趙雲は自室の卓の前に座り込み、じっと卓上の灯りを見つめていた。全身の感覚を研ぎ澄まし、少しの身動ぎもしないまま、しかし気忙しく耳をそばだてて外の様子を窺っている。
 今夜は雪と風が酷く、締め切った窓ががたがたと音を立てている。幽州の城や家屋は重厚な造りをしていて、窓も戸も多少のことでは動じない。それでも、叩きつける狂風に、部屋が揺らいでいるような錯覚を起こす。

 今夜は、数年に一度あるかないかの悪天候だった。

 だが趙雲はなにも、びょうびょうと奇怪な妖の鳴き声にも聞こえる風の音や、みしみしぎしぎしと軋む壁や窓、明かりの届かない部屋の隅の暗闇を恐れているわけではない。どうにも、なにか──なにか、よく分からないが、胸騒ぎがするのだ。
 昨日のうちから嵐の兆候を感じ取り、公孫瓚は早々に兵や民たちに備えをするよう伝えた。城中も慌しくなっていたが、幸い陽が落ちる前には村の者も皆家の中に篭もる準備を整え終えたので、一帯はすっかり静まり返っている。獣もうろつかぬ大嵐、こんなときには烏丸共の奇襲もない。奴らは自分たちよりも雪の恐ろしさを知っているといっても過言ではないのだから当たり前だ。この地に住む者であれば、間違っても今日のような天候のときに外へは出ない。

 ──この地に住む者であれば。

 一抹の不安に、趙雲はとうとう立ち上がった⋯⋯が、首を一度横に振って座り直した。いくら彼女がこの地に不慣れといえど、馬鹿ではないのだ。まさかこんな夜に外へ出たりなどすまい。大雪になると知って、昨日からずっと桃花の様子を気にしてはいたが、その都度、厩の造りも丈夫だから心配いらないと誰かしらが宥めすかしていた。きっと大丈夫だろう。

 そうとも、大丈夫だ⋯⋯。
 自身に言い聞かせるが、それでも、ざわざわと胸騒ぎが治まらない。

 杞憂ですめばいいのだ、部屋にいるのを確かめればそれでいいではないかと、趙雲はけっきょく立ち上がった。夜半に生娘の寝所の戸を叩くのは不躾だということは十分に承知だが、眠れぬ一夜を過ごすよりはいいし、万に一つを考えれば⋯⋯。

「玉兎、居るか?」

 趙雲は、落ち着かない胸中を抱え、少し強めに戸を叩いた。返答は⋯⋯なかった。風が強いので聞こえなかったかと、もう一度。

「玉兎」

 先ほどよりも強く戸を叩いて声を上げた。答える声はやはりない。寝入っているのだろう⋯⋯きっとそうだ。そうに違いない。
 だが趙雲は念の為、これが最後と、扉越しに中の気配を探った。
 ⋯⋯人の居る様子がない。しかし玉兎は手練だ。自分にすら気配を覚らせぬことも出来る程度には。だが、この状況で覚らせぬ理由があるか? まさか。⋯⋯いや、まさかな。

「玉兎! ⋯⋯入るぞ!」

 どんどんと戸を叩き、ついに痺れを切らした趙雲は、扉を開けた。閂はかかっていなかった。

「玉兎。おい、居るのだろう」

 どうか居てくれと祈りながら、趙雲は部屋の奥、寝台の手前に置かれた衝立の向こうへ首を突っ込んだ。

「⋯⋯っ!!」

 もぬけの殻の布団に、趙雲は心の臓が止まるような心地で、部屋を飛び出した。向かうとするなら厩以外にない。この廊下さえも冷え切っているというのに!

「趙雲様っ? どうかなさいましたか?」

 夜更けに鎧も脱がず、血相を変えて廊下を走る彼に、夜番に立つ兵が足並みを揃えて声をかけてきた。ただならぬ様子に襲撃かと身構える彼に、趙雲は駆け足を保ったまま訊ねた。

「玉兎を見なかったか?」
「先ほど、厠へ行くと申して、通って行かれましたが⋯⋯」
「厠?」

 その言葉に趙雲は歩調を緩めた。確かに、こんなに冷える夜は、近くもなろう。考え込みながらも足はとめない彼に、兵はわずかに息を上がらせて着いていく。外に続く扉の前に差し掛かったとき、平静だった趙雲の息がにわかに乱れた。

