東の灯火
「曹操殿?」
「私は奴には下らない。⋯⋯信長にそう伝えろ」
声をかけてきた佐助に、曹操は首を横に振った。玉兎との語らいを終え、すでに見切りをつけた眼下の戦場に背を向ける。信長の間違いを証明するにせよ、これは他国の国取り合戦だ。安易に首を突っ込んで混乱させるのはまずい。何か手を考えなければならないだろう──。
「やめろ!!!!」
不意に戦場から上がったその声に、立ち去ろうとしていた曹操は反射的に振り返った。無意識のうちに足が動いて、崖際に戻る。信長の長大な刃の前に、飛び出した一つの影。夕陽を受けた赤い翼は、血に濡れているようにも見えた。
「──玉兎、」
茫然と、呟く。
まさか。いや、そんなはずはない。
「逃げろ!! ⋯⋯っ、はやく!!」
刃を刃で受け、彼女は背後の武将に叫んだ。同時に曹操も叫び、飛び出していた。
「やめろ、信長!!!!」
剣を抜きつつ全力で突っ込んだが、一歩遅かった。彼女は武将と共に一太刀に吹き飛ばされ、しかしギリギリのところでどうにか刃をいなし、傷を負うのは避けているのが見て取れた。曹操は重力に従うその身体を腕に受け止め、夢中で崖の上へ舞い戻った。
「⋯⋯その御方は?」
信長の前に飛び出したことで身構えている佐助に応えず、曹操はそっと膝を着いて彼女の脚を地面に下ろした。よく見れば総面を着けていて顔が定かでない。だが、声は。あの声は、確かに。
期待と恐怖が鬩ぎ合い、伸ばした手が震える。ゆっくりと、外した面の下から現れたものに、曹操の全身が戦慄いた。
──玉兎。星になった女。この手にかけた、最愛の。私の心の臓。
違う。いや、違う。そんなはずがない。彼女は死んだ。望みはない。諸葛亮もそう言ったのだ。世界には自分と同じ顔を持つ者が三人は存在するという。きっとそうだ、そうに違いない、ただの他人の空似──。
でも。
でも、もしかしたら。
動悸が忙しない。真の混乱とはこういうものかと、曹操はわずかに残る冷静な部分で思った。彼女を支える手がさらに震える。胸に湧き上がる感情が喜びなのか、それとも落胆の前の恐怖か、それすら分からない。ただじっと見つめた。抱いた感触に、少しやつれただろうかと思ったが、いや──こうして抱き留めたことなどない気がする。分からない。ただ、自分の心臓だったことしか。
長いこと、曹操は気を失っている彼女の顔を見つめていた。信長がその場に戻ってきたことで、ようやく、曹操も現実に引き戻された。
「曹操よ。貴様、そやつとどういう関係だ?」
「⋯⋯お前には関係ない」
「腹心の部下を失ったそうだな」
「⋯⋯っ!!」
そこまで分かっていて──。
曹操は瞬間的に血が煮えた。だが怒りのあまり反論の言葉が見つからない。
「なるほど、感動の再会⋯⋯といったところか?」
「黙れ」
「お前の腹心の部下ならば見込みがあろう。そやつと共にワシと来い、曹操」
「私は──」
激発しかけた曹操は、腕の中の身体がわずかに身じろいだことで言葉をとめた。見下ろすと、小さく呻いた彼女の瞼がゆっくりと持ち上がっていくところだった。現れた瞳に、呼吸すらとまる。
「玉兎──」
「⋯⋯っ!!」
明確に目覚めた瞬間、彼女は曹操の腕を振り払って立ち上がり、崖際に走った。
「嗚呼っ⋯⋯!」
死屍累々の戦場跡を見下ろし、顔を覆って膝を着く。悲しむその様はまさしく彼女のものだった。諸葛亮は嘘を吐いたのだ。だがそれを責める気にはならなかった。いや、責める資格もないことを分かっている。
「⋯⋯⋯⋯玉兎」
声をかけていいものか逡巡し、曹操がついにその名を呼んだとき、彼女はにわかに立ち上がった。眦を涙に濡らして信長に掴みかかろうとしたが、佐助にとめられる。
「なぜだ! もう勝負は決していたのに、どうしてここまでする必要があった!」
