陰風
袁兄弟と一悶着起きたさなか、奇襲があった。
単騎で乗り込んできた華雄を取り逃がした劉備たちが野営地に戻ると、ちょうど玉兎が天幕から出てくるところだった。彼女は負傷兵の手当てを優先して陣幕に残ったのだが、遠目にも酷く虚ろな目をしているのが分かるほど暗い気配を背負っている。放っておけず傍に歩み寄った劉備は、そっと声をかけた。
「玉兎⋯⋯」
「⋯⋯劉備さま⋯⋯」
血に濡れたまま、どこか茫然と呟く姿に、劉備は胸が痛くなる。
「⋯⋯大丈夫か?」
彼女は答えず、顔を伏せた。
「⋯⋯七人が犠牲になりました」
「⋯⋯そうか」
慰める言葉も術もなく、劉備は頷くしかできなかった。
なぜ、どうして、今の三璃紗には悲しみと憎しみばかりが溢れているのだろう。優しい人が傷付く理不尽さに、込み上げる怒りが拳を震わせた。
「失礼する──お前は確か、孫軍の玉兎といったか?」
しばし重い沈黙が落ちた場に、不意に低い声が通り抜けた。曹軍の兵を数人引き連れたその侠の口調は優しかった。
「ワシは曹操軍の典韋と申す。兵が世話になったようだな、礼を言う」
「⋯⋯救うことができませんでした。礼など⋯⋯」
「どうにも出来んこともある──お前の気持ちも分かるが、いまはその時ではない。将がそのような有様では兵の士気も下がろう。しっかりせんか!」
あまりに悲痛な口調に、相手が自軍の人間ではないということも忘れ、典韋は思わず叱責していた。
犠牲は覚悟の上だ。それでも此処へ、戦場へ来た以上は、最後まで折れることなく立っていなければならない。兵を率いる立場ならばなおさらに。
「はい⋯⋯申し訳ありません」
あんまり従順に頭を下げてくるものだから、典韋はちょっと気まずくなった。他軍の将を叱り付けるなんてどうかしている。しかも周りに目がある中でだ。だが、面目を潰されたに等しいのにここまで素直に頭を下げられるとは大したものだと感嘆もあって、一瞬言葉が続かなかった。
「その⋯⋯まあ、なんだ⋯⋯兵を引き取りに来たのだが⋯⋯」
「分かりました。ですが、動かせそうにない者はこのままこちらで診ようと思うのですが⋯⋯構いませんか?」
「よいのか?」
「はい。孫堅さまもきっとお許しくださるでしょう」
「そうか⋯⋯では頼む。亡骸はこちらで弔うので引き取ろう」
「分かりました。ではお手伝い致します」
言って、すぐさま事切れた者を天幕から運び出すよう指示している玉兎の背中を見ながら、断り損ねた典韋は頭を掻いた。あまり貸しを作るべきではないのだろうが、断るのも気を悪くさせるかもしれない。
「⋯⋯重ね重ね礼を言う」
「いえ」
「俺達も手伝おう」
運び出されていく骸を見て名乗り出た劉備だったが、すげなく首を横に振られた。
「劉備さまたちは着いたばかりですから、身体をお休めください。手は足りておりますので⋯⋯」
最後に天幕の中へ声をかけ、玉兎は骸を運ぶ兵に手を貸しながら典韋の後ろに着いて去っていった。
じっとその背を見つめる公孫瓚に気付いたのは、関羽だった。
「どうされました?」
「あ、いや⋯⋯」
硬直から解けたように、彼ははっとして関羽に視線をやった。しかしそれはすぐに元の方向に戻る。
「⋯⋯あいつ⋯⋯話とは随分違う侠だと思ってな」
「違うって?」
劉備が首を傾げたので、公孫瓚は一つ頷いてみせた。
「戦うことしか知らず、そのうえ物凄く気難しい侠だから近寄らぬようにと孫軍の兵から忠告されたんだが⋯⋯」
「⋯⋯気難しいって、アイツがかぁ?」
今度は張飛が首を傾げた。だって玉兎の性格はよく知っているつもりだし、だいたい兵たちにはむしろ慕われている。
「いや──」
んなわけないじゃんと突っ込もうとして、わき腹をド突かれた。肘の飛んできた方向を見れば、関羽が鬼の形相になっている。長兄に助けを求めようとして反対側を見れば、そっちにも鬼の顔がある。どうも彼女の素性を喋るなと警告されているらしいことにようやく気付き、張飛は大人しく黙り込んだ。だがまあちょっと考えてみれば、戦場で女というのがバレたら面倒臭いことこの上ないのだろうなと思う。とくにあの袁兄弟に目を付けられようもんなら、相手のほうが格上なだけにブン殴って逃げるわけにもいかない。そんなことしたら主君の孫堅に迷惑をかけることになるし。
「面倒臭ぇな〜⋯⋯」
心底しみじみと、溜め息混じりに呟いた張飛に、義兄二人も同じく溜め息を吐いた。女というだけで戦場では微妙で危うい立場なのになんで来ちゃったかなと思わないでもない。しかも黄巾討伐よりさらに大きな戦なのだ、孫堅将軍もとめればいいのに。でもとめられるならとっくの昔にそうしているんだろうなぁと、彼の苦労が想像できてちょっと哀れになった。
「⋯⋯あいつって、もしかしてムッチャクチャ頑固?」
「ああ、意外と⋯⋯顔に似合わず⋯⋯」
「なんていうか⋯⋯孫軍もけっこう大変なんだな⋯⋯」
呟き合う三人に、何も知らない公孫瓚は首を傾げるしかなかった。