「ああ、目が覚めました? 具合はどうですか?」

 落ちてくる優しい微笑を、曹操はぼんやりと見上げた。

「会議中に倒れられたんですよ。だから今日はお休みになるようにってあれほど言ったのに」

 ぐうの音も出ず、曹操は目を閉じた。頭がガンガンする。手短にお説教を切り上げた彼女は、ゆっくりと頬に手をやってきた。冷たく感じるそれが心地良く、小さく溜め息が漏れる。

「過労だそうです。一週間は療養するようにと」
「一週間⋯⋯」

 そんなに寝ている暇はない。やるべきことが山積みなのだ。トリニティ管理システムの調整がもうすぐ終わるはずだし、読んでおきたい論文が幾つかある。あれベッドサイドに置いてたよなと手を伸ばして探っていると、行儀良く布団の中に戻された。

「いま読まれても頭に入らないでしょう? 休むことも大事だと、あなたもいつもおっしゃっているじゃないですか」
「読んでくれ」
「だめです。いいから寝てください」
「なんでもいいから声が聞きたい。読んでくれ」

 すげなく却下され、曹操はそれでも食い下がった。彼女の言っているのは尤もだと理解してはいるが、常に動き回っていると、こうして寝ているだけというのは焦燥感が酷い。

「⋯⋯どうせ読み直すことになりますよ」
「いいから」

 彼女は渋々、本を開いて栞の挟まれたページから読み始めた。トリニティ理論の論文は難解な用語も多い。夏侯淵だったら最初の数ページで眠っていそうだなととりとめもなく思いながら、曹操は穏やかな声を聞いていた。内容を理解しようと耳を傾けてはいたものの、心地良い声がするすると右から左に抜けていくばかりだ。彼女の言うように頭になんか入ってこない。甘やかすような声を聞いているそのうちに、うつらうつらと優しい眠りに落ちていた。










 息を呑むように、曹操は覚醒した。
 見知らぬ天井と、少し埃っぽい空気。木目を見上げたまま、自室ではないことに一瞬動揺する。無意識に玉兎の姿を探して首を巡らせていた。

「ようやく起きたでござるか」

 傍に座っていた佐助から安堵の声が上がり、曹操はゆっくりと上体を起こしながらそちらを見た。身体が重い。背中が床に張り付こうとしているかのようだ。

「ここは⋯⋯」
「信長様の攻撃を受けた我々は、本能寺から吹き飛ばされ、近くの川に流れ着いたのでござる。そして運良く、この村の住民に助けられたのでござるよ」
「そうか⋯⋯」

 いつかの夢だったのだなと消沈し、曹操は立ち上がろうと力を込めた。だが甘い名残は砂を食むような虚無感を連れてきて、込めた力もどこか空しく抜けていく。深く息を吐いて腹に力を入れ直そうとしたとき、小さく戸が叩かれた。わずかに警戒した曹操とは裏腹に、短く応えた佐助の声で戸が引かれ──そこに現れた者の姿を見て、曹操は息を乱した。

「⋯⋯食事を」
「かたじけない」

 探るような視線を一度寄越した玉兎は、しかし曹操に対してあまり反応はせず、一人分の握り飯と汁物を佐助の前に置いた。

「なぜ──お前が、⋯⋯この村の者なのか」
「偶然、滞在していただけです。わたしはあなたたちを助けた村人に手を貸しただけ」

 簡潔に答えて彼女はあっさり踵を返し、

「すぐ重湯をお持ちします」

 曹操に告げると早足に去ってしまった。

「⋯⋯玉兎殿はああ言ったが、彼女が我々の面倒を見てくれたのでござる。曹操殿が眠っているあいだも甲斐甲斐しく世話を」
「⋯⋯そうか」

 夢だが──夢ではなかったのだな。
 記憶を失っているくせに変わらず自分の面倒を見るとは、どこまでも彼女は彼女のままだ。いや、記憶がないからこそかもしれない。⋯⋯というか⋯⋯やはり彼女は本当に玉兎なのか。問いただすべきだろうか、だがそれをしたところで何の意味がある。自身の犯した罪は償えるようなものだとでも?
 忘れたままなら、そのほうがいいこともあるだろう。本人が思い出すことを望んでいないとすれば、なおさらに──。

