朝霧の中、具足の重い音が重なり、大勢の気配だけがある。興奮した馬の息遣い、鎧の擦れる高い音。誰が示し合わせたわけでもなく、その日の早朝、軍勢はふたたび集結していた。
 公孫瓚は、濃霧の中から現れた孫の一族の中に、彼女の姿を見つけた。目元を隠す厳めしい面に隠されてなお、その表情は沈んでいる。引き結ばれた口元は強張っていた。

「⋯⋯大丈夫か?」
「⋯⋯ええ」

 気合の入ったやり取りをしている劉備たちを横目に、思わずそっと声をかけた公孫瓚だったが、彼女はただ頷いただけだった。いまこの場で他の答えなど有り得ないと分かっていながら口を滑らせてしまったことに、ひどく申し訳なくなる。
 消沈し、しかし静かな視線からは、何を考えているのか読み取れない。

「共に力を尽くそう」
「はい⋯⋯」

 互いに生き残れるか分からない。それでも、いまこれ以上何かを口に出すことは許されないと思った。自分は言葉をかける立場にない。公孫瓚は、もどかしさと、喉を競り上がりそうになる言葉を必死に堪らえ、強く拳を握った。

 互いに生き残れたら。その時に、もしも、許されるのなら⋯⋯。











 意外な形で決着が着いた決戦は、しかしいまだ終わってはいなかった。
 勝ち鬨を挙げる連合軍を横目に、孫の──というより玉兎と玉兎の部下は勝利に浸る間も休む間もなく負傷者の救助を始めていた。それを見て、動ける者は誰からともなく彼女たちに手を貸し始める。将軍や軍師も、体勢の立て直しと円滑な救助のためにすぐさま自軍の状態の把握を始めた。天幕に戻り、動ける者の数、負傷者の数、馬や兵糧、薬の類の残数と、とにかくやるべきことは多い。野営地に運び込まれてくる負傷者の数は増えるばかりで、手当てに必要な物の数は減るばかりだ。物資が行き届かなくなるのも時間の問題だったが、それでも玉兎たちは誰一人として見捨てようとはしなかった。董卓軍の残兵にすら肩を貸し、手当てを施してやり、動けるようなら引き連れて戦場跡に戻る。その繰り返し。
 公孫瓚も曹操、孫策らと共に一旦天幕に戻り、自軍の把握と編成を終えると、趙雲と兵たちを連れて野営地からふたたび戦場へ戻ろうとしていた。
 そのときだった。
 戦場跡の端でにわかに騒ぎが起こり、その中心が孫軍ということに気付いて、公孫瓚は慌てて駆けつけた。

「玉兎、なんでそんな連中を庇うんだ! こいつらはっ⋯⋯!!」

 孫軍の兵士が玉兎に刃を向けている。彼女は、曹軍に降った徐晃と数名の董卓軍の残兵を背にして立っていた。酷く憔悴し、悲壮な顔付きをしている。騒ぎを聞きつけて集まってきた兵たちも殺気立ち、異様な空気が渦巻き始めていた。ここにきて、払った犠牲のあまりの大きさと極限の疲労に、多くの者が限界を迎えつつあった。

「皆──周りを見て」

 彼女が目顔で指し示したものを、公孫瓚も無意識に窺った。
 夕闇迫る荒廃した大地には、あちこちに骸が転がり、死と、血と、埃っぽい臭いが立ち込めている。死肉を求めて集まってきた鳥獣がうろつく地獄のような光景の中、いまだ絶えることのない助けを求める呻き声。

「これ以上にまだ犠牲が必要だというのなら、まずわたしを殺しなさい。お傍にいながら孫堅さまをお護りできなかったこのわたしを──」

 彼女は疲れ果てた口調で言い、突きつけられた切っ先を掴んで自身の喉元に押し当てた。兵士は腕を震わせ⋯⋯顔を覆って崩れ落ちた。すすり泣く彼の肩を、わずかではあるが落胆を見せた玉兎が、それでも優しく抱き寄せる。

「ここまで本当によく頑張ってくれました。さあ、少し休んで⋯⋯」

 他の兵士に泣き崩れる侠を任せたあと、彼女は残兵には目もくれず、ふたたび荒れた大地に向き直った。その足元に、徐晃が素早く膝を着いた。

「討たれる覚悟はしておりました。なんと礼を申せばよいのか──」
「⋯⋯皆、お前たちを許したわけではありません。己のしたことを悔いる気持ちがまだあるのなら救助を手伝いなさい」
「御意」

 こうべを垂れた侠を一瞥し、彼女は顔を上げた。周りの兵たちを見回して、先ほどの憔悴した顔付きとはまるで違う、微かに笑みさえ浮かべた唇が声を張り上げる。

「さあ、皆、もう一頑張りよ。でも無理だと感じたらすぐに休んで。動ける者はわたしと来てください。今ならまだ多くの命を救えるはずです」

 その言葉に、ほとんどの兵が彼女に着いていった。公孫瓚も部下を連れ、彼女とは違う場所で救助に加わった。身体は痛むが、彼女に比べれば何ということもない。こんなもの掠り傷に等しい。直接の原因ではないにしろ父を喪った遠因を庇い、兵の悲しみに寄り添うその強さを想えば。
 自身だってよほど辛いはずなのに──。

「⋯⋯気丈な娘ですね」

 同じことを思ったのは自分だけではなかった。趙雲がポツリと呟き、公孫瓚は頷いた。

「ああ。⋯⋯我々も頑張らないとな」
「そうですね」

 微かに口角を持ち上げた彼に、公孫瓚は少し驚いた。さすがの趙雲も心身の疲労から、先ほどまでは凄まじい形相になっていたのだ。それで自身の顔が緩んでいることにも気付き、また驚く。もしかしたら自分も同じ形相をしていたのかもしれない。
 公孫瓚は辺りを見回す。気付けば、軍勢に関係なく、ほとんどの者が声を大きく掛け合っている。死の立ち込める大地に、生きる者の活気が戻りつつあった。助かった命に笑みをこぼし、肩を貸し合い、傷の手当にあたっている。
 吹き抜ける風が、血と死の臭いを浚っていくのを確かに感じた。

「⋯⋯⋯⋯風が心地良いな」
「ええ、まったく」

 今度こそはっきりと笑みを見せた趙雲に、公孫瓚も同じように目を細めて笑った。






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