鶯が鳴いている。もうそんな季節かと、孫堅は上座から目を細めて窓の外へ視線をやっていた。ついこの間、寒さが緩んだばかりに感じていたが、うら寂しかった桃園もそろそろその枝を華やかに着飾るだろう。

 さてしかし、もう一つの花は無事に咲いてくれるだろうか。

 孫堅はおもむろに前へ向き直る。そこには孫策と肩を並べる若武者が、涼しい顔で立っている。

「周瑜よ。お前の勝ちだ。あれは昨夜、とうとうワシの元へ姿を現さなんだわ。して、何を望むのだ?」
「はい──」

 周瑜が面を上げたとき、広間の扉が開かれた。

「父上」

 なんとも勇ましい声を上げ、孫策が堂々と入ってくる。その目には闘志に似た何かが燃えていた。今にも出陣せんばかりの雰囲気だが、護身のため常に身に付けているはずの小刀すら携えていない。孫策は一切の丸腰で、上座に座す侠の前に進み出て膝を着いた。

「お叱りを受けに参りました」

 爛々とした目付きで言うことかと思ったが、玉兎を妾に迎えたのがそれほど腹に据えかねたのだろう。だったら最初から仲良くしろよと思わないでもないが、まあ最も扱いが難しいと言って差し障りのない年頃だ。
 孫堅は思いを色々と飲み込んで、息子を見下ろした。

「申してみよ」

 孫策は拳礼し、顔を伏せた。

「はい。私は──」

 彼は一度、小さく息をついた。異様な雰囲気を纏っている。むしろ戦場から帰還したばかりのような、興奮とも殺気ともつかない冷たい熱を放っている。もしや最悪の事態となったか──孫堅も周瑜も、悟られぬほど小さくだが、息を呑んだ。

「私は、玉兎が父上の妾となったことを知りながら、手を付けました」

 それは知っている。

 孫堅は胸の内だけで頷いた。
 基本的に恭順な玉兎が命に背いて姿を現さなかったということは、現せなかった理由があるということだ。例えば、そう、侠に捕まるとか。

「ほう。では玉兎にも罰を与えねばならんな」

 微かな懸念はおくびにも出さず、孫堅は憮然とした表情を作ってみせた。
 孫策と兄弟のように育った娘に手を出すつもりは毛頭なかったものの、それでも玉兎を妾に迎えたのは、外から護る意味もあったがそれ以上に孫策への警告を含んでいた。ええ加減にせえよ、と腹に据えかねていたのはこちらも同じということだ。

「いいえ。あれに罪はありませぬ。私が無理に奪ったのです」
「奪った? いいや、違うな。玉兎はお前に身体を許したのだろう」
「それこそ違います。玉兎は泣いて⋯⋯」

 孫堅は息子の喉が言葉を飲むように動いたのを見て取った。

「⋯⋯父上を⋯⋯呼んでおりました」

 やはり嘘だ。

 そんなに辛いのならば嘘などつかねばよいものを、自分一人が咎を受ければそれで丸く収まると思っている。玉兎の気持ちはそこになく、泣かせるだけだとまるで分かっていない。

「ワシがその話を信じると思うか?」
「私は事実を述べているだけです。ただただ、私が愚かだっただけの話⋯⋯あれの心を僅かでも動かせると、そう思っておりました。ですが、あれの心は父上のものと嫌になるほど痛感致しました。ですから、どうか⋯⋯どうか玉兎をお赦しください。罰するのは私だけで十分です」

 この口振りであれば、どうやら最悪の事態は免れたようだと二人は密かに胸を撫で下ろした。となれば、残る問題は⋯⋯。

 やたらに饒舌な孫策に、孫堅は最後の勝負をかけた。

「玉兎ならばお前が相手でも多少なり抵抗出来たはずだが?」
「⋯⋯手を上げましたので」
「それであれがワシを呼んだと。本気でそう申しておるのか」
「本気も何も事実です」

 これは灸を据える意味もあった。しかし正直なところ、始めたときから、すべてが賭けだった。周瑜がそうだったように、孫堅もまた。

「いいだろう。お前の言葉が真であれば、お前に罰を与える。だが、」

 ──だが、この勝負、なんとしても負ける気はない。

「もしもそうでなかったときは、玉兎に罰を与えるぞ」
「な、っぜです、あれに罪はないと申し上げているでしょう!」

 顔色を変えた孫策を無視し、孫堅はさらに続けた。

「どうした。お前の言葉が真であるなら、何を狼狽える必要がある。
 よいか、孫策よ──三度は聞かぬぞ。あれは確かに、お前の腕の中にいながらワシを呼んだというのだな」
「そ──そう、です⋯⋯」

