温灰の塒
ざらざらとした木の幹に背を預け、曹操は顔を上向けた。枝葉をすり抜け滴ってくる雨粒に陰鬱な気分になる。運が悪ければ今日は座ることも出来ず、一晩立ちっ放しになりそうだ。気が沈むのはそれだけではない。
隣に視線を移せば、玉兎が自分と同じく立ったまま静かに目を閉じている。男の足に着いて来ている彼女の疲労は自分達の比ではないはずだ。出来れば腕に抱えてやりたいが、それを良しとする女ではないということは分かっている。現に、一度口にしたものの、強く固辞されていた。
どうしたものかと思考を巡らせるが、良い案は出てこない。彼女に負い目がある分、情けないことに強く出ることも出来ない現状である。
曹操がまんじりともせず息をついたとき、頭上の枝が揺れた。
「曹操殿。少し行った先に廃寺があったでござる」
「そうか──すまない、この雨の中を。礼を言う」
「なに、この程度。忍務に比べれば容易いでござる」
からからと笑い、佐助は枝を飛び移っていく。曹操は玉兎の羽織った外套を軽く整えてやり、視線で促すと、小走りに佐助の後を追った。
彼の案内で辿り着いた廃寺は、すでに本堂が失われ、使えそうなのは小さな御堂のみだった。朽ちかけてはいるものの床はまだしっかりとしているし、屋根があれば万々歳である。
「⋯⋯火が焚けないのは仕方ないな」
一瞬、気遣わしげに玉兎に目をやった曹操は呟いた。彼女は戸の近くで静かに⋯⋯といえば聞こえがいいが、実際は精彩を欠いた表情で外套の雫を払っている。
あの宿での夜以来、曹操は何度か玉兎にブルーウイングへ戻るよう勧めたものの、彼女は首を縦には振らなかった。無口に後を着いてくる彼女の態度は曖昧で測りにくかったが、それでも断固とした意思を感じた。記憶の手掛かりである自分から離れたくないのかもしれない。目を離すとまたあのような事態に陥る可能性を考えると、連れて行かないという手もなかった。
──全ては言い訳だ。ただ自分が離したくない。失いたくない。もう二度と、あの喪失感を、絶望を味わいたくない⋯⋯。
「玉兎。早くこっちへ」
沈み込んでいた曹操は、佐助の声に顔を上げた。玉兎はまだ入り口の近くに佇み、じっと外を見つめている。主に仕える側近という立場にあった二人はなにやら波長が合うらしく、またマメな佐助の性格もあり、玉兎も心を許しているようだった。いつの間にやら敬称が抜けているし、現に佐助が無遠慮に傍に寄っても、その背中に手をやっても逃げる素振りもない。
もともと穏やかな気質の玉兎は滅多なことでは露骨に態度に出したりしなかったが、警戒する相手に対してはさりげなく避けることはあった。記憶を失くしても人はそう簡単に変わらないというのであれば、やはり佐助を信用しているのだろう。それを心のどこかでほんの少しでも不快に思っている自分が、曹操は嫌になる。
今の玉兎は頼れるものが少なすぎる。人だけではない、一切の繋がりを断たれた今の玉兎には、一つでも多くの拠り所が必要だと理解しているのに。
完全に陽の落ちきる前に急いで外套を干し、携行食で腹を満たして、寝支度を整える間に辺りはすっかり真っ暗になっていた。夜目の利く佐助はともかく、月明かりもない暗闇には曹操はお手上げである。出来ることはなにもなくなり、さっさと休むしかないのだが⋯⋯。
⋯⋯なんかおかしくないか、と曹操は考える。
暖を取るためなるべく引っ付いて横になっているのだが、なぜ自分が真ん中なのだろう。普通は玉兎を真ん中に川の字じゃないのか。佐助がごく当たり前のように自分の隣に収まったので最初気づかなかったが、やっぱおかしいと思う。腕にくっつく二人の顔を交互に見て──といってもあまり見えなかったが──曹操は身体を起こしかけた。
「静かに⋯⋯玉兎はもう寝入っているゆえ」
小声で制止してきた佐助に、曹操も小声で返した。
「いや⋯⋯だが⋯⋯」
「拙者が玉兎に触れるのは曹操殿に不快でござろう?」
まったく痛いところを突いてくる。旅の間中、接触を避けろというのは無理な話ではあるものの、出来る限り触れてほしくないというのも我が儘だと分かっているのに。
「寒い思いをされないよう、しっかり抱いておいてあげてくだされ」
言葉に含みがあるような気がするのは思い過ごしなのか、意識し過ぎなだけなのか。
込み入った事情とそこに絡む複雑な感情に、相当早い段階で勘付かれていることは曹操も分かっている。もはや考えるだけ無駄だ。
諦めの境地に至ると、両隣の少し低い体温が不憫になってきて、曹操は控えめに抱き寄せた。佐助はなにやら満足げに一つ息をつき、浅い眠りに落ちていく。忍というのは皆こうなのか、安穏と眠る日はあるのかと気がかりになる。きっと要らぬ心配なのだろうが。
