シルバーキャッスルのメカニックは多忙である。

 ワールドツアーを終えた頃にはシルバーキャッスルの人気は絶頂となっていたが、それでも経営面での苦労が絶えなかった。本部内にはいくつも修繕すべき箇所を抱えているし、買い換えなければならない用具類もいまだ多い状態である。
 有志によるファンクラブからの用具の寄付や人気が出たことによる収益のアップもあって多少余裕はできたものの、ルリーがCMの依頼を片っ端から受ける程度には火の車だ。
 もちろんメカニックの増員など出来るわけがない。チームのメンバーが随分と増えた今も、以前と同じく四人のみでメンテナンスを請け負っている。

 スポーツは真剣になればなるほど怪我も増える。それは練習でも例外ではなく、ほとんど毎日のようにメンテナンス・ルームに誰かしらが訪れる。その合間に、荷物や部品の搬入、倉庫への運搬、管理、各リーガーのデータ入力とその整理、用具の調整、オイルの調合等々⋯⋯やるべきことを挙げれば枚挙に暇がない。
 チーム一丸となってそれらをこなしているが、やはり中心で動いているメカニックの忙しさはリーガーたちの比ではなかった。
 夕方のメンテナンスまでに終わらせておかなければならないことは多くあり、ゆえにアポもなく遊びに来た者は基本的に放置である。その相手があのファイタースピリッツであろうとも、リーガー皆平等をモットーとするシルバーキャッスルメカニックチームは揺らがない。それだけ余裕がないとも言える。

 顔を出しに来たリーガーたちは、大概はグラウンドで一暴れしたあと、シルバーメンバーと一緒にメンテナンスを受けて、振舞われたオイルを飲んで帰っていく。
 しかしファイタースピリッツは違った。グラウンドではなくメンテナンス・ルームに直行してきた彼は、振舞ったオイルをじっくりと味わったあと、やわらか人間の横顔へ視線を定めた。

 普段からどこか超然としているスピリッツなので、やわらか人間には彼が何を思ってシルバーキャッスルへ来たのか、何を考えてメンテナンス・ルームに留まっているのか、皆目見当もつかない。
 注がれる視線に、相手を出来ず申し訳ないと思いつつも、やわらか人間はキーボードを叩く手は止めなかった。仕上げておかないと後々睡眠時間を削る羽目になる。スピリッツの視線が多少煩わしいが、口頭で拒絶を示すほどでもない。黙々と作業を進めていると、不意にスピリッツが立ち上がった。

 ようやく沈黙に飽きたのか。
 きっとグラウンドへ行くのだろうと、やわらか人間は視線から解放されることに小さく安堵の息を吐いた。

「やわらか人間」

 呼ばれると同時、ガシャンと重い足音が近付く。

「なんですか?」

 視線は向けないまま、やわらか人間は答えた。

「お前が欲しい」

 はい? と、やわらか人間は愛想笑いを浮かべて顔を上げた。何かの聞き間違いだろうと思ったのだ。

「お前が俺の名を呼んだ、あの時だ」
「えっ? あの⋯⋯スピリッツ?」

 どこか遠くを見るファイタースピリッツは、困惑する彼女を置いて朗々と語りだした。

「ワールドツアーの最終戦、同点ゴールを決める直前に。きっと、あの時からだ。お前に呼ばれたあの瞬間、身体の芯を雷に貫かれたような衝撃を覚えたのだ。あの時から、何かが引っかかっていた。
 だが、いま、お前を見ていて分かった──俺は、お前が欲しいのだ」

 混乱するやわらか人間もお構いなしで、スピリッツは微笑する。

「あ、あああのっ?」
「少し落ち着け」

 まさか、落ち着いてなどいられない。欲しいって、なに。いきなりすぎて、いや、いきなりでなくとも意味が分からない。
 やわらか人間は反射的に立ち上がり、後ずさっていた。
 スピリッツが追い掛ける。巧みに彼女を壁際に追い込むと、腕の囲いで退路を断った。

「俺のことを何も知らないというわけでもあるまい。好きか、嫌いか、それを判断できる程度には、お前は俺を知っているはずだ。
 お前が欲しいと言えるくらいには、俺もお前を知っている。お前がリーガーを愛していること、リーガーのためなら自身の身も顧みないこと、俺たちのために泣いてくれる優しさを持っていること──」

 かつて流した涙の跡を辿るように、スピリッツは彼女のやわらかな頬に指先で触れた。
 ゴールド三兄弟だけでなく、ダークスワン、そして自分たち兄弟のためにも彼女は泣いてくれたのだ。

 同点ゴールを決める直前。ゴールド三兄弟の叱咤に紛れ、膝を着いた自分を呼ぶ声があった。
 叫びに近い、嗚咽混じりの悲鳴のような呼び声。
 己の中に眠る何かを確かに揺さぶった声。
 その何かの正体を、スピリッツは見極めた。
 友愛でも親愛でもない。それは、たった一人だけに向ける、エゴを孕んだ愛情だった。

「──やわらか人間」

 とんでもなく甘やかに呼ばれ、やわらか人間は腰が抜けそうになる。
 俯く顎をスピリッツの指先が阻み、顔が近付いた。震える膝は、恐怖にか期待にか。自分でも分からない。それが答えなのかもしれないとも思う。

「言葉は要らん。嫌なら逃げろ」
「ス、スピリ、ツ──」

 ただ、漠然と。しかし確かな実感を持って。
 二人は互いに、捕まったのだと知った。




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