炎滅
人目を避けて温泉宿に入ったのは、すでに陽が落ちてしばらくしてからのことだった。玉兎のために一応は二部屋取ったものの、なるべく目を離さないほうがいいだろうと食事は共に取った。が、さすがに風呂にまで着いてはいけない。地面に押さえ込まれて汚れた身体をそのままというのも可哀想だと曹操は渋々浴場に送り出したが、待てど暮らせど玉兎が戻って来なかった。
女の湯は長いと分かっているが、それにしたって遅すぎはしないか。独りにすると可笑しなことを考えるのではという危惧が拭えない今、曹操は気が気でない。落ち着きなく部屋の中をぐるぐると回っていたが、やがて痺れを切らして佐助に声を掛けた。
「⋯⋯幾らなんでも遅すぎる。すまんが少し様子を見てくる」
「それが良いでござろう。湯当りでもして倒れていては事でござる」
快く送り出された曹操は、足早に浴場へ向かった。時間が時間なので人も捌けている廊下は静まり返り、気配すらもない。宿の者を探して、けっきょく受付に顔を出し、女湯から連れが戻らないと伝えた。
「それなら、もうすぐ浴場を閉める時間なので見に行きましょう」
ということで、曹操は受付の女の後に着いて女湯のほうに戻った。脱衣所に着物があるので居るのは間違いないと聞き、他に人がいないことを確かめてから、中へ入れてもらった。湯煙に視界の悪い中、名前を呼びつつ首を巡らせる。流し場にも、内湯にもいない。露天のほうへ出て、ぐったりと湯船の縁に項垂れているのをようやく見つけた。
「玉兎!!」
急いで湯から引き上げると、否応なしにその肌が目に入る。袈裟掛けに、大きな傷跡が痛々しく紅くなっている。思わず動きを止めて、曹操は眉根をきつく寄せた。腕に抱えて脱衣所に戻り、浴衣に包んで部屋に引き上げると、すでに佐助がタオルやら手桶やらの用意を済ませていた。
「拙者はこれで」
「⋯⋯いや、⋯⋯ああ、いや⋯⋯」
二人にされてもどうしろというのだ。正直そう言いたいところではあったのだが、浴衣から覗く玉兎の肌をこれ以上他の目に晒したくないという気持ちが上回り、曹操は曖昧に頷いていた。しかし佐助が返事も待たずにさっさと部屋を移っていったのには思わず一つ息を吐く。余計な気を回させたと分かっているが、まあともかく、今はまず玉兎の介抱が先だ。
布団に横たえた彼女の隣に座り、絞った布を額に当てて、団扇で扇いでやる。上気した頬に、やましい気持ちを抱く自分が嫌になる。曹操は昏い心中を抱えたまま、眠る玉兎を飽きずに見つめた。安らかにも見えるその寝顔が、どれほどの傷を隠しているのか。その悲しみを癒してやりたいと思っていた。叶うことなら、その頬を拭ってやるのが自分であればと望んでいた。なのに、自分が与えたのは真反対のものばかりだ。
懺悔と後悔の堂々巡りをしているうちに、玉兎が微かに呻いた。
「⋯⋯大丈夫か? 気分はどうだ?」
「わたし、⋯⋯」
「湯当りしたんだ。⋯⋯覚えてないか?」
「ごめんなさい⋯⋯すこし、かんがえごと、していて⋯⋯」
彼女は左右に動く曹操の手を眺めていたが、やがて溜め息を吐くように言った。
「⋯⋯あなたのようなひとが、きったんですもの。わたし⋯⋯さぞ、とんでもないおんなだったのでしょう」
その言葉で、曹操はようやく、斬ったと告げたときの彼女の怯えた表情の理由を理解した。彼女は自分を斬った男にではなく、斬られた理由に怯えたのだ。
「いいや、玉兎、違う⋯⋯違うんだ。お前は、私が道を誤ろうとするのをとめようとして、私に斬られたんだ。とんでもないのはお前ではなく、私のほうだ」
細い手をきつく握り込み、曹操は縋る声で応えた。聞いているのか聞こえていないのか分からない。玉兎はただ虚ろな表情のまま。
「⋯⋯どうして⋯⋯」
苦しげに息をついて、彼女は細々と続けた。
「⋯⋯どうして、ここまでしてくださるのですか⋯⋯」
問われ、曹操は己の最も深い場所を突かれたことを自覚した。
理由など幾らでもある。贖罪のためであり、身内といえる近しい者だからであり、部下だからであり、自らの民だからであり⋯⋯だがその全てが建前だということも理解している。
旅の中で何度も繰り返した悔恨だった。失って初めて気付く、傍らの存在が自身にとってどれほど大きなものだったかを。
理由など幾らでもある。同時に、理由など何一つとして要らないと知ったこの想いは。
「お前は⋯⋯私の秘書で、護衛だった」
だからこそ、今さら告げられようはずがない。傷付けて、打ち捨てて。本気で、殺すつもりだった。運良く、奇跡のように生きていた。彼女がここに居るのはただそれだけのことで、殺したも同然だった。
「⋯⋯やさしいのですね」
「違う」
間髪入れずに返した言葉は、玉兎の耳には届かなかったようだった。曹操はじっと息を潜めるようにして、また眠りに落ちた彼女の顔を見つめた。
何故。どうして。疑問というなら、曹操のほうこそ疑問だった。
あの日、あの夜。玉兎は、何故、自分の唇に触れたのか。愛するものを、愛するように。あれは、期待していいものだったのか。⋯⋯期待。──期待するなど、自分は、彼女が欲しいのか。斬り捨てておいて今さらに、まだ彼女を求めているのか。記憶の中の玉兎のみならず、ふたたび目の前に現れた、翼を毟られたこの小鳥を。
人はどこまで欲深いのだろう。満たされることを知らない、この心は。
「⋯⋯玉兎、」
返事はない。そして、もはや知りようもない。疑問の答えは、あの夜とともに失われてしまった。