しんと深い夜、空は見事な真円の月を抱き、きらめく星を着飾って、良い子はすっかり夢の中──だが、ネオワールドのキャプテンシティは眠らない。灯りの落ちない街はいつでも喧騒に包まれてはいるが、今夜はことさらに賑やかな一画があった。

「ハッハッハッ! さらばだ、諸君!!」

 高笑いと共に夜空を飛び去るのは、ここ数年、美術館を中心に荒らし回っている怪盗Xである。あまりにも鮮やかすぎる手口と気障な立ち振る舞い、そしてその甘いマスクに、指名手配犯だというのにファンがいるほど人気の犯罪者だ。死人を出さず、狙ったお宝のみを頂戴する点もその人気に拍車をかけている。高度成長を遂げ、多様な娯楽が溢れ返るネオワールドでは、彼の盗みさえもがもはやある種のエンターテインメントと化していた。深刻な重犯罪のニュースよりも爽快な窃盗劇のほうが見ていて楽しいのは当たり前ではあるものの、彼を追う立場の者からすれば堪ったものではない。

「待ちなさい、怪盗X!!」
「待て、一人で深追いするな!!」

 またもやまんまとお宝を盗み出され、街の明かりと追跡用の強力なライトに照らされる白い姿を追うのは、隊長の名を冠するヴェルデバスター部隊の新人、クラリスだった。飛行能力に優れ、機動力では精鋭部隊でも群を抜く彼女は犯罪者を次々検挙している実績によりこの度めでたくヴェルデバスター部隊へ配属された──のだが、青い正義感の余り勇み足になりがちで、加えてまだ経験も浅い。後先考えず飛び出すのも日常茶飯事で、相手が怪盗Xとなると部隊が何度も煮え湯を飲まされていることもあり、抑えが利かなかった。
 ヴェルデバスターの制止を振り切って独り白い影を追っていたクラリスは、建設途中のビルの中へ入った瞬間に相手の姿を見失った。静かに降り立ち、銃を抜く。

「おやおや⋯⋯。駄目じゃないか、こんなところまで一人で深追いしてくるなんて」

 背後から、余裕の口振りで言葉が掛かった。銃を構えながら素早く振り向くと、支柱の影から白い男が姿を現した。

「怪盗X、お前を窃盗の容疑で逮捕する。大人しく、両手を頭の後ろで組んでその場に伏せなさい」
「君はまだ自分の状況の悪さに気付いていないようだねえ」

 告げると、男はおどけたようにホールドアップして見せた。しかし肩を竦めながら言われた内容に、クラリスは罠を警戒して周囲に視線を走らせ──しなる鞭の乾いた音に慌てて目を戻せば、悠々と構える白い影が妖しく笑っている。

「ダンスといこうか、お嬢さん」
「悪足掻きは、」
「さて、足掻くのはどちらだろうな?」

 くっくと喉を鳴らした男の口調が、危険なものに変わったのをクラリスは感じ取った。

「お嬢さん、君の任務は?」
「決まっている。お前を逮捕──」
「だろうねえ。さて、私は君を殺せるが、」

 クラリスはハッと目を見開いた。

「君はどうかな?」

 言葉と同時に、鞭が唸った。一瞬で肉迫したそれを寸でのところでかわす。攻撃が速い、しかも横に飛んでもなお追いかけてくる。逃げながら周囲を探るが、近くには支柱以外の遮蔽物がない。真っ向からの撃ち合いになれば、可能な限り相手に致命傷を与えてはならない以上こちらが不利なのは明白だった。罠でもなんでもない、自分のケアレスミスに動揺し、クラリスの動きが鈍る。

「いっ、た⋯⋯!!」

 支柱へ回り込もうとしたのをまんまと先読みされ、身体に巻き付いた鞭が大蛇の如く軋む。反射的に渾身の力を込めたものの、まるで身動きが取れない。ぐいぐいと手近に手繰り寄せられ、痛みに滲んだ脂汗が冷や汗に変わる。こちらの蹴りが届く範囲に入る直前、男は後ろに回ってきた。腕を取って背中に捻り上げられ、さらに拘束がきつくなり、呼吸さえ辛くなる。

「ほぉら、捕まえた」

 耳を舐めるように囁かれ、膝が震えた。何をされるか分からない恐怖にクラリスの呼吸はますます乱れた。動揺が混乱を連れて来る。男を睨みつけようとするが首を回すと肩が痛んでどうにもならない。

「隊長の言うことをちゃんと聞かないから、こういうことになる。さて⋯⋯とりあえず名前を教えてもらおうかな」

 歯噛みし、クラリスは項垂れた。いま相手を下手に刺激するのは絶対にまずい。

「⋯⋯クラリス⋯⋯」
「クラリスか。良い名前だね」

 背後から抱き込まれ、内股を無遠慮に撫でさすられても、身動ぎも出来ない。一思いに殺されるならまだしも、こんな屈辱を受けるなど──。

「自害したら君の大事なものを奪ってしまうよ?」
「わ、わたしの大事なものなんて知らないでしょう⋯⋯!」

 図星を突かれて震える声で、それでも必死に虚勢を張る。

「そうかい? たとえば“ここ”とかね」
「ひ、⋯⋯っ」
「良い反応だねえ」

 ぐっと身体の中心を掴まれ、クラリスは羞恥と恐怖に頭が煮えた。項を吸われた感触に、怒りが全てを凌駕していく。

「き、貴様っ⋯⋯!!」

 全身を逆立てた彼女に、しかし男の腕は優しかった。押さえつけるというよりも、まるで恋人を抱き留める風にして、彼女の首に手を回す。

「これからは気を付けるんだよ。君のダンスのお相手は、私のように優しい男ばかりじゃあないからね⋯⋯」

 不意に声が遠ざかっていく。くらりと視界が歪んで、クラリスは目の前が真っ暗になった。

「⋯⋯ヴェルデバスターくんも苦労するね」

 笑みを含んだ口調で呟いて、気を失った彼女を静かに横たえたアルセーヌは、その頬を一つ撫でると月下の空に姿を消した。






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