鉛を詰められたように重かった足が力を取り戻していた。身体は羽根のように軽い。悲鳴と破壊の音に満ちた戦場の只中で、心は歓喜に躍っている。
 実写は走りながら笑い出してしまいそうだった。痛んでいた胸はすっかり落ち着いている。全力で走っているのに息は少しも乱れない。
 オールスパークの力を感じる。かの声が呼んでいる。零れ落ちたカケラに、回帰を促す呼び声だった。
 だからこそ、混乱を極める戦場にあっても、実写は向かう先を間違えはしなかった。
 轟音と共に、数ブロック先のビルからオプティマスとメガトロンが地面に落下したのが見えた。地響きに足元が揺れる。
 頭上を飛び交う戦闘機から発射されたミサイルが、空気を鋭く切り裂いていく。実写は何発ものミサイルがターゲットに命中したのを見て、それから、その足元で半分つまずくようにしてメガトロンから逃げるサムを見つけた。
 すぐ傍に、防戦を強いられたオプティマスが仰向けに倒れている。彼はそれでもメガトロンの突進を阻んだ。
 地面と平行に振り抜かれたオプティマスの足にメガトロンは強烈に蹴り飛ばされ、たたらを踏んで前方に倒れこんだが、恐ろしいほどの執念深さでサムに向かって這いずっていく。
「サム! 私の胸にキューブを押し当てろ! 早く!!」
 何とかうつ伏せに姿勢を変えたオプティマスが叫んだ。
 サムは強い意志の宿る青いレンズの双眸を見て、一瞬だけ躊躇った。
 それをしたら彼は──浮かんだ思いは背後に迫った声に掻き消された。
「寄越せ!! 俺のキューブを!!」
 駄目だ、考えている暇はない。迷っている場合でも。
「やめろ!!」
「サム、だめ!!」
 彼の意図を見抜いたのはメガトロンだけではなかった。太い唸りにかき消され、悲鳴めいた華奢な叫びは誰の耳にも届かず、気付かれなかった。その声の持ち主が、決意を持って近付いてきていたのも。



 オプティマスのほうへ走り出したサムは、メガトロンの巨大な手に遮られて方向を変えた。彼は突き出された腕をスロープ代わりに三歩で駆け上がり、その勢いのままメガトロンの胸の中心にオールスパークを叩きつけた。
 まばゆい光芒が迸り、サムは後ろへ弾き飛ばされた。わけも分からぬまま、それでも確かな手ごたえを感じて、眼前の鋼の巨人への恐怖を一瞬忘れる。
 メガトロンはあまりに予想外の反撃に驚愕し、苦痛から腕を振り回した。
 横からぶち当たってきた鋼鉄の腕にサムは吹き飛ばされ、全身が軋んだ。激痛にあえぎながら、本能的に巨大な敵意から離れようと這うように後退る。恐ろしいことに、オールスパークは少し欠けただけでまだほとんど形を留めて地面に落ちていた。
 メガトロンが胸を掻き毟りながら、オールスパークへ手を伸ばした。その光景に、やめろ、という思考だけがサムの頭に渦巻く。声も出せず、チカチカと瞬く視界の中、絶望感だけが鮮明だった。
「俺のものだ!!」
 メガトロンが叫び、キューブを掴み上げるその瞬間、横から矢のように飛んできたものに全員が目を見開いた。
「実写!!」
 オプティマスはキューブよりも先に彼女の身を案じた。メガトロンは繊細な人間のために力を加減するようなことはない。実写の腕から響いた嫌な音が、はっきりと聞こえた。
 手中へ入り込んだ邪魔な有機生命体も一緒ではあるが、キューブを手に入れたメガトロンは歪に口角を持ち上げ、高く吼えた。ゆらりと立ち上がり、オプティマスを見下ろす。
「俺の勝ちだ、オプティマス!!」
 凶悪に笑い、キューブを見せ付けるように腕を掲げたメガトロンの表情が不意に凍った。
 おかしな方向へ曲がった腕が、乞うように伸ばされている。オプティマスではなく、メガトロンへと。助けを求めるそれとは違う。
 その小さな手はメガトロンの指を捉えた。爪が割れるほどの力が込められ──導火線に点けられた火のように、電気が水を伝うように。キューブの力が、メガトロンのスパークへと正確に走った。
 メガトロンは咄嗟にその膨大なエネルギーを全身へ逃がしたが、ほとんど無駄な抵抗だった。たちまち、銀色の巨躯のあちこちからアーク放電のような青白い閃光が迸り、激しい火花が散る。
 視覚受容器にはっきりと捉えられるほどの強烈なエネルギーの奔流は、メガトロンのスパークが致命的なダメージを負うまで止まらなかった。
 苦痛に仰け反り、ついにメガトロンが倒れた。太い地響きが辺りを揺らす。
 舞い上がった粉塵とともに⋯⋯静寂が、落ちた。
 実写は巨大な手から投げ出されたまま、ぴくりとも動かない。
 オプティマスは全身のダメージをなんとか誤魔化しながら、彼女の傍まで這い進んだ。スキャンをかけ、絶句する。
