ようやく周瑜は静かに彼女の指示に従って、大人しく寝台に伏せていた。

「⋯⋯むぅ⋯⋯」

 香油を纏った温かい手が程好く圧を加えながら、滑らかに筋肉を揉みほぐしていく心地良さに周瑜は無意識に唸っていた。
 最近、竹簡を紐解いては新たな兵法を学び、そこからさらに自分なりに練り上げるという作業に夜な夜な没頭していたので、実はけっこう疲れが溜まっていたところだった。ぎゅうと首の筋をほぐされると、肌が粟立つほどの快感に溜め息が出る。

 これは不味い。続けられたら確実に落ちる。

「玉兎⋯⋯すまん⋯⋯」
「どうしたの?」
「ねむってしまいそうだ」

 周瑜の口調はすでにだいぶん怪しかった。

「かまわないわ。終わったあとに身体の具合を聞かせてくれれば」
「すまん⋯⋯」
「あまり根を詰めてはダメよ。若殿さまのお力になりたいという気持ちは、わたしもよく分かるけど」
「ぅうん⋯⋯」

 ふふ、と密やかな笑い声が背に落ちる。そのあまりの優しさに、ここのところ宵っ張りだったのを知られていたらしいと思いながら、周瑜は安楽な眠りに落ちていった。


















 竹簡の音がする。
 からからと、どこか楽しげにも聞こえるほど、軽やかな。

「あら、起きた?」
「⋯⋯ああ⋯⋯」

 目をこすりながら、周瑜は身体を起こした。鼻腔をくすぐる甘い香りがまだ仄かに漂っている。焚かれた香の残り香か、それとも女の匂いなのか。
 周瑜は身体を覆っていた掛け布はそのままに片膝を立て、玉兎を窺った。彼女は竹簡を机に広げたまま席を立ち、茶の用意を始めている。椅子を勧められたらどうしようかと考えた。いま立つのは少々まずいのだが、彼女の寝台にぐずぐずとしがみついているのもまずいということは分かっている。分かっているが、どうにもならない。生理現象である。

「身体の具合はどう?」
「ああ、うん⋯⋯」

 周瑜はなんとなく自分の身体を見下ろした。香油は拭われ、服もすっかり整えられている。それから、首から肩にかけての重さがなくなっていることに気付いて驚いた。背中の張った感じもない。

「ああ⋯⋯いいな。すごく軽い」

 首や肩を回しながら言えば、

「それは良かった。あなたのおかげで勝手も分かったし、これなら若殿さまにも施してあげられそうだわ──はい、どうぞ」

 計ったように丁度良く湯飲みを差し出され、礼を言いつつ受け取った。立ち上る爽やかな香りに急に喉の渇きを覚えて、人肌ほどの温度に冷まされたそれを一息で飲み干してしまってから、しまったなと思う。

「もう一杯?」
「頼む」

 勧められるままこれ幸いと頷いておいたが、一向に寝台から降りろと言い出さない彼女に、もしや自分の下半身の事情に気付かれているのではと疑ってしまった。そろと窺ってみても、彼女はいつもと変わらず涼しい顔だ。まあ気にするだけ無駄と諦める。どちらにしろしばらくは脚も崩せそうにない。

「それにしても本当にずいぶん疲れていたのね。あなたほどの侠が、何をされても起きないなんて」

 彼女の苦笑を含んだ言葉に、周瑜は茶のお代わりを受け取りながらうーんと唸った。

「私はお前のことを信用しているからな。友としても武将としても」
「光栄ね。あなたにそう言ってもらえるなんて、とても気分がいいわ」

 いつものように袖で口元を隠して微笑う彼女が本当に嬉しそうだったものだから、なんだかこちらまで笑顔になってしまう。

「いつもありがとう、周瑜。明日、早速若殿さまにも施すことにするわ」
「それがいいな。あいつは自分の身体を過信しすぎる節があるから」
「まったくね。無茶ばかりなさって。わたしたちがどれほど心配しているか、ちっとも分かってくださらない」
「まあそれも仕方がないな。あれほどの強さを持つ侠だから」
「まったくもう、本当に⋯⋯」

