朔
「──え?」
頬っぺたに米粒をつけた劉備の顔に手をやって、玉兎はもう一度、気まずげに繰り返した。
「だから⋯⋯その⋯⋯ここに、しばらく居ようと思うの」
「⋯⋯ホントに?」
頷くと、劉備は急に席を立った。目が潤んでいる。
「じゃあ、急いで部屋用意しねえと! 俺ちょっと行って来るから、お前、飯食べとけよ!」
彼はとめる間もなくダッシュで食堂を出ていってしまった。取り残された玉兎は、ぼんやりとそれを見送る。
「朝っぱらから元気だねェ⋯⋯」
ぐったりした顔で、劉備の隣に突っ伏していた張飛が呟いた。少し青褪めている。完全に二日酔いだ。
「水持ってくるね」
「ワリィ⋯⋯」
さすがに羽目を外しすぎた。お祭り男なので毎回こうなのだが、張飛はまったく反省しない。調理場の者ももはや心得たもので、胃に優しい粥をすでに用意してある。玉兎は水のついでにそれも持ってきてやり、張飛の前に置いた。
「さんきゅ⋯⋯」
もそもそ口に運んでいるのを眺めながら、玉兎は先行きに漠然とした不安だけを抱えていた。
ショクに腰を落ち着けた玉兎は、日中は黄忠の助手をしたり、畑仕事に手を貸したり、調理場を手伝ったり、諸葛亮のもとへ訪れたりと相変わらずふらふらしていたが、その姿が見えるだけで安心した。たまに昼食をバスケットに入れて、警戒にあたる劉備たちの元を訪れることもある。旅をしていたときの癖なのか、雨の日は一日こもって出て来ないので、そういう日は劉備のほうから玉兎の家を訪ねた。
彼女の家へ訪れるたび、物が少ないなと劉備は感じる。いつでもカバン一つに必要なものを詰め込んで居なくなってしまいそうな危うさがあって、だから劉備はいつも手土産を持参した。本でも花でも食べ物でもなんでもいい。此処こそが彼女の帰る“家”なのだと、そう思って欲しくて。
そういう風に、雨でなくても彼女のもとを訪れることが増えていた。
「お夕飯、なにか食べたいものある?」
「あー⋯⋯えっと、」
聞かれて、劉備は頬を掻いた。
今日は雨が酷く、まだ夕方だというのに外はすでに真っ暗だった。なんとなく、さすがに帰らないとまずいような気がしているのだが、玉兎は夕飯まで一緒に取るつもりらしい。
「悪い、そろそろ帰らないと」
べつに帰ったところで用事なんて何もない。あるとすれば得物の手入れぐらいだが、劉備は気まずげにそう言った。
彼女は未婚で、自分より若い、いわゆる年頃の娘だ。夜の気配が色濃い中で二人きり、一緒にいるのはやはりまずいだろう。なにがまずいって、自分の理性がなによりまずい。
自分の気持ちにまったく気付かないほど、劉備とて鈍くはなかった。しかし、告げられるはずがない。彼は若いが、子を喪った母の横顔に想いをぶつけてしまえるほど幼くもない。だからこうして傍にいるのが精一杯で、あと少しの距離を縮められないでいる。
「⋯⋯そう」
献立を考えるためか食料品を確認していた玉兎が、動きを止めて、ただ静かに頷いた。
稲光に一瞬青白く染まった横顔は、やはり母のそれに似ている。劉備は思わず拳を固く握っていた。抱き締めて、俺が傍にいると言えたら、彼女の悲しみは少しでも癒されるのだろうか。
誰にも誰かの代わりは出来ないと分かっている。悟空というカタチの穴を、自分が埋めてやることは出来ない。だって、何をどう頑張ったところで、自分は劉備というカタチをしているのだ。他の誰かに、何かにはなれない。痛いほどに分かっていることをこうして何度もその横顔に突き付けられるのは、覚悟はしていてもやはり苦しいし辛かった。たぶん彼女もそれを分かっているのだろう。応えられなくて辛いと言った、それはきっと今も同じだ。
心配で、怖くて、自分の我が儘で引き止めたのに、はたしてそれが互いにとって正しかったのか、最良の選択だったのか分からなくなってきていた。
傍にいればいるだけ互いに辛くなるだけなら、自分が飲み込めばそれで済むじゃないかと、そうして手放してやるべきだとも分かっていた。
分かっていて、だが──劉備は、そこまで大人にはなれなかった。
「⋯⋯じゃ⋯⋯帰るわ。⋯⋯お前、ちゃんと飯食えよ?」
「劉備こそ、ちゃんと休んでね? お願いだから⋯⋯あんまり無茶しないで」
玄関の戸を潜りながら言えば返ってきた伏し目がちの“お願い”に、一瞬言葉に詰まった。自分も、彼女も、これ以上失うことを恐れている。だから近付けない。触れられない。抱き締められない。
だって、もしも。
「⋯⋯分かってるよ。⋯⋯分かってる」
もし、また、一等大事なものがこの腕からこぼれ落ちたら。