ダンシングダガー
張三兄弟を討ち取った劉備らが長沙の城に招かれて、幾日か。
連日続いた祝勝の宴もさすがにお開きとなり、することのなくなった夜半、暇を持て余した張飛は桃園のほうへ足を伸ばしていた。最盛期を迎えている桃の花の下で開かれていた宴の跡はすっかりなく、祭りの後の寂しさが胸に吹き込んでくる。張飛は桃を仰いでぶらぶら歩いていたが、池にかかる小さな橋の上に佇む影にふと気付き、喜び勇んでそちらへ向かった。足取りは軽く、しかしそれを悟られないよう、慎重に。
「よっ、玉兎」
背後から声をかけたが、彼女は驚いた様子もなく視線を寄越してきた。女といえどさすがに戦人なだけはある、気配を覚っていたのだろう。ちょっと残念だ、驚いた顔が見れるかもと思ったのだが。
「張飛さま、どうなさったの? このような夜更けにこんなところまで」
「いやあ、美人が寂しそうにしてたもんだからよ。あんたこそどうしたんだよ? こんな夜更けに女一人でお散歩たぁ感心できねえなあ」
肩を竦ませながら、張飛は隣に並んだ。警戒されないようにさり気なく、だが腕が触れるほど近く寄る。
「月を愛でていたのです。見事に肥えて⋯⋯なんて美しいんでしょう」
「確かに、こりゃあ見事な満月だ」
同意して空を仰ぎつつも、玉兎を盗み見た。闇に蒼く染まる横顔は、まるで偃月のよう。張飛は上向くその細い顎に手をやった。くいと自分のほうに向けさせればまんまるになった目も、まさしく頭上の月のようだ。
窺うように顔を寄せると弱く胸を押されたので、玉兎の細腰に手をやりながらも張飛は一応留まった。
「張飛さま⋯⋯わたしはタマウサギなのです」
「はっは、確かに。アンタの目、兎みたいにまあるいなあと思ってたとこさ」
彼女はきょとんとしたかと思うと、次には口元を隠して微笑った。
「ふふ⋯⋯面白いお方」
笑いに顔を伏せようとするのを押し留め、彼女の腰を引き寄せながら張飛は身を乗り出した。額が触れるほど迫ると、彼女の目がすいと細まる。怯えた素振りは見せないのに、唇を許してくれない玉兎に焦れてくる。口元を隠す手元を退けさせたいが、腰を捕らえていないと逃げそうだ。
「張飛さま、わたしは──」
張飛がどうしようかなあと考えていると、ダッシュでこちらに向かってくる重い足音がした。
「張飛ィィいいいいい! お前という奴は!!」
「っだぁー!!」
走り寄ってきた勢いそのまま、フルスイングで殴りかかってきた関羽の拳を張飛は間一髪のところで避けた。
「あっぶねえだろ! 玉兎に当たったらどうすんだよ! ⋯⋯あれ、玉兎?」
抱き締めて庇ったと思ったのに、腕の中にその姿がない。張飛がきょろきょろと視線を泳がせれば、彼女はすでに城に戻る道を辿っている。
「お戯れもほどほどになさってくださいね。おやすみなさいませ、張飛さま、関羽さま」
去っていく後姿に、張飛はふつふつと怒りが湧いてきた。その怒りはもちろん、邪魔した関羽に対してだ。
「⋯⋯っなァにすんだよ! バ関羽! せっかく良い雰囲気だったのに!!」
「お前こそなにをやっている!? この馬鹿たれめ!!」
ごん、と今度こそ張飛の頭に拳が落ちた。まさに怒りの鉄拳だ。
「もしやと思って探してみれば、本当に、お前というヤツは!」
「まあまあ、そう怒りなさんなって〜。悪く思われちゃいねえみてえだしさ」
ブチギレている関羽に、怒鳴り返すのは不味そうだと張飛の野生の勘が働いた。人懐っこい笑みを浮かべた彼に思わず毒気を抜かれた関羽の勢いが弱まって、振り上げられていた二発目がぴたりと止まる。
「⋯⋯なに?」
訝しんだ関羽が、ゆっくりと腕を下ろしたのを認め、張飛はふふんと勝ち誇って顎を上向けた。
「アイツさ、自分はタマウサギなんだと。寂しいと死んじまうなんて可愛いこと言うよなあ。ってわけで、人の色恋に首突っ込むなんて野暮な真似はもうよしてくれよ。次は俺も黙っちゃねえからな」
ここぞとばかりに攻撃に転じた張飛だったが、
「張飛⋯⋯お前、タマウサギが何か知らんのか」
「へ? 玉みてえに丸い兎のことじゃねえの?」
深々と、哀れみを含んだ関羽の溜め息に、張飛はむっと顔を顰めた。よく分からないが馬鹿にされているのは分かる。
「なんだよ!」