「⋯⋯曹操殿?」
「ぁ、⋯⋯ああ、いや⋯⋯」
「まだ横になっていたほうがいいでござる。曹操殿は三日も眠ったままだったゆえ」

 言われた通り、黙って横になる。座っているのも正直辛かった。幸い、酷く痛む箇所はないものの、動けるようになるまで少し掛かるかもしれない。そんな暇はないのに。
 そんな暇は⋯⋯。

 “休むことも大事だと、あなたもいつもおっしゃっているじゃないですか”

 夢の残滓に、曹操は深々と溜め息を吐いた。今はともかく身体を休めるしかない。そうして、うつらうつらと眠りに落ちた曹操だったが、ほどなく揺り起こされた。

「重湯です。⋯⋯食べられそうですか?」
「⋯⋯ああ、すまん⋯⋯」

 上から覗き込んでくる顔にぼんやりと返し、目をこすりながら身体を持ち上げる。助け起こしてくる彼女に遠慮なく体重を預けたまま、曹操は椀と匙を受け取った。もそもそと口に運んでいるうちに腕が辛くなってきて、それを敏感に感じ取ったのか、玉兎の手が下からそっと支えてきた。

「悪い、世話をかける⋯⋯」
「⋯⋯いえ、」

 奇妙な間に、曹操ははたと動きをとめた。

「っ、⋯⋯すまん!!」

 二度寝したせいだろうか、完全に寝ぼけていた。今の玉兎は自分の部下だった玉兎ではないし、甘えるなど許されるわけもない。
 曹操が慌てて身体を離した拍子に、椀の中身が少し零れた。彼女は表情を変えることもなく布巾で拭うと、ふたたび手を支えてくる。

「⋯⋯ひ、一人で食える」

 彼女は黙ってこちらを窺っていたが、ややあって「そうですか」と静かに呟くと、気を遣ったのか外へ出て行ってしまった。

「⋯⋯彼女とは知り合いのご様子でござるが⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯ああ、⋯⋯いや、どうだろうな」

 背中を見送った佐助の言葉に肯定しかけ、だが本人なのか定かでないことも思い出し、曹操は首を横に振った。

「⋯⋯記憶がないと申しておられた。先日、曹操殿に“玉兎”と呼ばれたので、今のところはそう名乗ることにしたとも」
「⋯⋯そうか」

 椀の中身を見るともなしに見ながら沈思黙考し始めた曹操に、佐助は努めて明るく声を掛けた。

「見つかって良かったでござるな」
「え?」

 言葉の意味を咄嗟に理解できず、曹操は首を傾げて聞き返していた。その反応に、今度は佐助が首を傾げる。

「玉兎殿が。探していたのでござろう?」
「いや、⋯⋯」

 違う。

 曹操ははっきりと、先ほどよりも強く首を横に振った。彼女を諦めきれぬまま、それでも、すでに死んだのだと納得しようとしていた。探していたのは死に場所のほうだ。間違っても彼女自身を探し求めて旅をしていたのではない。

「⋯⋯そもそも、あいつが本当に玉兎かどうか、私にも分からんのだ。姿も声も瓜二つではあるが、⋯⋯」
「彼女が曹操殿の“玉兎”だと分かる特徴はないのでござるか? ほくろとか痣とか⋯⋯」
「⋯⋯ない、⋯⋯こともない⋯⋯」

 もぐもぐと呟きながら、曹操は重湯を口に運んだ。空っぽの腹に、優しい塩味が改めて沁みる。

「では、確かめてみればいいのでは?」

 曹操の微妙な反応に思うところがないわけでもなかったが、佐助はとりあえずそう勧めてみた。
 仮に彼女が曹操の言う玉兎だったとすると、このムシャワールドは異国の地ということになる。記憶がないにしても、やはり生まれ育った国のほうが暮らしやすいだろう。それに、この国は今、戦乱の真っ只中なのだ。腕が確かでも、先日のように単騎で合戦へ飛び込んでいては命が幾つあっても足りはしない。とめたところで彼女は行動を改めたりもしないだろう。目先の命を救うために身を投げ出して、いつか散る。あの手の者は戦乱の中では長く生きないことを、佐助は知っている。

