月夜の闇
曹操は苛立っていた。絶望の先の諦観の中に在り、久しく感じていなかった心の揺れだった。ままならぬ自身の身体に対する感情だ。
この上なく滑稽は、どれほど悔恨に苛まれようと腹は減る。まったく馬鹿馬鹿しいことである。身体の素直さにはいっそ感心するほどだ。同時に心底呆れ果て、しかしいまだ斃れるわけにはいかない旅路にある。⋯⋯が、ここにきて路銀が尽きた。まあどうでもいいと贖罪の旅を続けてきたものの、食わねば餓えるし直に死ぬ。そしてそれを望んでいる。許されぬと分かっていながら、安易な死に身を委ねたがっている己がもう本当にほとほと嫌になっていた。
ぼんやりとした足取りで、曹操は活気に満ちた通りを進む。陽光は暖かく、沈む彼になど素知らぬ顔で人の気配とざわめきは賑やかだった。なんだか懐かしいなとさえ思う。人を、生き物の気配も温もりも避けてきた。なるたけ独りであろうとしたが、結局、人は独りでは生きられはしないのだ。
喧騒が沁みたが、それは傷に優しかった。抱えたものを放り出して甘んじたくなる。玉兎は許すだろう。きっと許すに違いない。あの日、あの夜に降りかかった微笑みは、曹操にそれを確信させていた。そんなはずはないとどれほど自身に言い聞かせても、元より責める気もない微笑だったと。
分かっているから自分で自分を律するしかないのに、折れそうになる。実際、膝が折れた。
もう、限界だった。
「ちょっと、お兄さん?」
「大丈夫かい?」
集まってきた人々の心配の声、助け起こしてくる手。曹操は項垂れたまま、大人しく厚意に身を預けた。許されるはずもないのに。
「ええ〜⋯⋯。しょうがないなぁ⋯⋯お兄さん、立てるかい?」
回らない頭が、なんということもないやり取りを揺り起こす。記憶の水底に沈んだような日々が、沈殿した泥が舞い上がるように戻ってくる。何度でも。
“口に無理やり詰め込まれたいんですか?”
食事を忘れるたび、玉兎は笑顔でそう言った。有無を言わせぬ、逆らえない笑顔だった。
“部下に睡眠の大事さを説いても、ご自身が疎かにしていたんじゃ説得力が全然ないですね”
徹夜するたび、玉兎は呆れ顔でそう言った。仮眠室に放り込まれて寝付くまで見張られ、時折、子守唄までオプションでついてきた。まるきり揶揄われていることは分かっていたが、悪い気もしなかった。
──今にして思えば、甘えていたのだ。
世話を焼かせることで気を惹いていた節さえある。多忙で気が立っているときは、身勝手にも、煩わしく思ったことがないでもない。だがそれでも、食事と仮眠を取らされた。疲労やストレスから酷い態度を取ったときでも、彼女は変わらなかった。
嗚呼、そうだ。
彼女は、最期まで、変わらなかった。
“食事と睡眠はしっかり取ってくださいって、あれほど言っているじゃないですか”
いつだかの言葉がリフレインする。そのときも玉兎はぷりぷり怒っていた。本人は本気で怒っていたつもりなのだろうが、年下だからというだけでなく、見上げてくる彼女は可愛かった。自分はなんと答えたのだったか。あとで、とか、これが終わったら、とか言ったかもしれない。その類の言葉を吐くと、彼女がいつもひどくもどかしそうな、悲しげな表情をするものだから、それで観念した。本気で心配しているのが分かる顔をするから、くすぐったくて苦しいほどだった。
“お食事が終わるまで見張ってますからね”
──分かった、分かった。ちゃんとするから。だから悲しまないで、泣かないでくれ。お前には笑顔でいてほしいんだ。本当だ。嘘じゃない。
約束する。
お前がいなくても、私は、ちゃんと生きるから。生きて、出来る限りの償いをするから。
たとえ二度と色を取り戻すことのないこの褪せた世界でも。