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月が巡って、年が明け。新たな一年が始まり、しばらく経った頃だった。
「孫策よ⋯⋯お前ももう十六だ」
その日、息子を呼び出した孫堅は、顎を撫で撫で神妙な顔付きで言った。
「はあ」
溜め息のようななんとも不明瞭な息子の返事も気にせず、彼は続ける。
「お前もいずれ世継ぎを残す。そろそろ女を知っておけ」
「⋯⋯⋯⋯はあ⋯⋯」
さらに茫然たる反応もどこ吹く風で、彼はなおも続けた。
「気になる
「⋯⋯いえ、とくに」
一応考える素振りは見せつつも、しかし孫策は首を左右に振った。芳しくない返答だったが、孫堅もこの程度で折れるような侠ではない。
「玉兎はどうだ。あれは器量も良いし──」
「あれは女にありませぬ」
にわかに目付きを鋭くし、顔を顰めて孫策が遮った。
反応はともかく、孫堅にとってその言葉は意外というか予想外だった。孫策と玉兎は衝突ばかりで仲が良いとは言えないものの、だからといって憎み合っているというわけではない。ただ、孫策の侠としての矜持と、玉兎の臣下としての顧慮のために、顔を合わせれば険悪な雰囲気になっている。
孫堅としては、玉兎のほうが口煩いかと思えることも確かにあった。難しい年頃の孫策にとってはなおのことだろう。好いた女にあれこれと小言をもらえば、こういう反応を取るのもおかしくはない。
だが、玉兎の気持ちもよく分かった。孫策はやんちゃが過ぎるのだ。以前は玉兎のほうが強かったこともあり、良いところを見せたいと気が逸っているのもあるのだろう。そのせいで玉兎はますます孫策を案じ、孫策はそれでまた侠としての矜持から武功を焦り⋯⋯と、まさに悪循環なのである。
「ふむ⋯⋯女にあらずか⋯⋯」
しかし、戦場に出したくないがため玉兎が女であることを大義名分にキレていた孫策がこう言うとは。
彼女を戦いからを遠ざけることを諦めたのか、それとも孫策の中でそれほど玉兎への想いが悪化しているのか。まあ大方後者ではあろうが。
「お話はそれだけでしょうか」
舌打ちしそうな勢いで孫策がいらいらと言うが、舌打ちしたいのはむしろ孫堅のほうだった。
息子がこういう反応をするだろうことは、孫堅には当然予想がついていた。だからまず、玉兎のほうに話をしたのだ。そろそろ女として愛される喜びも知っておけ、と。
「牙にそのようなものは必要ありませぬ」
返されたのがこの言葉である。思わず額に手をやって、頭を抱えたのはつい先日のことだ。
「お前も一介の武将だ。だがどれほど腕が立とうとも、そこに心がなければ兵は着いて来てはくれぬぞ」
「武将としての心はありますが、女としての心など持ち合わせてはおりません」
「いいや──お前は女だ。ワシの目を誤魔化せると思うておるのか」
「わたしは牙でございます。それ以上も以下もなく」
まったく頑迷に繰り返す玉兎に、孫堅は痛ましく首を横に振るしかできなかった。
玉兎も今年で十六になる。平民上がりとはいえ、見目も良く腕も立つ娘に育った。加えて表向きは孫策の護衛も務める傍仕えである。恭順で忠義に厚く勇猛果敢、奥の間を護る懐刀としてこれほど優秀なものはない。
孫堅の束ね上げた豪族が、そろそろだと手を拱いているのは火を見るより明らかだった。虎の庇護のもとにあるといえど、彼女を“女”として護ってやらねばならない時期に来ている。
「──分かった、もうよい」
孫堅は上座から息子を見下ろし、腹の底から深々と溜め息を吐いた。二人があくまでこういう態度を貫き通すというのであればもう仕方がないし、どうともしようがない。
「策よ。玉兎を呼んでまいれ」
「⋯⋯は」
触れられたくない話題から解放されて、孫策は何の疑問も持たず、これ幸いとそそくさ退室していった
