始まりは闇の中だった。
 そこに音だけがある。

 遠く、近く。

 たくさんの人々の声が雑音となって空間を満たしていた。温い闇から引き上げられるような無理やりの覚醒。促され、彼女は仕方なくそれに従う。
 目覚めた途端、焼かれるようなひどい痛みが胸にあった。呻く間もなく再び意識が遠退きかけるも、渦巻く音の中で唯一、言葉として意味をなす声を拾って持ち直す。
 温かい。けれど同時に身を切り裂くように鋭い声。
 彼女はそれに比喩でなく全身が冷えた。ずっと聞いていたいと思うのに、今すぐ耳を潰してしまいたくもあった。
(──なんで、)
 何も見えないまま、曖昧な感覚だけでのろのろと体を動かす。外界のすべてから身を守るように体を丸めて耳を塞ぐ。無意味な抵抗だろうということは分かっていた。
 その声は頭の中に直接流れ込んできて、ただひたすらに繰り返すばかりだったから。



 ──生きてくれ、実写。














 意識を失った実写が目を覚ましたのは鬱々と陽が沈む時間帯だった。
 厳しい西日が当たらないようにか、ガラスが全面、スモークに変わっている。驚くのと同時、本当に優しいひとだと実写は泣き出しそうになる。人の善意に触れたことがないわけではないが、こうまで気遣われたことはない。
「起きたか」
 たぶん早々に気付いていたのだろうオプティマスの冷静な声を聞いて、夢の名残にざわつく胸が落ち着いていく。実写は長く息を吐いて、無意識に強張っていたらしい体から力を抜いた。
「バイタルは安定している。体に異常はあるか?」
「へ、き⋯⋯ない⋯⋯」
 舌が喉に張り付くような渇きはあるが、それ以外でとくに不調は感じない。
 訊きはしたが、実写の体をスキャンしたオプティマスもそれに気付いた。ケーブルを伸ばして彼女のショルダーバッグを漁る。ミネラルウォーターのボトルを取り出し、蓋を開けようとして──
「あ、」
「⋯⋯すまない」
 盛大にボトルを潰してしまったオプティマスのケーブルが、彼の心情そのままに項垂れる。彼らにとっては人間も、人間の作り出すあらゆるものも、あまりに脆弱だ。繊細すぎて加減が難しい。
「ちょうだい」
 水浸しになった服はとりあえず無視して、実写は手を伸ばした。服より何より、まず水分補給がしたい。干乾びそうだ。
 伸ばした手は制された。慎重に、いっそ怯えているように、ボトルを抱えたケーブルがおずおずと近づいてくる。申し訳ないとか何だか恥ずかしいとか色々思いもしたが、正直動きたくなかったので実写は素直に甘えることにした。
 残ったミネラルウォーターで喉を潤すと、気だるい体を投げ出し、ふたたびシートで丸くなる。
 ⋯⋯生きてくれ、と。
 あれは夢だ。けれど、本当に夢なのだろうか。生々しく残る声は、失った記憶が見せた過去のようにも思える。その端を掴もうと夢を辿るが、ひどい頭痛に邪魔されて集中できなかった。
「⋯⋯実写、体温が下がっている。服を脱いだほうがいい」
「っひ、ゃああ!?」
 散漫になっていた意識が、いきなり服の中に入ってきたケーブルに引き戻された。ついでに頭痛とか諸々のものが吹っ飛んだ気がする。というか、驚きすぎて本当にきれいさっぱり吹っ飛んだ。
「ちょ⋯⋯まっ、まってぁあああ着替える! 着替えるから!!」



