玉兎。それは星になった女。

 望みはないと分かっている。諸葛亮もそう言った。だが、それでも、曹操は諦めきれずにいる。

 この禊の旅に立つ前に、捜索隊を出した。墜ちたと推測される方角のみならず、周辺の四方八方を探させたが、遺体どころか羽のひとひらさえも見つからなかった。もはや万策尽きたかに思えたとき、劉備が諸葛亮の星読みのことを思い出して、それで最後の望みに賭けた。恥を忍んで諸葛亮に星を読んでほしいと頼んだが、彼は首を横に振った。もうやった、と。その一言だけで、結果を知るに十分だった。
 往生際悪く、では遺体はどこにあるのかと訊ねた。分からない、彼女の星はすでに見えないと諸葛亮は答えた。
 ただ、ほんの一かけらでいい。骨の一片、羽のひとひら、髪の一筋、これこそが玉兎だと、そう言えるものがほしい。だが、何も、何一つ、見つからなかった。それが曹操を苦しめる。

 果てた姿を誰も見ていない。決定的な瞬間も。ならば──もしかしたら。

 細い糸のような希望を与えられることは、絶望するより辛かった。決して掴むことのできない光明を、逃げ水のオアシスを求めるように、いつまでも追い続けろと、それが己の罰なのだと、そう思えるほどに。

 彼女はこの世界のどこかで、息を潜めているだけかもしれない。自分を斬った男の目から逃れたくて、身を隠したのかもしれない。諸葛亮はそれに協力して、嘘をついているのかもしれない。

 まったく馬鹿馬鹿しい妄想だ。そんな可能性はない。自分と違い、おそらく諸葛亮はそれほど残酷な男ではない。もしも玉兎が生きているのなら、彼女に話を通して、羽のひとひら、髪の一筋でも目の前に突き出しただろう。そうして諦めさせて、彼女が平穏に生きていけるようにもしてやっただろう。

 そう──分かっている。それでもだった。

 曹操は息を白くしながら、重い足取りで道を進む。
 ひどく寒い。つま先どころか膝下全体が痛いほどだ。だが彼女のいる場所はもっと寒いのだろうかと、顔を上向けた。雲が垂れ込める空は昼間にしては暗いが、それでも仄明るく、吹く風以外に何もない。星は見えない──分かりきったことに落胆し、この分だと夜も晴れないだろうと諦観を覚えてうつむいた。雪に吸われて音がない。生き物の気配も、匂いもない。凍てつく風だけを共にして、まるで死んだような世界に癒される。いまの自分に相応しいと。

 しかし、踏む雪の白さに、やはり彼女を思い出した。

 ああ、思えば、雪のような女だったと、曹操は目を細めた。その心に触れると溶け出すように笑った。舞う羽根は降る雪に似て、踏み躙られて汚されても、その跡さえも残さずに。美しく、儚く、発つ鳥は跡を濁さなかった。

 “お前が意思のない傀儡に成り果てた姿など、見たくはない。だから──私の中で永遠になれ。美しいお前のままで”

 そうして彼女は永遠になった。まさしく自分の望んだ通りに、ずっと変わらない姿で、優しい笑みで、誰にも穢されることのない純潔の白い月に。

 それは同時に、闇より昏い夜明けの始まりだった。それも分かっていたことだった。覚悟していたはずだった。正義の前に瑣末なことだと斬り捨てられたのは、世界と彼女一人とを天秤に掛けたとき、どちらが重いかなど明白だったからだ。最大多数の幸福、それこそが正しい道だと信じていた。彼女を含めた多くの犠牲を、他の誰でもなく、誰に命令されるでもなく、自分一人が背負えば済むことだと信じていた。なのに今になって、悪い夢から覚めたように、この手に入れたはずの彼女を求めている。

 本当は、心の底では分かっていた。見て見ぬ振りをして、手に入れたと思い込もうとしていただけだった。自分は、彼女の何をも、何一つさえ、手に入れてなどいない。彼女の身体も、心も、信念も、信頼も、命さえ、何もかもを奪っただけで、この手には何も──いや、ただ一つ、罪だけが残った。

 彼女を斬り、そして死なせた。己の過ちのために。
 どれほど償っても償いきれぬ罪だけが残って、いま、彷徨うように生きている。


 どこか遠く、微かに剣戟の音がしている。生き残ろうとする、命の音が。


 熱い血潮の滾りを耳にしても、曹操にはいまだ全てが虚しかった。






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