一陣
それぞれの軍勢は、それぞれの領地へと。
事が終わって引き上げる間際、彼女の元には多くの者が訪れた。無論、公孫瓚もその一人だった。互いに労い合い、機会があれば遊びに来てくれと言葉をかけ、手を握った。公孫瓚は彼女の顔色が悪いことを案じたが、おそらく自分が口を出すべきことではないのだとぐっと堪らえた。彼女の肩を抱き寄せ、慰めるのは、自分ではないのだと。孫一族やその配下こそが、きっと相応しい。ほとんどまともに言葉を交わしたこともない侠よりも、よほど。
彼女の元にはあの曹操将軍さえ自ら足を運んだということも公孫瓚を怯ませた。劣等感があるわけではない、だがやはり彼ほどの侠が目にかけた女だ。しかも彼は求婚したそうで、さらには曹軍の武将のほとんどが彼女に求婚したと聞く。実質的な引き抜きである。彼女が自軍に居てくれたらそりゃあ士気は上がるだろう。今回のことでよく分かった。孫堅将軍が戦に最も向かない性格の彼女をなぜ連れて来たのかも。
けっきょく彼女は求婚の全てを丁寧に断り孫の一族とともに南へと帰っていき、公孫瓚も後ろ髪引かれる思いで北へ。
そうして玉兎と別れ、数ヶ月が経とうとしていた。
「今日は静かなものですねぇ」
呟いた部下に、銀槍の侠は曖昧に頷いた。なにやら憂慮に沈む横顔を見て、彼に従う者達は首を傾げる。
「どうかなさったのですか、趙雲様?」
「いや⋯⋯」
呼ばれた彼はやはり曖昧に言葉を濁して、愛馬の上で首を巡らせた。確かに今日は静かだった。
だが──風が吹いている。その風に、不穏な匂いがした。嗅ぎ慣れた、戦の匂いに近いものだ。火と煙の、鼻をつく異臭が、ほんの微かにだが風に乗って運ばれてくる。
趙雲は巡らせていた首を止め、風上を睨んだ。何か来る⋯⋯そんな確信めいた予感があった。
彼は長いこと動きを止めたまま、じっと地平線を睨んでいた。冀州との国境いは草木が少なく荒れている。隠れる場所もなく、ここならば奇襲を受けることはない。
そして暫く──遠く、土埃が上がったのを、趙雲は見て取った。
にわかに兵達がどよめく。手綱と槍を掴み直し、趙雲は前に出た。栗毛の馬が疾走してくる。その背には鎧を着込んだ武者が一人。
「止まれ!! 何者だ!!」
「趙雲さま──」
聞き知った声に、趙雲は突きつけた穂先を下げ、驚愕に目を見開いた。目の前に、いるはずのない人物がいる。
玉兎だった。
董卓討伐で共に戦った長沙の兎。それが何故たった一人でここにいるのか。それも、満身創痍といった体で馬を駆っている。その腕には子供が二人抱えられていた。一人はまだ乳飲み子だ。もう一人もやっと言葉を話しだそうかというくらいの齢だった。
彼女は二人の子を抱えたまま崩れるように馬から降りた──いや、落ちたと言ったほうが正しいような崩れ方だった。趙雲も馬から飛び降り、急いで駆け寄った。
抱き起こすと、鎧を着けているのにぞっとするほど軽い。
「どうした、何があった!」
「この子達をお願い、助けてください⋯⋯」
それだけ言って、彼女はぐったりと動かなくなった。
「公孫瓚様、趙雲様⋯⋯。お目覚めになられました。小さな傷はありますが、目立ったお怪我はありません」
部屋から出てきた侍女は言いながら頭を下げ、身体をずらして扉の向こうへ促した。寝台に横たわる者が他の目に触れないよう、二人は素早く中へ入るとすぐに戸を引いた。趙雲は──公孫瓚も、できれば自ら世話をしてやりたかったのだが、相手は嫁入り前の娘だ。鎧兜はともかく、服を脱がせて身体の具合を診るわけにはいかない。
「ご苦労だった。このことはくれぐれも他言無用だ、頼むぞ」
完全に戸を閉める前に、公孫瓚は細い隙間から囁いた。女が深々とお辞儀し「御意」と簡潔に応えたのを認め、一つ頷く。彼女は口が堅く、公孫瓚も信用を置いている。その口から話が漏れることはないだろう。
「⋯⋯玉兎⋯⋯?」
戸を閉めて寝台に近寄った公孫瓚は、目を閉じたままの彼女をそっと呼んだ。すでに顔を覗きこんでいた趙雲は一歩下がって、隣に立った公孫瓚に場所を譲る。
名の持ち主は、ゆっくりと、目を開けることも苦労するようにして彼を見た。
「こうそ、ん さん、さま⋯⋯」
起き上がろうとするのを、肩を押し留めて落ち着けながら、公孫瓚は優しく訊ねた。
「一体何があった? 長沙の兎であるお前が、どうしてここに?」
「わたしは⋯⋯」
苦しげに息をついた彼女に、喋らせるのも可哀想になる。
「あの戦いのあと⋯⋯わたしは自分の未熟さを痛感し、武者修行の旅に出たのです。いまもその途中です。
曹操さまの許昌を通り、わたしは袁紹の──袁紹さまの治める冀州を抜けてここへ参りました。あなたなら、きっと助けてくださると思って⋯⋯」
「旅の途中で何かあったんだな? それに、連れていた子供はお前の子なのか?」
「いいえ⋯⋯。ここへ来る前に助けたのです」
彼女は虚空を眺めたままぼんやりと言った。まるで生気がない虚ろな目をしている。
「ひどい有様でした。最後に見た村は、賊の襲撃で村ごと全滅し、あの子達はかまどに匿われていました。まだ生きている村人もいました⋯⋯でも傷が深くて⋯⋯。放たれた火が回る前に助け出せたのはあの子達だけでした」
彼女は辛そうに眉根を寄せ、目を閉じた。その眦がわずかに濡れているのを見て取り、胸が痛くなる。
「この世にありながらまさに地獄のような光景でした」
「そうか⋯⋯。辛かったな。お前の心中を察するに有り余る。いまはゆっくりと休み、英気を養うといい」
公孫瓚は優しく言い、慰めるように彼女の目尻を指で拭った。
「──あの子達は⋯⋯?」
不安げに見上げてくる瞳に、穏やかに頷いてやる。
「心配いらない。腹は減っていたようだが、怪我はなかった。乳をたらふく飲んで、いまは眠っているよ」
「⋯⋯いまのわたしは流浪の身です。あの子達を連れて行くことはできません。公孫瓚さま⋯⋯どうか、あの子達を引き取ってくれる方を探してはいだたけませんか?」
「ああ、分かった。安心しろ。必ず良い所を見つけてやるから」
「ありがとうございます⋯⋯」
彼女はふたたび目を閉じて深く息を吐き、それきり静かになった。
「玉兎⋯⋯?」
「⋯⋯眠ったようですね⋯⋯」
侠二人は彼女の顔を見つめ、しばし沈黙した。
「少し⋯⋯やつれたか」
「そうですね⋯⋯可哀想に⋯⋯」
最後に顔を合わせたときも、決して顔色が良いとは言い難かった。しかしいま、疲労と苦悩が色濃く残る肌はあの時よりもさらに痛々しい。
「趙雲、すまないが⋯⋯彼女についていてやってもらえるか?」
「はい、もちろんです」
「俺は引き取ってくれそうな者を探してみる。彼女がまた目を覚ましたら教えてくれ」
「はっ」
頭を下げた趙雲に玉兎を任せ、公孫瓚は足早に去っていった。