「玉兎? おい──お前、どうした? 顔が白いぞ」

 廊下でたまたま彼女と顔を合わせた周瑜は、驚いて彼女の肩に手をやった。いつものように袖で口元を隠している彼女の顔色が、一目見て尋常でないことに気付いたのだ。

「いえ⋯⋯なにも」
「馬鹿を言うな。どう見ても、なにもないという顔色ではないぞ」
「⋯⋯いえ⋯⋯」

 言いながらも、腕にわずかに身体を預けてきた玉兎にますます驚き、これは本格的に不味いと感じた。急いで彼女の部屋へ連れ戻り、寝台に座らせてやると、玉兎は白い顔のまま震えだす。いずこから、なにかタチの悪い病でももらってきたのか。

「寒いか? ともかく横になったほうがいい。待っていろ、いまなにか温かい飲み物を──」
「いえ、平気です」

 そのあまりの頑なさに、猛烈に腹が立った。彼女はいつもこうだ。

「だから平気ではないだろう!」
「覚悟はしていたのです」

 怒鳴りつけられたにも関わらず玉兎が唐突にそう言うので、周瑜は瞬間的に沸いた怒りが困惑に変わった。

「⋯⋯お前⋯⋯本当に、いったい何があったのだ?」
「⋯⋯わたしは今日より、孫堅さまの⋯⋯妾となりました」

 周瑜は一瞬言葉を失ったものの、冷静に頷いた。直にこうなるだろうと予想がついていたからだ。

「そうか──⋯⋯。そうか、とうとうか」

 彼女とて馬鹿ではない。覚悟もしていたと言う。ならば全て分かって飲み込んでいるということだ。

「⋯⋯だがお前はそれでよいのか?」
「よいもなにもありませぬ。殿の命ならば従うのみ」
「孫策は」

 名を出せば、能面のようだった表情がぴくりと動いた。

「若殿さまが、何か?」
「とぼけるな」
「とぼけてなどおりませぬ」

 ふたたび表情を殺した彼女の声や口調からは、感情さえも消えていた。

「⋯⋯お前が孫策への想いを殺していることは、私だけでなく殿も分かっておられるんだぞ」
「いったい何の話です。わたしは牙。それ以上も以下もなく」
「孫策はお前を想っているんだ。それでもか」
「関係ありませぬ。牙には愛など不要です。鋭さだけがあればいい」
「なぜそうまで頑ななのだ、お前は!!」

 冷えた怒りがふたたび煮えたが、それは玉兎も同じことだった。

「なぜそうまでわたしを苦しめようとするのです!!」

 怒鳴るというより悲痛に叫ばれ、周瑜は思わず動きを止めた。

「わたしのような下賎の者が、若殿さまに相応しいと本気で思っているのですか? 肌を合わせられるような女だと、本気で? まるで正気の沙汰ではありません。そもそも、」

 彼女は顔を隠して肩を震わせた。

「あのお方はわたしを疎んじています。それも覚悟で苦言を呈していました。こうなることは分かっていたこと。
 どうか⋯⋯もう、かまわないで──おねがい⋯⋯」

 難しい年頃なのは玉兎とて同じなのだと、周瑜はそこでようやく思い至った。孫策や、時には自分よりもよほど冷静で大人びてはいるが、逸らさず真っ直ぐに前だけを見つめる視線は逃げ道さえも知らない無垢さで、いっそ子どもじみていた。

「⋯⋯孫策がお前に愛を囁けば、お前はあいつの想いを信じるのか?」
「あのお方がわたしに愛を囁くことも、わたしがそれに応えることも有り得ません」

 周瑜はなんだかもう笑えてきてしまった。そのついでに、今の言葉が真かどうか、確かめてやろうという気持ちがめらめらと燃えてきた。無理難題を覆す──まさに軍師たる自分の仕事に相応しいではないか。

「頑固なところはあいつにそっくりだな、お前」
「どうでもよいこと」
「──分かった、分かった。もう何も言わぬ。だが、これだけは聞いてくれ。顔色が悪すぎる。少し休め」

 彼女は何も言わず、しかし小さく頷いた。布団に潜るのを手伝ってやり、宥めるように彼女の腹を二、三軽く叩いてから、周瑜は部屋を後にした。そして、その足ですぐに孫堅の元を訪れた。事態はもはや一刻の猶予もない。