 メガトロンの手に潰されたのだろう。全身の骨が折れ、内臓はめちゃくちゃだ。息もすでに絶えていた。
 オプティマスは首を横に振った。出来得る限りの蘇生措置を施そうと伸ばしたケーブルを、彼女の瞼を下ろすだけにとどめて収める。
 蘇生に成功したとしても、これでは彼女を苦しめるだけの結果に終わる。損傷は大きく、深すぎた。修復は不可能だった。おそらく、この場にいたのが自分ではなく、ラチェットであったとしても。
 オプティマスは小さな小さな身体を優しく抱き上げると、よろけながらも立ち上がり、意味を成さないノイズを発している“兄弟”を見下ろした。
「⋯⋯こうするしかなかったのだ、友よ」
 返答はない。真っ赤なアイセンサーは強風に煽られる頼りない灯火のように明滅し、そして⋯⋯消えた。
「オールスパークを求めて争う以上、どちらか一方は死なねばならない。私は自分が死んでもいいつもりだった。⋯⋯しかし、結局お前でよかった」
 オプティマスは項垂れるように排気し、己の手に視線を落とす。小さく脆弱な、しかし偉大な戦死者へ。
「⋯⋯君に背負わせてしまった。本当にすまなかった。許してくれなどと言うつもりも、その権利もない。だが、」
 ──どうか、祈ることだけはさせてほしい。心安らかに眠ってくれ、と。あまりに傲慢な願いだと、分かってはいるけれど。
 泣いているようなその声に、地面にひっくり返っていたサムもよたよたと立ち上がり、オプティマスを見上げた。青い眼の奥で、白い光が弱々しく爆ぜている。もしかしたら本当に泣いているのかもしれない。彼らに涙を流す機能が備わっているかは知らないが、少なくともサムにはその光が涙のように見えた。
 オプティマスの悲痛な表情に居た堪れず、サムはあたりを見回した。銃を抱えた軍人たちが警戒しつつも近付いてきている。彼らがメガトロンに銃を向けながら動かないことを確認していたので、サムもおそるおそるメガトロンの顔を覗き込んでみた。⋯⋯すごい形相だ。
 怖くなってふたたびオプティマスを見上げたサムは、ためらいがちに訊いた。
「あのう⋯⋯けっきょく、なにが起こったの? キューブはどうなったの?」
「壊れた」
 その場にいる全ての人間の疑問を代弁したサムの質問に、オプティマスは簡潔に答えた。
「でも、どうして?」
「実写が、キューブ本体と融合した。そうすることで、彼女はキューブの力を操ったのだ。実写はメガトロンのスパークに力を向け、彼のスパークも壊した。
 キューブの力全てを受け入れるなど、我々の身体ですら耐えられぬ。⋯⋯人間の身体など、ひとたまりもない」
「じゃあ⋯⋯じゃあ、やっぱり、君は死ぬつもりだったの?」
「そうなるはずだった」
 今朝、森の中で、自分がキューブと融合する覚悟を話さなければ、彼女はこんな決断を下さなかっただろう。死ぬのは自分か、メガトロンだったはずだ。
 彼女にも分かる言葉で話したのは、彼女に、自分は死ぬ可能性があると知っておいてほしかっただけだった。それなのに。
「⋯⋯彼女を護らなければならなかった。その責任が私にはあったのだ。だというのに──我々の過ちを与えてしまったばかりか⋯⋯護られてしまった」
 オプティマスが痛ましく顔を伏せたとき、離れ離れになっていたオートボットたちが姿を現した。ミカエラの運転するレッカー車に乗せられたバンブルビーも一緒だ。
 運転席から降りてきたミカエラは誇らしげな勝利の笑みを湛えていたが、アイアンハイドの腕には、動かなくなったジャズの身体があった。その勇敢な仲間を、アイアンハイドは割れた舗装の上にそっと横たえた。
 オプティマスは身を屈め、じっと彼を見つめた。
「ああ⋯⋯ジャズ⋯⋯」
「大丈夫、ステイシス・ロックに陥っているだけです。実写が居なければ危うかったですがね」
 ラチェットが言いながら彼女の姿を探し、姿勢を真っ直ぐに戻したオプティマスの手の中を認めて息を呑んだ。オプティマスは首を横に振った。それだけだった。
 それから、オプティマスはサムに視線を向けた。
「君も、命の恩人だ。人間の思考はとても論理的とはいえないが、君の判断は素早かった。君にあれが出来るとは予想していなかった。我々全員が君に感謝している」
 サムに向かって巨大な上体が倒れこむ。深々としたお辞儀の数は、すぐに増えた。
 印象的で、かっこよくて、圧倒的な眺めだ。
「ええと、その⋯⋯君たち⋯⋯」
 サムは照れくさくなって口ごもった。




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