羽交い絞めにされ、それでも叫んだ彼女を、心底呆れた様子で信長が鼻で笑った。
「威勢は良いが頭は悪いようだな。だが、ワシの剣を受けて斃れなかったことは褒めてやろう。なによりその目が気に入った──玉兎だったな」
彼女は視線を逸らさず、しかし黙り込んだ。曹操には、その姿が困惑しているようにも見えた。
「ふ⋯⋯このワシにそこまで反抗的な態度を取るか。実に面白い。貴様も曹操と共にワシの物となれ」
「わたしは誰の命も聞かない。ましてこんな非道を働くお前の命など」
「うつけめ。手緩い戦など争いが無駄に長引くだけぞ。これはあくまで平和への布石なのだ」
彼女が落胆したように怒らせていた肩を落としたので、佐助は警戒しつつも離してやった。すっかり力の抜けた両肩は思っていた以上に小さく細かった。
「平和⋯⋯」
「そうだ。天下を統一し、そうして戦を無くすためのひと時の犠牲に過ぎん──」
“私は、世界を救おうとしているのだ”
「嘘だ」
“嘘だ。こんなことをしても世界は癒されたりなんかしない”
「愚かな⋯⋯この程度のことも理解できぬのか」
“他の誰が理解せずとも、お前だけは理解してくれると思っていたんだがな”
「ここにあるのは殺戮と憎しみだけだっ⋯⋯!」
“あなたの怒りと悲しみは分かります。それでも⋯⋯こんなこと間違ってる”
「思った以上に頭が悪い奴よ⋯⋯」
“ここまで頭が悪いとは思わなかった。仕方のない奴だ”
曹操は息を乱し、茫然と眺めていた。あの時とまるで同じやり取りに、過去と現が交じり合う。そこに立っているのが本当に信長なのか、自身を映した鏡像なのか分からない。
“お前も分かっているだろう。この国にはもはや一刻の猶予もない。辛抱してくれ。代替エネルギーと修正パッチが出来るのまでのひと時の辛抱だ”
“でもそのどちらもが出来なかったら、”
“玉兎。私は確かに、お前に多くを語らなかったこともあるかもしれない。だが嘘を吐いたことがあるか?”
うつむこうとする頬に、曹操はことさら優しく手をやった。
“玉兎”
猫なで声に、肩が震え、息が乱れる。表情はきつく歪み、だが泣いてはいなかった。
“お前の理想は自分の元にあると、あなたはわたしにそう仰いました”
“ああ”
“それこそが嘘だった”
振り払われた手に、曹操は驚愕した。彼女は悲しみこそすれ、自分を拒絶するなど微塵にも思っていなかったからだ。
“玉兎──”
互いに剣を抜いたのは同時だった。
“私を殺せるのか”
答えない彼女に、さらに頭に血が上る。
“私と本気でやり合って勝てると思っているのか”
“あなたをとめてみせる──たとえこの命が尽きることになっても”
“⋯⋯玉兎”
曹操は切っ先を下げた。諦めと落胆と、狂いそうなほどの支配欲に。
“お前が意思のない傀儡に成り果てた姿など、見たくはない。だから──”
“⋯⋯曹操さま”
わずかに迷いと期待の見え隠れする瞳が、滑稽で愛おしくて、それ以上に憎かった。
“私の中で永遠になれ。美しいお前のままで”
息を呑み、玉兎は目を見開いた。刹那で迫った刃が、袈裟掛けに身を裂いていく。混乱を極めた彼女の判断は、それでも素早く正確だった。翼を超振動させ、曹操を怯ませると同時に窓の強化ガラスを砕き、雲の重く垂れ込める暗色の空に飛び出していった。
“⋯⋯追いますか? 曹操様”
暗がりからの問いかけに、曹操はしばし無言で窓の外に視線をやった。稲光に時おり浮かび上がる影は徐々に小さくなっていく。
──離れていく。自分の手から。
ならば、もう、必要はない。
“手応えはあった。直に死ぬ⋯⋯捨て置け”
私の下には、従う者だけが在ればいい。
“承知いたしました⋯⋯”
囁きを残して司馬懿の気配は消え、入れ替わるように、風通しの良くなった部屋に部下がなだれ込んできた。
“曹操様!”
