「ねえ、かあさまぁ」

 息子を風呂に入れているときのことだった。あとは浸かって十数えて上がるだけのタイミングで、膝の上の息子が見上げてきた。

「なあに、曹丕?」
「かあさまのおむねには、なんで、せんがあるの?」

 甘えて擦り寄ってくる曹丕の言葉に、玉兎はゆるく口角を上げた。いつか疑問に思って訊いてくるだろうというのは分かっていたことだから、答えももう用意してある。

「これはね、お父様に落書きされたのよ」
「とおさまに?」
「ええ。わたしはやめてって言ったのにね。お父様は、わたしの身体に自分の名前を書いたのよ」
「⋯⋯これ、とおさまの、おなまえなの?」

 ぺたぺたと触れる小さな手がくすぐったくて、玉兎はいろんな意味で笑ってしまう。

「まあ、似たようなものね」
「なんで、とおさまは、かあさまのおむねに、おなまえ かいたの?」
「自分のものにはね、名前を書くものなの。お父様はいつも言っているでしょう? “玉兎は私のものだ”って」
「うん。でも、なんで、けさないの? ボクがらくがきしたら、おこって、けすのに」
「これはね、消せないの」

 いや、医者にかかれば消せるには消せるかもしれない。だが、すっかり綺麗にはならないだろうし、消す必要もないと思っている。形に残るものが一つくらいあってもいいのかもしれないと。彼にとっては過ちの、自分にとっては彼に寄り添えなかった戒めとして。
 それに──彼がくれるものなら、痛みでも傷跡でも、なんだって。

「わたしはね、お父様のものだから、しょうがないのよ」
「うん⋯⋯」

 分かったような分からないような顔で曹丕は頷いて、それからまた見上げてきた。

「⋯⋯じゃあ、かあさまは、とおさまに、おなまえ かかないの?」
「ええ、書かないわ」
「なんで?」
「だって、お父様は名前を書かなくてもわたしたちのものでいてくれるでしょう?」
「そっかあ」

 それで納得したのか興味がなくなったのか、曹丕が数を数え始めたので、玉兎も話を切り上げた。つっかえつっかえ一緒に十まで数えて風呂から上がり、リビングに戻ると、曹操が帰ってきていた。

「今日は早かったんですね。連絡くだされば時間をずらしたのに⋯⋯」
「いや、かまわん。飯を頼めるか」
「ええ、すぐに」

 すでに曹丕を膝に抱え、晩酌している曹操の後姿──わずかに見えるその首筋を盗み見て、玉兎は一人、こっそりと微笑った。

 本当は、自分も名前を書いている。
 すぐに消えてしまう赤い名前を、彼の身体に唇で綴るのだ。彼が心底嬉しそうにしてくれるから、それを許されていることが苦しいほどに幸福だから、飽きもせず、繰り返し繰り返し。

 幾度でも、何度でも、日毎夜毎に書き直す。
 あなたの肌の上に。






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