 悲しげに首を横に振る玉兎に、周瑜は微笑ましい気持ちで唇を緩めた。

「お前は本当に孫策が好きだな」
「あら──あなたに言われたくはないわ、周瑜」
「否定はしないのだな」

 ちびちびと茶を啜りながら揶揄えば、

「⋯⋯周瑜のいじわる⋯⋯」

 彼女はすっかり顔を隠して、恨みがましく呟いたのだった。





 そんなことがあった翌々日である。
 日が真上に差し掛かる頃になって、周瑜はそういえばと顎を上向けた。

「昨日から玉兎を見ないな」
「あれならまだ休んでいる」

 なんとも涼しい顔で答えた孫策に、周瑜は謝罪の意を込めて一つ頷いた。二人の仲が良いのは周知の事実で、若虎がこう言うということはつまり兎は⋯⋯まあそういうことである。

「それは野暮なことを」
「構わん。むしろ、周瑜──よくやってくれた」
「は?」

 含み笑う孫策は、非常に機嫌が良い。鼻歌の一つでも歌い出しそうなほどだ。よほどお楽しみだったのか。まあそれならそれでべつに突っ込んで訊くこともない。

 その日はついに彼女の姿を見なかった。





 そして、さらに翌日である。

「ちょっと周瑜──ひどいじゃないの!」
「どうした、玉兎?」

 日が傾き始めようかという頃、顔を合わせるなりぷりぷりと怒ってきた玉兎に、彼は首を傾げた。

「どうしたじゃないわ! なぜとめてくれなかったの!?」
「とめるって何をだ?」
「だっだから、あの、香油を使った⋯⋯」

 もぐもぐ呟いた玉兎と、昨日の孫策の含み笑いが繋がり、周瑜はああなるほどと合点がいった。自分は眠ってしまったので気にならなかったが、香油の匂いと油に滑る肌の感触はどこか妖しくも感じられたからだ。まぐわいのきっかけになるには十分すぎる程度には。

 納得したような彼の様子に、玉兎は墓穴を掘ったことに気付いたがもう遅い。

「だが玉兎、眠ってしまっても構わないと言ったのはお前じゃないか」

 おかしそうに言われ、玉兎はうっと言葉に詰まる。
 確かに言った。言ったけど。
 ぐうの音も出ないといった体の彼女に、周瑜はくつくつと喉を鳴らしてしまう。

「ずいぶん可愛がられたようだな」
「しゅっ周瑜のいじわる!」

 まさに脱兎の如く逃げ出した彼女に、周瑜はとうとう声を立てて笑ってしまった。泣きつくなら孫策にしておけよ、とその背に一応忠告しておく。あれでけっこう嫉妬深いのだ、あの侠は。

「周瑜? なにかあったのか?」

 近くに居たのか声を聞きつけたらしい。幼い声が背後からかかり、周瑜は一つ頭を下げた。

「ああ、若。いえなに──我らが長沙の兎の脚が、今日も変わらず見事だったものですから」

 周瑜の表情でだいたい察したのか、孫権は呆れたような溜め息を吐いた。

「お前も策兄さんも、また⋯⋯あんまり苛めると可哀想だ」
「苛めてなどおりませんよ。私たちは、兎を可愛がっているだけです」

 揶揄い半分の自分と違い、孫策にいたっては本当に“可愛がって”いるだけなので、その言葉に嘘はない。

「まったくもう⋯⋯」

 しゃあしゃあと言う周瑜に、まだ色恋の分からない孫権は玉兎が哀れでならず、慰めに行ってやることにした。

 ──それがまた兎の身を危うくするのだとも知らず。






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