「タマウサギというのはな、月に住む兎のことだ。妙薬を搗いていると言われている」
「へえ。そりゃきっと恋の病を治す薬に違いねえな」
一転してからから笑う彼に、関羽はまた一つ溜め息を吐いた。今度は揶揄いや小馬鹿にする気持ちをまったく含んでいない、純粋に哀れみのそれだ。
「お前、いい加減に振られたことに気付かんか」
「は?」
「虎錠刀に宿る虎暁の魂は月の象徴という⋯⋯そして月に住まうタマウサギ。
⋯⋯彼女の心は孫一族と共に在るということだ。諦めろ」
「ええ⋯⋯。あんな胸でかくて良い女を諦めろってのかよ?」
「阿呆。そんな良い女が手付かずだと思っているのか? 拙者も直接聞いたわけではないが、彼女は孫策殿の妻だそうだぞ」
「は!? うっっっそだろ! 俺は信じねえぞ!!」
「信じないのは勝手だが、お前、間違っても手を出すなよ。色恋沙汰で孫一族とやり合うなどごめんだぞ⋯⋯」
その口調がマジもマジなものだったから、張飛はがっくりと膝を着くしかできなかった。
「⋯⋯お前、俺以外の侠に身体を許すとはどういう了見だ?」
暗い廊下で不意に声をかけられ、玉兎はどきりとした。気配は感じ取っていたので予見はしていたが、傍の柱の影から現れた孫策の雰囲気があまりに不気味で、そっちのほうに驚いた。これは明らかに機嫌が悪い──悪いを通り越して、キレている。
「誤解を招くような言い方はやめてください。張飛さまとはなにもありませんし、だいたい、覗き見のような真似をなさるなんて」
「お前が愚かにも人目につく場所で不貞を働いただけだろうが」
「不貞だなんて人聞きの悪い⋯⋯」
余裕ぶって溜め息を吐いてみせるが、玉兎も気が昂ぶり始めていた。だって孫策は、言葉にすればただ妬いているだけだ。まあ妻の頬や腰に気安く触れられたらこういう反応をするのが普通なのだろうが、孫策は度合いが違いすぎる。そしてそれは、それだけ想いが深いということに他ならない。
「お願いですから、そんなに怒らないで。張飛さまはわたしがあなたの妻と知らなかったようですし」
「庇い立てするつもりか」
「違います。わたしを信じてほしいと言っているんです。わたしは、あなたと共に──あなたのために、死にます。いつでも」
黙り込んだ孫策の胸に、玉兎は甘えた仕草で擦り寄った。あの日の言葉に嘘はないことを、自分自身が一番よく知っている。
「信じられないのなら、首を刎ねるなり八つ裂きにするなり、好きになさればいいわ。不貞を働いた妻です。誰も咎めはしません」
頭上で舌打ちが聞こえた瞬間、玉兎の視界はぐるりと回っていた。孫策は肩の荷を気遣うこともなく、足音荒くずかずかと歩き出す。乱暴に担ぎ上げられ、振動が腹に響いて苦しいのに、玉兎は喉を震わせて笑い出していた。
「お手柔らかに⋯⋯」
「してもらえると思うのか?」
「もう。本当に意地の悪いお方」
「気安く触らせたお前が悪い」
言葉は剣呑だが、孫策の気配からは禍々しさがすっかり消えて──とはいえまだ棘は残っていたが──穏やかなものになっている。それでも今夜は無事に済みそうにない⋯⋯が、それを喜ぶ自分もいるからどうしようもない。嫉妬に狂って求めてくる若虎の、その牙の鋭さといったら⋯⋯。
玉兎は少し先に待つ快感と多幸感を思い、ただ運ばれるまま、胸を高鳴らせていた。
「よ、玉兎」
背後から声を掛けられ、玉兎は振り返った。昨夜と同じ場所、同じ時間である。昨日の今日なのでここには来るまいと踏んでいたのだが、甘かったというか裏を掻きすぎたらしい。
「⋯⋯こんばんは、張飛さま」
ついさきほど孫策の寝所からやっとのことで逃げ出してきたのだが、これは連れ戻されそうだ。さすがに今夜も軟禁されるのはいくら玉兎でも辛いものがある。足腰ががくがくになっているせいで目の前の侠から逃げるのにも苦労しそうだし、もう踏んだり蹴ったりだ。
「なんだ、元気ねえな?」
「いえ⋯⋯べつに」
昨夜の孫策が予想以上だったことも、玉兎の声を沈ませた。今夜もあの全力投球を受け止めなきゃいけないのかと思うと今からぐったりしてしまう。
「鬼髭から聞いたんだけどよ、お前さ、ほんとに孫策の嫁さんなのか?」
「え? ああ、はい、そうですが⋯⋯」