「どちらにしても、キングダムワールドへやったほうが彼女にとっては良いでござろう。この国は⋯⋯今よりさらに、混乱するでござる」

 曹操は頷いた。一理ある。信長の背後にあの司馬懿の存在があると確定した以上、戦禍がこれからさらに苛烈なものとなることは想像に難くない。

「⋯⋯そうだな」

 しかし気が重い。本人かどうか確かめたところで、自分にはもはやどうすることもできないのだ。記憶がない彼女をブルーウイングに戻しても、ただ困惑させるだけなのではないかという憂慮もある。

「⋯⋯すまんが⋯⋯玉兎を呼んで来てくれないか?」

 それでも曹操は、重湯を流し込み、最後に茶を啜ってから、腹を括って佐助に頼んだ。彼は快く頷いて、腰を上げた。出て行こうとする背中に、曹操は思い出したように付け足した。

「それと、佐助、あとでお前にも話したいことがある。悪いが付き合えよ」
「⋯⋯承知」

 佐助は少し考えるような素振りを見せたが、やはり頷いた。それに密かに胸を撫で下ろし、曹操は少しでも身体を休めるために、ふたたび横になった。







「曹操⋯⋯さま。⋯⋯曹操さま」

 静かに呼ばれ、曹操は薄く目を開けた。やはり体力が落ちている。佐助が彼女を呼びに行ったわずかな間に、また微睡んでいた。

「⋯⋯わたしに、何か」

 彼が起きたことを確認し、上から覗き込んでいた玉兎は姿勢を戻して座り直した。しゃんと背筋が伸びているその姿を見て、曹操は身を起こしながら、やはり彼女は「違う」のではないかと考えた。あれほどの傷を抱えていたら、塞がりはしていてもまだ痛むはずだ。⋯⋯だが⋯⋯。

「⋯⋯お前は、記憶がないと聞いた」
「⋯⋯あのとき⋯⋯あなたは何も答えなかった。なぜです」

 鋭く斬り込んできた玉兎に、曹操は言葉に詰まる。まず何をどう説明すれば、彼女を混乱させずにすむのか。

「お前の質問に答える前に、⋯⋯聞かせてくれ。どこまで記憶がないんだ?」
「⋯⋯何も」
「何も──名前すらか?」

 答えを与えない曹操に、探るように彼を見つめていた玉兎は、焦れたように口を開いた。

「わたしは“玉兎”なのですか? その確たる証があるのですか? わたしを知っているのなら、どうして何も教えてくださらないのですか? あなたは誰なのですか? あなたは、わたしの何なのです。わたし、わたしは⋯⋯」
「落ち着け」

 どう話したところで混乱は避けられそうにないか──。曹操は仕方なく、身を乗り出してくる彼女を手で制止しながら、息をついた。

「⋯⋯私にも、お前が“玉兎”であるという確信がない。だが、もし、お前が玉兎だったとして⋯⋯お前は、本当に知りたいか? すべてを思い出したいと、真実、そう心から?」
「あなたは、自分が何者かも分からぬまま長らえることを残酷だとは思わないのですか」
「思い出すほうが酷なこともある」

 重々しく、曹操は告げた。
 忘れたままならば、そのほうが彼女にとってはきっと楽なはずなのだ。自分に斬り捨てられたことだけではない。戦いの中で失われた多くのもの、友、バグを斬ることそのものさえもが、玉兎には重荷だった。あの貂蝉にも引けを取らない腕を持つ女だが、戦人としては致命的に甘すぎるのだ。戦いの後、独り泣いていたのを知っている。叱咤するしかない立場にある己には、慰めることはできなかった。「いつか必ず」と、そして、ただ「先のために前を向け」と言うことしか。

「どんなに辛くても、それでも⋯⋯わたしは知りたい。わたしが誰なのか、何のために生きているのか、なぜ、この手は、剣を、戦いを知っているのか──」

 呼吸を乱して涙目になっている。見上げてくる無垢な瞳に、曹操は、覚悟を決めた。それでも、苦渋の溜め息を堪らえきれず、一度大きく肩を上下させる。

「⋯⋯お前の身体には傷跡がないか? ⋯⋯ここに、大きな」

 つ、と指で袈裟掛けに空を切ると、彼女が微かに唇を震わせた。

「⋯⋯⋯⋯わたしは“玉兎”なのですね」
「そうか。──そうか、」

 生きていたのだという喜びがにわかに湧き起こり、曹操の声も震えた。だが浸っている場合ではない。曹操は言葉を弄ばず、核心を突いた。

「その傷は私が付けた。本気で殺すつもりだったし、⋯⋯すでに死んだものと思っていた」
「⋯⋯そうですか」

 怯えた表情で、彼女はうつむいた。無理もない。

「⋯⋯玉兎。改めて名乗ろう。私は、キングダムワールドのギ・エリアを治めるブルーウイングコーポレーションCEO、曹操ウイングガンダムだ。お前は私の秘書で、護衛だった」