「⋯⋯まさか」

 床がわずかに濡れている。吹き込んだ雪が融けたのだろう。だがこの扉は閉ざされると隙間風さえ許さない。ということは、つまり、誰かがこの扉を開けたということだ。いったい誰か。この地に住む者ならば、間違ってもこんな日に外へ出たりはしない──。

「玉兎!!!」

 趙雲は叫び、戸を開けようとして、強い力に押し返された。あまりの勢いで吹き付ける風が阻んだのだ。渾身の力を込めて押し開くと、凍りついた戸が軋んだが、天候を考えれば程度が軽すぎる。やはり一度開けられたのだ。吹き込んだ業風に、扉の傍に灯されていた蜀台が掻き消え、兵は慌てて近くの蜀台から行灯に火を移して掲げた。
 外はぞっとするほど吹雪いていた。地獄の底から鬼が猛っているかのように轟々と唸りを上げ、闇が広がり、先が見えない。
 趙雲は、槍掛けに並んで束ねて掛けられている縄の端の一方を扉に、もう一方を身体に結びつけると松明を手に飛び出した。城前の広場でさえも方向感覚を失う吹雪だ、道を見失ったら自分も危うい。だが、彼女が縄の届く範囲に居てくれなければ──。

「玉兎!! 玉兎、何処だぁー!!!!」

 喉が裂けんばかりに叫びながら、趙雲は必死に目を凝らして雪に足跡が残っていないか探した。うつむいても目を開けていられない。腕で顔を庇いながら呼び続ける。彼女の耳ならきっと届く。届くはずだ。届いてくれなければ困る。
 玉兎を探しながら、趙雲は松明の火が消えないかも案じなければならなかった。命綱があるとはいえ、この闇の中で灯りを失くすのは避けたい事態だった。吐く息さえ凍りつく極寒の中、歩みを進める。逆巻く風と雪に、たちまち鎧が凍り始め、軋みを上げた。心の臓だけがばくばくと忙しく燃えているようだ。戦場でも臆することのない侠の息が、恐怖で引き攣る。寒さのせいだけではなく青褪めた顔は、およそ三璃紗一の槍の使い手と謳われる趙雲のものとは思えないほどだった。
 それでも、彼は冷静だった。闇雲に走り回るのではなく、正確に厩の方向に進み、ついにその姿を見つけることに成功した。

「玉兎!!」

 身体の側面に被った雪の量が、彼女がどれほど長くここに留まっていたか教えた。吹き溜まりに積もった雪の塊のようになっている。外套を巻き付けてはいるがそんなもので凌げるような寒さではない。

「ちょう、ちょうぅ、ん、さま」

 がちがちと歯の根が鳴っている。意識はまだしっかりしているようだったが、早く体温を戻さないと命が危うい。

「なにをやっているんだ!! 死にたいのか!!」

 姿を見つけた安堵と、状況への焦燥から、思わず怒鳴りつけていた。彼女は凍った睫毛に難儀しながら瞬きし、侠の顔を見上げた。

「ごめ、ごめんなさい。とうかが、とうかが気になって⋯⋯あ、あの子、こんな寒さ知らない。お腹に子がいるのに」
「あれほど厩は心配いらないと言われたろう!!」

 寒さと風に涙を浮かべ、玉兎はただ謝罪の言葉を重ねるだけだった。趙雲は憤怒をこらえ、玉兎の身体を抱え上げた。ここで怒鳴り続けていても仕方がないことは分かっている。ともかく一刻も早く戻らないといけない。
 縄を辿って急いで城の中へ戻ると、状況が思ったより悪いことに気付いた。玉兎の目は虚ろで、まるで氷の塊を腕に抱えているようだ。湯を沸かしている暇もなさそうだと判断し、趙雲は兵に酒の用意を頼むと自室へ走った。服を剥ぎ取り布団の中へ放り込むと、自身も裸になって可能な限り肌を合わせる。あまりの冷たさに統毛立った。胸に掛かる吐息に温度がない。

「趙雲様、お持ちしました!」
「湯の用意も頼む!」
「はっ!」

 取って返した兵を見送ることもなく、趙雲は届けられた酒を一気に流し込んだ。玉兎にも飲ませようとしたが朦朧としているのか上手くいかず、口を合わせて無理やり抉じ開ける。喉が上下に動いたのを確認すると、趙雲はふたたび彼女を抱え込んだ。

「死ぬな、玉兎──死ぬな⋯⋯!!」





表紙 トップ