「殿。一つ、賭けを致しましょう」
「ほう⋯⋯。いったいどのような?」
「今夜、玉兎に同衾するよう申し付けてください」
「それで?」
「もし玉兎が申し付け通りに殿の下へ参れば、殿の勝ち。参らねば私の勝ち──如何ですか?」

 挑戦的な瞳で見上げてくる彼には、何か思惑があるのだろう。孫堅はそれに乗った。

「⋯⋯よかろう。⋯⋯して、勝った暁には何を望む?」
「それはまたその時に⋯⋯」
「そうか⋯⋯では、ものはついでだ、お前から今夜のことを玉兎に伝えておいてくれ」
「分かりました。では」

 玉兎の部屋へ取って返し、事の次第を伝えた周瑜は、彼女の様子が気がかりではあったもののまた慌しく部屋を出た。早足に、今度は中庭へ向かう。相手の行動など把握している。今はきっと人形を相手に得物を振るっているはずだ──。



「冗談に聞こえたか? 今のお前に渡すくらいであれば、私のほうが幸せにしてやれると自信を持って言える。だいたい惚れた女の一人も笑顔に出来ず、民の笑顔を守れようはずがない。私はそんなクソみたいな領主に仕えるつもりはない」

 予想通りに中庭で得物を振るっていた孫策に言いたいことをぶちまけるだけぶちまけて、立ち尽くす侠を冷たく見やり、周瑜はその場を後にした。

 さあ──この一手、吉と出るか凶と出るか⋯⋯。

 勝負を掛けたはいいものの気が気でなく、夕餉の味もよく分からないまま、周瑜は時を待った。

 さらに夜も更けて月が傾き始める刻に、周瑜は気配を消して孫策の寝所の扉の前に立った。人払いされているのか、夜番に立っているはずの兵の姿が見えない。息を殺して戸に手を触れる。恐ろしいことに、閂は掛かっていないようだった。何が起ころうと覚悟の上ということなのか、あるいはただ自暴自棄になっているのか。薄く戸を開けて耳を近付けてみると、微かに──だが確かに、寝台の軋む音。重い水音、獣のような息遣い、そして玉兎のものとは思えぬほど高い声。

 周瑜は気を抜かず、慎重に戸を閉めて、静かに立ち去った。詰め所の兵士に今日一日は孫策の奥の間に人を近付けぬよう申し付けると、逸る心を落ち着けるように漫ろ歩いて桃園のほうへ出た。
 空を仰げば、まだ闇を纏うそこには掻き傷のような細い月。低い場所にあるそれをぼんやり眺め、周瑜はようやく長々と溜め息を吐いた。

 ──勝った。

 だがしかし、これはまだ布石に過ぎない。ここから孫策がどう動くのか、それもまた一つの賭けだった。最悪の事態を考えると、腹の底が冷たく落ち込んでゆくようだ。もしも孫策の持つあの激情が、最も悪い方向へ向かってしまったら⋯⋯。

 きっと孫策だけでなく──玉兎のほうはどう転んでも無事ではすまないだろう。情炎に身も心も焦がし尽くされ、もしやすると⋯⋯。
 だがそれが幸せなのかもしれないとも思う。いずこの戦場で、惚れた侠の腕を恋いながら独り朽ちるより、いまその手に掛かったほうが⋯⋯。

 ──分からない。これが正しいのかそうでないのか、そもそももっと違う方法があったのではないか。兵法には明るくとも、色恋の駆け引きなど学んできてはいない。それも面倒臭い侠と女の、こんな拗れた色恋だ。殿でさえ持て余すような。そしてだからこそ、おそらく殿も最後の賭けに出たのだろうと周瑜は感じていた。
 孫策はともかく、玉兎のほうはもはや進退窮まるところまで来ている。下手に優秀で見目も良いものだから、豪族が挙って妻に迎えたいと使者や書簡を送ってきている。誰かの物にならなければいけない──ならばその相手は、彼女が傍を望む孫策であればよいと願っている。それは殿も同じのはずだ。
 一種の荒療治だが、言うは易しいものの、これに負ければ彼女はどうなるのだろう。鋭さだけを共にして、戦場に散るのか。あるいは侠の臥所(ふしど)で折れるのか。

 周瑜は俯き、顔を覆った。凍てつく桃園に花はなく、揺れる水面には月もない。翳る空にはただ闇だけがある。






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