 気遣ってくれたのだろうが、ありがた迷惑とはこのことだ⋯⋯。
 一悶着あったあと、肌が見えないよう器用に服を着替えながら、実写は溜め息を吐いた。記憶の手掛かりだったであろう夢の名残もいまはもう遠い。オプティマスに邪魔されなくても手が届いたようには思えないけれど⋯⋯まあどうしようもない。今回は諦めることにする。⋯⋯次の機会はいったいいつになるやら。
 悩んでも仕方ないことなので、実写はサッサと気持ちを切り替える。直に嫌でも思い出すことになるのだろうし、と考えれば、着替え終える頃には溜め息も引っ込んだ。
「⋯⋯本当に、すまなかった」
 髪を手櫛で整えていた実写は、こちらの機嫌を窺うようなオプティマスの謝罪に苦笑する。タイミングを見計らっていたらしいことはなんとなく気付いていた。どこか縮こまったような気配に、軽くシートを撫でてみる。悪気がなかったことは分かっているのだ、あまり気にされると逆に居心地が悪い。
「へーき。ちょっとビックリしただけ」
 実写の穏やかな口調に、オプティマスは緩く排気した。
 もう少し慎重に行動すべきだったと反省する。とくに怒りもせず許してくれた彼女に感謝するしかない。これ以上引きずると実写を困らせることも察し、オプティマスはこの件についての謝罪はひとまず置いておくことにした。
 改めて彼女を観察し、スキャンを重ねる。キューブの映像が彼女に何かしらの悪影響を及ぼすかとも思われたが、幸いにも杞憂に終わった。外を眺める横顔に、多少、疲労の色が見られるだけだ。
 その横顔を見てオプティマスはしばし逡巡し、取っていた進路をわずかに変えた。



「あ、れ? オプティマス⋯⋯」
「今日は此処で休むといい」
 モーテルの車寄せで停車したオプティマスに、実写は首を傾げた。
 頑固に先を急ぐ彼が、わざわざこんなところに立ち寄るなんて。思い当たる理由など一つしかない。
「⋯⋯⋯⋯さっきの、本当に気にしなくていいんだよ?」
「君がそう言ってくれるなら⋯⋯。⋯⋯ただ、此処に来たのは、君の体に疲労が見られるからだ」
 なんというか、嘘が下手なひとだなぁと思った。罪悪感丸出しな声色に、実写は胸がムズムズしてしまう。
 しかしまあ、それで彼の気が済むなら、と甘えることにした。ものすごく真っ直ぐな人のようだから、素直に甘えておかないといつまでも引きずりそうな気もする。
 フロントで受け付けを済ませて部屋のキーをもらうと、実写は隣接している売店で適当に食べる物を見繕い、そそくさとオプティマスのもとへ戻った。わざと運転席のホログラムと会話してみたりしながら、部屋へ向かう。ゆっくりと後ろをついて来るオプティマスに、なんだか笑いが込み上げた。大きな大きな犬を散歩させているみたいで、とにかくおかしくて。
「えっと、じゃあ⋯⋯」
「此処にいる。何かあれば、連絡してくれ」
「⋯⋯うん」
 部屋の前まで来ると静かにエンジンを止めたオプティマスに、実写は何か名残惜しくなる。たった少しの距離なのに、離れるのが不安なのかもしれない。
 部屋の鍵を開けて荷物を中へ放り込むと、実写は一旦、オプティマスのもとへ戻った。こちらに向けられた鼻先をそろりと撫でる。
「⋯⋯どうした?」
「⋯⋯ううん⋯⋯。あの⋯⋯ゆっくり休んでね」
「了解した。君もゆっくり休んでくれ」
「うん」
 じゃあ、と手を振って実写は今度こそ部屋へ引っ込む。何はともあれ、とりあえずお風呂に入りたかった。お風呂に入るついでに濡れた服も洗って干すと、実写は早々に食事を済ませてベッドに横になった。
 なんだか体がダルいのは夢のせいだろうか。疲労が見られる、と言った彼の言葉に嘘はなかったらしい。いや、そもそも疑ってもいないのだけど。
 なんにせよ、素直に甘えておいて正解だった。ベッドに沈み込む体が感覚をなくしてゆく。内装をぼうっと眺めているうちに、眠りに落ちていた。




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