「なんだ、これは」

 小さな枯れ枝を手に、孫策が呟いた。

 玉兎が部屋の掃除をしているところにたまたま顔を出したのだが、机の上にぽつんとそれが乗っているのを見つけたのだ。綺麗に整頓された部屋には不釣合いな代物に見えるが、根元のほうには丁寧に布が巻かれている。

「一緒に焼き場に持っていくか?」

 だが、布が巻かれている以外は何の変哲もないただの枯れ枝だ。一応声をかけ、良かれと思って他のゴミと纏めようとしたら、玉兎が大慌てで奥のほうから戻ってきた。

「ダメよ、それは!」

 焦る言葉のわりに取り上げる手付きも丁寧で、よほど大事にしているらしいことが窺えた。なんとなく気に入らない。ゴミ同然のものが玉兎の心を奪っていることも、自身の幼稚な嫉妬心も、孫策の機嫌をわずかに傾けるに十分だった。

「⋯⋯ゴミだろ。捨ててしまえ、そんなもん」
「ダメです、これはゴミなんかじゃありません」

 じりじりと逃げる玉兎を壁際に追い詰めた孫策は、その手から枯れ枝を取り上げようとした。玉兎が胸に庇って肩を向けてくる。単純にムカついて、どかんと壁を殴りつけた。

「寄越せ」
「⋯⋯だっ、だめ、おねがい⋯⋯」

 潤んだ目が見上げてきて、それに情欲を掻き立てられる自分にも腹が立つ。手を伸ばそうとしたところで、玉兎がもぐもぐと気まずげに訊ねてきた。

「⋯⋯もしかして、覚えてないの⋯⋯?」
「なにをだ」
「⋯⋯これは、あなたが初めてわたしにくださったものよ」
「はあ?」

 こんなもんくれてやった覚えはない。というか、自分がやったにしても、こんな枯れ枝までいちいち大事に保管しておくな。部屋がゴミでいっぱいになるまで溜め込むつもりか。

「⋯⋯⋯⋯桃の枝です」

 重ねて言われ、孫策は渋々記憶を辿り始めた。とはいえ幼い頃から一緒にいるので忘れていることのほうが圧倒的に多い。むしろお前はなんでそんなことまで覚えているんだと玉兎に言いたい。言いたいっていうかわりと言っている。

「知らん」

 目線を上に向けて考え込んでいた孫策は、けっきょく一言で答えた。

「あなたは知らないのではなく忘れているだけです」

 これもいつものやり取りである。それはいいから早く答えを寄越せと孫策は玉兎の顔に目を戻した。

「⋯⋯あなたが、簪の代わりに、くださったものです」
「ア"ぁ⋯⋯? ⋯⋯あー⋯⋯う〜ん⋯⋯」

 なんだっけ、なんかそんなことがあったような気もする。あれは⋯⋯確か⋯⋯確か、そうだ、玉兎と喧嘩したときのことだ。

 その頃は玉兎の母もまだ健在で、彼女は自分たちが一緒に遊ぶことにあまり良い顔をしていなかった。今なら分かるが、彼女も思うところが色々とあったのだろう。領主の息子と平民の娘、想い合っても結ばれてはならぬと、玉兎が身の程を弁えすぎる性分は彼女の教育によるところが大きい。
 すでに夫も亡く、残されたのは腕っ節の強い娘一人。女手一つで子を育てていた彼女は、常々玉兎に「お前が侠であれば」と言っていたそうだ。それは男児がないだけでなく、男女の情が芽生えれば玉兎が辛くなるだけだと分かっていたからだろう。
 だが幼い自分たちにはそんなん分かるわけがない。彼女の目を盗んでは山の中で遊んでいた。で、喧嘩した。よくあることだったが、そのときは自分が癇癪を起こして仲直りのきっかけを掴めず、それで母に相談した。父に相談するのはどうも抵抗があったような気がする。それから、女のことは女だろう、と思ったような気もする。
 母は優しく笑い、簪をくれて、謝っておいでと言った。翌日、その通りにして、無事に仲直りできた。そしたら、さらに翌日、顔を腫らした玉兎と母親が簪を返しに来た。