「孫策。話がある」
中庭で人形を相手に得物を振るい、不明瞭な胸中の心地悪さを発散していた孫策は、背後から掛かった親友の声に、構えは解かぬまま応えた。
「なんだ」
「玉兎が殿の妾になったそうだ」
「──は?」
それまで人形から視線を逸らさなかった孫策は、ようやく周瑜に目をやり──この侠は、これほど冷たい貌をしていたかと思う。軍師として手腕を揮う時でさえ、こんなにも凍て付いた貌はしていない。
初めて見た友の表情に、孫策は先の言葉を理解する間もなかった。だが周瑜は彼を待ってなどくれない。
「しかしまあ当然だな。あれほどの女だ、ここら一帯の豪族は耽々と狙っていただろう。だがこれで一安心だ。殿の下にあれば、そう易々と手出しはできまい。あとは無事に殿の子を成せば、彼女は戦場に出ることもなくなるだろう」
ただ愕然と目を合わせてくる孫策に、周瑜はいっそ冷酷なほど平坦な声で続けた。
「お前とて、そんなことも分からずあれを邪険にしていたわけではないのだろう? 良かったな。一線から退かせたがっていたお前としては願ったり叶ったりだろ」
孫策は言葉を失くして立ち尽くし、反応を見せなかった。周瑜も構わず、さらに笑ってみせる。
「あいつ、泣いていたぞ。嬉し泣きかもな。どれだけ案じても聞きやしないお前に仕えるくらいであれば、殿に可愛がられているほうがよほどマシだと」
「貴様──」
ようやく我に返ったか、にわかに殺気立った孫策を、周瑜はなおも嗤笑した。
「怒れるか。それはあいつにか? てんで見当違いだな。殿の命ならばあいつは従うしかない。
それとも私の言葉にか? 馬鹿馬鹿しい。身を落ち付けさせねば外から狙われる。かと言って内のお前は撥ねつけるばかり。殿にその選択をさせた自身を少しは省みてはどうなのだ。
もう一つ言っておこうか。私の妻にという話が出なかったのは殿の慈悲だ。もしもその話が上がっていたら、」
周瑜は孫策に劣らぬ殺気を放ち、孫策を見据えた。
「──私が彼女を娶っていた。殿のお言葉だからではなく、私自身の希望としてな」
同じ側近として共に過ごしてきた分、玉兎の想いは痛いほどに分かっている。だがその上でも、友としての親愛から、彼女が傷付き続けることは看過できなかった。
「お前、本気か──」
孫策は唖然と呟いた。
寝耳に水だ。周瑜が玉兎をそのように思っていたなど。
「──冗談に聞こえたか? 今のお前に渡すくらいであれば、私のほうが幸せにしてやれると自信を持って言える。だいたい女の一人も笑顔に出来ず、民の笑顔を守れようはずがない。私はそんなクソみたいな領主に仕えるつもりはない」
友として侠として信頼している周瑜から明らかな宣戦布告を叩き付けられ、孫策は頭に上っていた血が下がる心地だった。
好き勝手言うだけ言った周瑜が去ったあとも孫策は長いことその場に突っ立っていたが、日が落ちてしばらくしてからようやくふらふらと歩き出した。どこへ行こうというのだろうかと虚ろな頭で考えて、城の中にいないほうがいいと結論を出した。いま玉兎の顔を見たら何を仕出かすか分からない。それを自覚できる程度には、孫策は冷静だった。周瑜の言動があまりに強烈だったおかげで、怒りも困惑も通り越していたからだ。
なんとなく、桃園のほうへ向かう。その足取りは覚束ない。まるで悪夢の中を彷徨っているようだった。いや、これはまさしく悪夢だった。玉兎が誰かの、それが最も敬愛する父相手であろうと、自分以外の物になるなど。
二十六夜。それは空を掻いたように細く。
心まで塞ぐ暗闇の中、孫策は凍えるように寂しい桃園に一人佇み、空を仰いだ。
いつだったか、彼女はただ自分を心配しているだけだと周瑜は言った。心配せずにいられるほど強くないのだとも。