思い耽っていた玉兎は半分聞いていなかったが、夫の名だけは聞き逃さなかった。頷けば彼が昨夜と同じようにぐいと身を乗り出してきたので、今夜は玉兎も半歩下がった。手を触れさせでもしたら今度こそ孫策の逆鱗に触れるだろう。
「⋯⋯ほんとかよ?」
「ええ」
「⋯⋯嫁を戦場に出すって、あいつも何考えてんだかよく分かんねえな。俺だったら絶対、嫁さんが危ない目に遭うような真似させねえぞ」
ただの独白なのか、それともアピールなのかいまいち分からない。というか、彼も懲りない侠だ。いや、まだ酷い目に遭っていないだけか。遠くからこちらに向かってくる若虎の気配を感じ取っていた玉兎はすでに諦めの境地に達していた。
「夫婦にも色々形がありますからね。強いて理解していただこうとも思いませんけど」
「そりゃそうかもしれねえけどよ」
それでも、むうと難しい顔をする張飛に、玉兎は微かに笑った。
「わたしが共に戦場に出ることを許してくださるのは、あのお方の優しさなのです。わたしは虎の牙です。それ以上も以下もなく、虎から離れれば死ぬだけの──だからこそ」
穏やかに言う彼女に、張飛はようやく口を噤み、それと同時に負けを悟った。
べつに引っ掻き回したいとかそういう気持ちは全くない。ただ、彼女と孫策の関係が自分の中で納得がいかなかったので、あわよくばと思わなかったわけでもないのだが。
「⋯⋯見かけによらず気が荒いんだなァ、あんた」
「そうですね⋯⋯」
そのとき、曖昧に笑う彼女の背後にぬっと影が現れた。張飛も気配を感じていたので驚きはしなかったものの、現れた侠が玉兎の肩を抱いてこめかみに鼻をうずめたのには目を丸くした。
「探したぞ、玉兎」
言いながら、孫策は抱いた手を着物の合わせに滑り込ませている。玉兎は反射的に身を捩ったが、すぐに大人しくなった。抵抗すればますます孫策の性を燃え上がらせるだけだ。
「人前でこういうことはやめてくださいと何度申し上げたら分かってくださるんですか」
「俺が悪いと言うつもりか?」
「だいたい、酒も入っていないのに。いい加減になさってください」
「お前こそいい加減にしろ。昨日の今日でまた不貞を働くなど呆れて言葉が出んぞ」
「だから人聞きの悪いことを言わないで。昨日、あれだけわたしの潔白を証明したじゃないですか──ちょ、いたいっ!」
衿を引っ張り剥き出しになった薄い肩に、孫策が思い切り噛み付いた。その肌に残った歯形が一つや二つではないのは夜目にも分かった。
「このっ⋯⋯すっすけべ!!」
離してやると、玉兎は半泣きで言い捨て、城のほうへ逃げて行った。
「⋯⋯あァ〜あ、カワイソ⋯⋯」
「半分はお前のせいだがな」
その後姿を見送りながら張飛が言えば、孫策が鋭く斬り込んでくる。
「ワリィワリィ、昨日は知らなかったもんだからよ」
「ほお。では今夜は知っていて粉をかけたと」
「だってフツーは可愛く思ってる嫁さんを戦場に出すなんて思わねえだろ? もしかして政略結婚でお互い気持ちがねえのかなーみたいな?」
肩を竦めて動機を述べると、孫策も同じように肩を竦めてみせた。それからやれやれと首を横に振り、踵を返してしまう。これ以上、責める気も咎める気もないらしい。でかい侠だ。
「張飛」
「うん?」
「確かに気性の荒いところもあるが、俺にとっては可愛い妻なのだ。お前たちがあれの命を救ってくれたことは感謝してもしきれん。改めて礼を言う」
最後にわずかに目線をやってきた彼は、言うだけ言ってさっさと去ってしまった。
「はあ〜⋯⋯。負けた負けた」
今夜もぽっかりと浮かぶ月を見上げ、張飛は深く息を吐いた。まったく、でかい侠だ。
「虎の牙ねえ⋯⋯」
離れれば死ぬだけの。だからこそ。
二人のあいだには、割って入れない、切っても切れない断ち難いものをまざまざと感じた。けっきょく、ただの当て馬を演じただけだったということだ。あまりに見事に振られたので悲壮感はないものの、だったら昨日の時点で回りくどい言い方しないでくれればと思わないでもない。
張飛は月下の城に視線をやった。これからくんずほぐれつするのだろうと想像すると、飲まずにやっておられない。
「よっしゃ〜! あいつら巻き込んで自棄酒だ!!」
拳を握って叫び、張飛は駆け出した。めでたく振られたその夜に、義兄弟の契りを交わすなどとは夢にも思わずに。