“何があったんだ!?”
“騒ぐな。何でもない”
“けどよ、⋯⋯っ!?”
“これは⋯⋯いったい?”
夥しい血痕を見て、夏侯惇と夏侯淵は素早く得物を構えた。警戒しつつ窓辺に寄っていく。しかし一人動かず、曹操を見据える者がいた。
“曹操様。⋯⋯玉兎は?”
その張遼の言葉に、さすがに鋭いなと思う。教育を任せていたこともあって彼女の性格をよく把握している。
“去った”
“⋯⋯曹操、様⋯⋯まさか⋯⋯”
“忘れろ。あれはもう戻らん”
夏侯淵は言葉を失い、構えていた腕をだらりと下げた。彼らの悲しみも、苦しみも、絶望も。
全ては自分が背負えば済むことだ。
──力。それがあれば。
それでも⋯⋯救えると思っていたんだ。
「⋯⋯玉兎、」
顔を覆って嗚咽をこぼす彼女の肩に、曹操は迷い迷い触れた。触れていいはずがないと分かっていながら、その姿の痛々しさに、手を伸ばさずにおれなかった。
「⋯⋯⋯⋯あなたは⋯⋯」
濡れた目が見上げてきて、思わず視線を逸らす。無垢なそれを、とても受け止められない。だが次の言葉に曹操は目を見開いた。
「⋯⋯だれです、わたしを知っているのですか」
「おまえ、⋯⋯」
──記憶を失っている?
それに気付いた瞬間、曹操は己のあまりの卑劣さに身震いした。自分はこれほどまでに、とんでもなく、底なしに卑劣だったのか。このまま何も思い出さないでくれたらなどと──。
彼が自身に愕然としているうちに、彼女は何も答えないことに警戒したのか、満ちた月に飛び込むようにして去ってしまった。動くことも、呼び止めることさえ出来ず、曹操はただ見送る。無意識のうちにその背に手を伸ばしていたことに、彼女の姿がすっかり見えなくなってからようやく気付いた。
呼吸も忘れていた。大きく息を吐き、知らず、肩を落としてうつむいていた。
夢だったのではないかと疑い、手の平を見た。この腕に抱いた体温もすでにない。わんわんと耳に残るのは悲痛な叫び。それは“あの時”に針を巻き戻したかのような。
そんな、邂逅だった。
その後、信長を強襲した敵を退け、一夜が明けると曹操はブルーウイングに連絡を入れていた。敵勢力がどういうものであるにしろ、このまま何もしないというわけにはいかないし、一時とはいえ信長の肩を持った以上、自身も排除すべき対象と認識されているだろう。信長にも正体が分からぬとなると、一人で相手をするのは危険だ。
「留守を守ってくれて助かったぞ、張遼」
「はい」
互いに一通りの報告を終え、曹操は最後に少し考え込んでから、
「⋯⋯張遼」
「はい、何か」
もう一度部下の名を呼び、しかし彼は口を噤んだ。玉兎のことも報告しておこうかと思ったのだが、あれは自分の願望が見せた妄想だったのではないかとふと不安になった。妄想でないとしても、本当に玉兎だったのかどうか──確たる証拠もないが、ただ一つ、身体を見れば分かるだろう。自分のつけた刀傷が跡もなく癒えているはずがない。しかし相手はすでに去った後だ。
「いや⋯⋯なんでもない」
もしもあれが幻でなく、本当に玉兎だったにせよ、記憶がないなら死んだも同じだ。ぬか喜びをさせるべきではない。万に一つ、ふたたび生きて再会し、記憶を取り戻したら。その時にこそ告げるべきだろうと胸に仕舞い、曹操は通信を切った。沈む思考に引き摺られ、自然とうつむいた──瞬間。
「⋯⋯っ!?」
はっと顔を上げ、曹操は視線を走らせた。人ごみに紛れ、姿を消した者は。
「司馬懿ディスティニーガンダム⋯⋯!」