それを頭の片隅で理解していながら突っ撥ねた。自身のちっぽけなプライドのために。惚れた女を傷付けてまで守るようなものではない。分かっていながら、なぜ今の今までこうまで意地を張ったのか。
──認め難かった。
玉兎が自分と並び立つことも、戦場に出ることも。露払いを一身に引き受け、その身を盾にしてまで自分を護ろうとすることも。
──だから認めさせたかった。
もう護られねばならぬ小若様ではない、惚れた女の一人くらい自分の手で護れる大人に、侠になったのだと。
こうして自身を省みれば、なるほど確かに愚の骨頂ではないかと痛感するばかりだった。惚れた女の小言にいちいち頭に血を上らせて、それが誰がための諫言かを分かっていながら、自分が気に食わないだけだろうと非難する。
まったく、愚かにもほどがある。
彼女はすでに、間違いなく自分を疎んじている。いくら幼馴染でも、昔は睦まじくしていても、言っても聞かぬ、諌めれば遠ざける、そんな侠をいつまでも慕っていようはずがない。
だが、彼女もまた自分に疎んじられていると感じているのではないのか。そう思わせる態度を取ってきたのは否定しようもない事実だが、自分はむしろ彼女を好いている。疎んじていると、頭からそう信じられているのは辛いと思った。散々蔑ろにしておいて、彼女のほうがよほど辛かったろうに、まったく気がおかしいのではないかというものだが。
話をしなければと思った。
何はともあれ、自分の気持ちを正直に、包み隠さずすっかり曝け出さなければと思った。その結果、彼女がどんな選択をするにせよ。
そうだ。
こんなことは、もう、やめにしなくてはならない。
「玉兎」
「⋯⋯はい、何か」
孫策は月明かりもない暗い廊下で、細い背中を呼び止めた。
彼女はほんの少しばかり気まずげに、しかしその目には凛とした光を宿したまま、一礼した。拳礼ではない。つまり、いまの彼女は──その思考を遮るように、揺れた袖から巻き上がった仄かな甘い香りに、孫策は猛烈に胸が苦しくなる。まさに父の寝所へ向かう途中だったのだろう。
「話がある。来い」
「申し訳ありませんが──」
「父上のところなら後にしろ。そっちは長くなるだろう」
一瞬、光が揺らいだ。ひどく傷付いた色を見せた目は、すぐに瞼に隠された。
「⋯⋯しかし⋯⋯殿をお待たせするわけには⋯⋯」
「俺なら待たせていいと?」
「そ、ういう、わけでは⋯⋯」
自身がひどく苛立っていることに気付いているが、どうにもならなかった。顔を見てしまうとやはりいけない。抑えが利かなくなる。どうしてこうもわざわざ彼女を斬りつけるような言葉を選んでしまうのだろう。
「いいから来い。父上には、遅れた理由を俺から申し上げてやる」
「⋯⋯⋯⋯分かりました」
深く頭を下げ、彼女は後ろに着いた。大人しく自身の後に従う気配に、孫策は安堵と迷いに息をつく。妾とはいえ父の女になったのだ、このような真似をすれば問題になることは分かりきったことだった。
従わせたのは自分なのに、なぜ従うのだと玉兎を責めたくなる。その心はどうせ父のもののくせに。
「あの⋯⋯若殿さま」
「なんだ」
「いえ──いえ、わたしはここには入れません」
首を振り、玉兎は立ち竦んだ。
孫策の寝所の扉前、部屋の主が開いた戸を抑えている。
だが入れるわけがない。この歳で侠の
「⋯⋯⋯⋯ならば引きずり込むまでだ」
低い声で宣言され、その手から逃げるより早く、言葉通りにされた。投げ捨てるように奥へ追いやられ、体勢を立て直す頃には退路は断たれていた。
「若──」
声が震える。動揺と、侠に対する本能的な恐怖が染みてくる。
「座れ」
孫策は彼女の様子を感じ取りつつも、寝台近くの卓の椅子を引いた。怯えて動かなかったので仕方なく手を取って、腰を落ち着けさせる。
「お前も飲め」