「こんな高価なものを頂くなんて恐れ多い⋯⋯。どうぞ無礼をお許しください。これにはよく言い聞かせておきますゆえ⋯⋯」

 無理やり頭を押さえ付けられた玉兎の頬には、涙に濡れた跡があった。彼女の置かれた立場がどういうものか、孫策はそのときにようやく朧気ながら理解した。

「ごめんなさい、どうか玉兎を叱らないでやって。私が悪いのです。この子に簪を渡すよう言ったのは私なの」
「いいえ、いいえ⋯⋯虎夫人様は何も⋯⋯。浅はかなこの子が悪いのです、侠のくせに色気づいて⋯⋯」
「何を言っているの、玉兎は」
「これは侠です。本人もそう思っております。でなければ木刀を振り回して山を駆け回ったりなど致しましょうか」

 母は言葉が見つからない様子で、彼女と玉兎とのあいだで何度か視線を行き来させていた。
 そのとき、押し潰されるような罪悪感を覚えたことを記憶している。自分のせいで玉兎は顔が腫れるまで折檻を受けたのだと。だが同時に、玉兎の母親が恨めしくて仕方がなかった。どう考えても向ける矛先が違うだろうと感じたが、自分が何か言えばまた玉兎が酷い目に遭うのではないかと思うと何も言えなかった。

「⋯⋯おれのせいだ」

 玉兎が引き摺られるようにして帰ったあと、悔しくて、憎くて、玉兎を思って彼女がそうしたことも分からずに、そう言った。余程酷い顔をしていたのだろう、母は首を横に振り、宥めすかす口調で答えた。

「いいえ、策、お前ではなく私のせいよ。それに⋯⋯彼女も玉兎を可愛く思っているのです。だからあのように⋯⋯。⋯⋯いいわね、決して、恨んではなりませんよ」
「⋯⋯でも⋯⋯」
「ごめんなさいね、私がもう少し考えていれば⋯⋯おいで、策」

 そうして母に手を引かれ、桃園で満開の枝を一振り、丁寧に切り落とした。

「これなら言い訳も利くわ。玉兎は賢い子だから、きっと悟られるような真似もしないでしょう」
「⋯⋯うん」

 やっと思い出した──いや、忘れてはいなかった、というかあの強烈な罪悪感を忘れられるわけもない──が、まさかそのときのものとは思わなくて繋がらなかった。

「ああ⋯⋯あのときの⋯⋯お前、酷い顔だったな」

 つんと唇を尖らせた玉兎の腰を、孫策はゆっくり抱き寄せた。あの一件では本当に可哀想なことをしてしまったと改めて感じる。
 妙な真似をするつもりはないと示しながら枯れ枝を取り上げ、しげしげと眺めてみた。よくもまあ今まで持っていたものだ。そういえば、母を亡くしてこの城へ来たとき、玉兎は着の身着のままの姿だったが、枝を一振り握っていたのを思い出した。とっくに花は散り果てて、ただの枯れ枝と化したものを、それでも後生大事に胸に抱えて。

「これは、わたしの宝物です。⋯⋯捨てちゃだめ」
「⋯⋯だが、俺が傍にいるのに必要か?」
「そっ⋯⋯それはそれ、これはこれです」

 どうしても捨てたくないらしい。ふたたび彼女の手に戻ったそれは、とうの昔に命を終えたくせにどこか生き生きとしているように見えた。
 孫策は玉兎の手の中のものを折ってしまわないように注意して、その身体を抱え上げた。

「あの、⋯⋯孫策さま?」
「うん?」
「ちょっと待って、ちょ、なに、えっ?」

 寝台に下ろされた玉兎は、いきなりの展開に着いていけず気忙しく視線を泳がせた。なんとなく不味い予感がする。ぎゅっと枝を胸に握り込むと、ことさら優しく取り上げられた。傍の机に、これまた優しく丁寧に枝を置いた孫策は、おもむろに圧し掛かってきた。

「ちょ、」
「催した。付き合え」
「は!!? やめてよ!!」

 昼間だし、掃除のために窓を開け放っているし、ていうかなんで急にその気になっているのか玉兎にはまったく意味が分からない。

「本当に馬鹿だよなぁ、お前」

 親を亡くし、幸いにも城に引き取られたとはいえ、こんな枯れ枝を持ってくるか? 普通はもっと他にあるだろう。それがどんな物であれ、形見の品とか、そういう類のやつが。だというのに、まったくどれだけ健気なのだ。ああ、そういえば母も玉兎が唯一持ってきた物を見てえらく感動していたような気がする。

「や、やめてってば⋯⋯!」
「そう嫌がるな。妻を可愛がらせろ」

 孫策は虎のように喉の奥を震わせて、苦しいほどの愛おしさに、ただ笑った。






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