 動揺して目をうろつかせているが、まだ諦めてはいない。しかし勝ちは見えた。最後の一押しだ。

「ワシの目を見て答えろ!! お前の言葉が真であるかは玉兎を問い質せば分かることぞ!!」

 とうとう蒼白になった息子の顔を見て、孫堅はこの状況にも関わらず、少し愉快な気持ちになった。勇猛果敢を絵に描いたような侠をこうまで怯ませるのだから、色恋というのはまったく面白いものだ。

「⋯⋯⋯⋯あれは⋯⋯」

 長い長い⋯⋯本当に、気が遠くなるような重い沈黙のあと、孫策は苦渋の表情で呟いた。ついにがっくりと肩を落として項垂れる。その姿はずいぶんと小さく見えた。

「⋯⋯あれは⋯⋯⋯⋯私と共に死ぬと言いました⋯⋯」
「そうか」
「父上、お願いです。玉兎には何の咎もありはしない。全て私が悪いのです。どうか、どうか⋯⋯」

 息子の嘆願を聞き流し、孫堅は周瑜に視線をやった。孫策の後ろに下がっていた彼は、ただ微かに頷いた。

「⋯⋯周瑜よ。先の話の続きだ。お前は何を望むのだ」
「はい、殿──どうか二人を、そして二人の仲をお許しに」

 静かに拳礼する若者に、まったく大した侠だと孫堅は顎を持ち上げる。

「よかろう。お前の望み通りにしようではないか」
「お待ちください、一体どういう⋯⋯」

 なにやら風向きが変わったことは分かるものの、話に着いていけてない孫策は困惑して二度三度と二人に視線を行き来させた。

「経緯は省くがワシと周瑜は賭けをしておった。それにこやつが勝ったというだけのことよ」
「⋯⋯⋯⋯まさか、お二人で私を謀ったのですか」

 あまりに出来すぎた展開に、孫策は疑いの目を向けた。

「いや、違う。だがそんなことは今はどうもよい、お前は早う玉兎のところへ戻れ。この状況でお前の姿が見えぬとなると、あれは腹を斬りかねん──お前と共に死ぬと言ったのだろう」

 孫策ははっとして、しかしまだ困惑を残したまま、もう一度だけ二人を見た。

「失礼しますっ⋯⋯!」

 頭を下げ、素早く退室していった孫策の足音が聞こえなくなってから、孫堅は息を吐いた。今までの人生で一番深い安堵の息だった。

「周瑜──」
「はい」

 名を呼んで、くつくつと喉を鳴らし、仕舞いには笑い出す。遠慮もくそもない大爆笑だ。

「すべてお前の筋書き通りというわけか」
「いいえ⋯⋯不安も大いにありました。⋯⋯正直に申しますと⋯⋯孫策様は玉兎を手に掛けるのではないかと」
「あれの激情を知っておれば無理もない。ワシもそうなるかもしれんと考えていた。喰らってみせるは敵に限らず──愛する女の命まで」

 そこでようやく、周瑜もまた、深々と安堵の息を吐いた。

「今までで一番の大博打だったように思います」
「まさに。お前にとっても、ワシにとっても⋯⋯なにより、玉兎にとってはな」
「まあ⋯⋯あれは孫策様の手に掛かるなら本望でしょうから」
「戦だけでなく、女の心もそこまで読めるか。その慧眼が少しでも孫策にあればここまで拗れなんだものをなぁ⋯⋯」
「これほど拗れるまで何も出来なかった私などには勿体無いお言葉です」
「お前のせいではない。揃って頑固なあの二人が悪いのだ。周瑜よ──これからも我が息子を頼みたい」
「はい。この命ある限り⋯⋯孫策様の目となり刃となり、力を尽くす所存にございます」
「うむ⋯⋯お前のような友を持てるとは、これ以上ない僥倖よ。侠であればお前のような友に出会うことをいつも夢に見よう」

 孫堅は目を細めて、彼らが出会い、ぶつかり、金(はがね)をも断つ絆を結んだあの日々を思い出していた。
 それは空に浮かぶ残月が、ふたたび満ちゆくために身を細くする最後の頃だった。






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