用意しておいた酒を二人分注ぎ、卓上に灯した明かりを見つめながら、ただ黙々と飲み進めた。自分の酒が飲めないのかと脅して玉兎にも無理やり飲ませれば、彼女ももはや諦めたのか黙って酌をし始める。互いに注ぎ合い、彼女の目元がわずかに赤くなってきた頃、孫策はようやく口を開いた。
「妾になったと聞いた」
「⋯⋯はい」
「それは君命だったのか?」
「⋯⋯それは⋯⋯⋯⋯」
「なぜ断らなかった」
「殿の言葉は君命と同じです。それに⋯⋯」
言葉を切った彼女に、孫策は努めて努めて優しく促した。
「言ってみろ」
「⋯⋯⋯⋯豪族がわたしを娶りたいと。どちらを選ぶかは好きにしろと申されました。わたしは牙です。殿のお傍を離れるようなことは⋯⋯」
酒が入ったおかげで少しは素直だ。飲まなければ到底告げられぬ心情を、こちらも見せる時だった。
「俺より父上がいいか?」
「──え?」
こんな訊きかたは卑怯だと分かっている。彼女はきっと選べない。選ばない。
そして⋯⋯選んでほしくない。
答えを聞きたくないくせに、天秤に掛けさせようとしている自分は卑劣な侠だと思う。
「父上と豪族ならば父と言う。では、父上と俺ならば、お前はどちらを選ぶのだ」
「そんな⋯⋯⋯⋯ひどいことを⋯⋯ずいぶん、ひどいことをお訊ねになるのですね」
「この手の駆け引きは好かん。はっきり言うぞ。俺はお前に惚れている」
目を見開いた彼女に、まだ望みがあるのではないかと思い込みたがる自分がいるのにほとほと嫌になる。
そんなわけがないのに、もうその心は離れてしまった後なのに。世の中には取り返しのつかないこともある。だが、まだ。もしかしたら。万に一つでも。
「お前はどうだ」
彼女はふたたび貝のように口を閉ざしてしまった。そうなるだろうと思っていたので、孫策は懇願の色も強く、縋るように言葉を重ねた。
「頼むから正直に答えてくれ。俺はただお前の真意が知りたいのだ。俺の想いに応える気がなくとも、それくらいは許してくれてもいいだろう」
彼女は長く黙っていたが、おもむろに席を立ったかと思うと、孫策の足元に膝を着いた。そして深く深く頭を垂れ、
「⋯⋯今も昔も。⋯⋯変わらずお慕いしております⋯⋯」
「それは、俺を、侠としてか」
孫策は、一つ一つ言葉を区切って、強く確認した。
それに彼女がただ黙って微かに頷いたので、孫策は心を決めた。
「では俺の妻になれ。これは俺の命だ。拒むことは許さん」
「むりです。わたしのような下賎の者が──」
「では妾にと言えば従うか?」
「それは⋯⋯⋯⋯」
視線を逸らして拒絶を見せた彼女に、孫策は血が煮えた。目の前が真っ赤に染まるような、憎しみに近い怒りだった。
「玉兎。お前、自分でおかしいと思わないのか? 俺には下賎の者と言って拒みながら、父上であれば構わぬなど矛盾している」
彼女は息を呑み、言葉を失くしたようだった。仄かに色づいていた頬が白くなっている。その様子にさらに心火が燃え盛った。玉兎は自分を選ばなかったばかりでなく、正直にと請うたのに、その心を偽ったのだ。
「どうした? 俺では駄目で、父上ならよいという、納得できる理由を出してみろ。どう考えても、父上を好いているからとしか言えんだろう。となると先の言葉は偽りということだ」
「ちがいます──ちがう、わたしは⋯⋯」
頭を振りながら顔色さえも失った玉兎を捕らえ、寝台に投げた孫策は、その身体に圧し掛かった。
「お前の心が父上のものというならそれでも構わん。
だが俺も虎の子よ──得られぬならば、何もかも、お前の全てを喰らい尽くすまでだ。それで矢打たれ死のうとも」
絶句している彼女を見下ろし、孫策は腹の底から昏く冷たく嗤ってみせた。彼女の表情の理由は失望か、絶望か──べつにどちらでも構いはしない。全てはここで終わるのだ。
そうだとも。
こんなことは、もう、やめにしなくてはならない。
「俺と共に死ね、玉兎」