 顔を上げた玉兎はぱちぱちと瞬きした。怯えた表情から一変し、あどけなさすら感じる。

「⋯⋯よく分からないんですが、あなたは、とっても偉い人なんですか?」
「まあ⋯⋯肩書きはそうだな」
「そんな人が、どうして一人で、ここにいるんですか? ここはムシャワールドというんですよね? キングダムワールドって近いんですか?」
「近いといえば近い。私がここにいるのは⋯⋯旅の途中だからだ」
「護衛もつけずに?」
「⋯⋯禊の旅だからだ。先ほど言ったな、私はお前を斬ったと。それ以外にも、私は大きな過ちを犯した。償いきれるものではない。それでも⋯⋯少しでも償うために」
「あなたは何をしたんですか」

 無知ゆえに、子供のような遠慮のなさだ。痛いところをぐさぐさと突いてくる。

「⋯⋯⋯⋯説明すると長くなるが、⋯⋯あまりにも人道に反した手段で統治を為そうとした」
「なぜ?」
「国に一刻の猶予もなかった──いや、⋯⋯ないと思い込んでいた。全員で共倒れするよりは、大多数を粛清してでも、少数を生き残らせるべきだと⋯⋯。国を救う解決策が完成するまで、それまでの辛抱だと」

 じっと見詰めてくる目は非難の色に満ちていた。刺すようなそれは痛いが、曹操は安堵した。許されでもしたら、それこそ気持ちのやり場がない。

「⋯⋯信長と同じようなことを言うのですね」
「奴は⋯⋯言うなれば過去の私だ。⋯⋯野心を暴走させ、正しき道を見失っている」
「あなたは、いまは違うと?」
「⋯⋯さあ、どうだろうな。だが少なくとも、奴とは違う。私は奴をとめるつもりだ」
「わたしを斬ったように?」
「違う。それでは過ちを繰り返すだけだ」

 段々と口が重くなっていった曹操は、とうとう閉口した。腹を括ったとはいえ、こうも矢継ぎ早に質問されて傷を抉られると、さすがに受け止めきれない。

「⋯⋯すまんが、少し⋯⋯時間をくれ。私も、お前が生きていたこと自体は嬉しいが、気持ちの整理がついていないんだ」
「⋯⋯分かりました」

 玉兎はまだ何か言いたげだったものの、素直に引き下がってくれた。曹操は安堵に肩を落とし、のろのろと身体を横たえる。短い時間の問答で互いにひどく疲労していた。

「⋯⋯ごめんなさい、大丈夫ですか?」
「ああ⋯⋯。⋯⋯すまんが、佐助を呼んで来てくれないか」

 疲れた顔になっている曹操を気にしながらも、玉兎は頷いて、佐助を呼びに外へ出た。探すまでもなく、彼は小屋の傍の川のほとりに腰を下ろしていた。話し終えるのを待っていたのだろう。

「佐助⋯⋯曹操さまが呼んでます」
「かたじけない、⋯⋯」

 目顔で訊ねてくる彼に、玉兎は迷った。べつに教える義理も理由もないのだ。はぐらかしたって構わないのに、だが、隠し立てするのも気が進まない。

「⋯⋯佐助、わたし⋯⋯」
「玉兎殿──と、お呼びしてよいのでござろうか?」
「⋯⋯ええ、⋯⋯そのようです」

 なんと切り出せばよいのか分からず言い淀むと、彼のほうから助け舟を出してくれた。彼はそれ以上突っ込んでくることもせず、一つ頷いて曹操のいる小屋へ向かう。心遣いを在り難く感じながらも玉兎は手の平に視線を落とし⋯⋯じっと深慮に沈むその瞳は、昏かった。






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