忍の性に思いを馳せているそのうちに、暖を求めてか絡んできた女の細い脚に曹操は硬直して、漫然と夜を明かした。
そういった(ごく個人的な)思わぬハプニングや幾度かの襲撃を受けつつも曹操たちの旅は続き、ついに劉備らと合流したのは、全てが白く凍てついた世界だった。
熾した火を囲んで暖を取りながら情報交換をしている最中、テントの中で悟空に寄り添って眠る玉兎に視線を投げた曹操は、一拍だけ黙り込んだ。複雑な感情が渦巻いているのがその瞳から分かる。
「⋯⋯あいつも⋯⋯記憶を失っているんだ。ムシャワールドで見つけたんだが、そのときは自分の名前さえ分からない状態だった」
「ムシャワールドかぁ⋯⋯ずいぶん遠いとこに落っこちたんだな。そりゃ見つからない筈だよなあ」
劉備も首を捻ってテントの中を見つめたまま頷いた。曹操は自らの齎したあの混乱を収める只中にも、割ける人手を限界まで割いて彼女を捜索していたが、それでも発見には至らなかった。諸葛亮の星読みを持ってしても、彼女の名残一つさえ見つからなかったのだ。しかし記憶を失っていたとなると納得出来なくもない。
「記憶は大分戻ってきているが、全てを思い出せているわけじゃない。とくに⋯⋯私に斬られたときのことは何も覚えていないようだ。色々と話してみてはいるんだが⋯⋯」
「えっ⋯⋯。斬られ、⋯⋯えっ??」
言葉の意味を飲み込んだ劉備は目を真ん丸くして曹操を見つめた。信じられない、と顔に書いてある。その表情に曹操のほうも少し驚いた。
「うん? ⋯⋯なんだ、劉備、お前もしかして知らなかったのか」
「そっ⋯⋯え、⋯⋯ウソだろ⋯⋯? だって、⋯⋯だって、皆、諸葛亮だってなんにも⋯⋯」
「事実だぞ。私は玉兎をこの手に掛けた。⋯⋯あいつをあんな風にしたのは⋯⋯私だ」
劉備は愕然としていたが、やおら諸葛亮に振り向いた。
「な──んで、おい、なんで教えてくれなかったんだよ!?」
食って掛かった劉備だったが、
「だって、教えたところで大した意味もなかっただろ。精々、君が曹操を恨むくらいで、彼女が帰ってくるわけでもないし」
すげなく返され、言葉に詰まってしまう。
「だっ、だからって⋯⋯」
「責めてやるな。全ての咎は私にある。諸葛亮は、お前が事実を知れば苦しむことを見越して、何も語らなかったんだ。⋯⋯お前は良い仲間を持った」
「⋯⋯お前“は”って、アンタの部下が聞いたら泣きそうなセリフだね」
諸葛亮の含みある言い方に、曹操は少し表情を歪ませた。
「私の部下がどうこうという話じゃない」
機嫌を傾けた彼に、佐助は話題を変えようと口を開いた。
「司馬懿というのは何者で、過去に一体なにがあったのでござるか?」
「⋯⋯数年前、我々のキングダムワールドは司馬懿の手によって危機に陥ったのだ。そして⋯⋯私が玉兎を斬ることになった切っ掛けも司馬懿だった」
話題が変わってなかった。が、曹操はわずかに目を細め、遠い場所を見つめた。佐助は静かに語り出した彼の声に耳を傾けた。
早朝、まだ陽も昇らぬ時間に目が覚めた。床に就いたのは月が真上にも至らない刻だったので、頭が冴えている。冷えた清涼な空気のおかげもあるかもしれない。腕の中に子供の姿がなく、玉兎は身体を起こした。静かな寝息が間近から、それから遠くに話し声が微かに聞こえた。曹操の声だ。
「過ちだと思えば⋯⋯」
彼がそれをどれほど悔いているか、短い時を共に過ごしただけですでに分かっている。彼は、自分は信長とは違うと言った。今なら信じられる。この目で確かに見てきたつもりだ。だから、もう、彼の言葉を疑ってもいない。自分の正体は、間違いなく“玉兎”なのだ。
思い出せないこともまだ多い。隣に眠る諸葛亮とメールでやり取りした内容だとか、劉備と交わした言葉だとか、些細なことは覚えている──思い出せている。彼らが何者で、自分がどういう関りであったか。けれど、曹操の周りのことだけがぼんやりと霞んだ記憶の向こうにある。ブルーウイングのこと、幹部陣のこと、その内の一人であったこと。かつて彼の傍にいた、彼の望む“玉兎”は、どんな風だったのか。どう振舞うべきなのか分からない迷いの中で、強烈に惹かれている自分に気付く。きっと以前の自分もそうだったのだ。でなければ、苦悩の滲む彼の声に、どうしてこんなにも苦しくなるというのだろう。
贖罪だと、彼は言った。
償いを、優しさを、そんなものを利用してまで傍にいたいわけじゃないのに、離れられない。離れたくない。以前の自分も、こんなに浅ましい女だったのだろうか──。
気付けば、諸葛亮も起き出していた。神妙な顔でじっとうつむいている。それからなんとはなしに顔を見合わせ、目が合うと、一つ頷かれた。玉兎も同じように頷き返し、それを朝の挨拶として、二人は今度こそ寝床から抜け出した。