「ここにやわらか人間というメカニックがいるはずだ。彼女に会わせてほしい」


 それは、突然の来訪者だった。
 アクアブルーを基調とした機体、特徴的なヘッドパーツ、涼やかなカメラアイ。麗しい見た目に反してドスの利いた野太い声を持つ彼の名は、そう、フラッシュキッドである。
 若い女性ファンの数はあのゴールドマスクに負けず劣らず。アイアンリーガーの中でも一、二位を争うイケメンなんて評される彼の来訪はシルバーキャッスルを大いに混乱させた。
 だって彼はアポイントメントなんて取りもせず、本当になんの前触れもなくやって来た。しかも表舞台には出ないメカニックに会いに来たというのだから驚くなというほうが無理だ。

 知り合いなのか?

 だがしかし、やわらか人間の口からフラッシュキッドの名前が出たのは、ダークスワンへの対策を練る作戦会議中くらいのものだ。プライベートでその名前を口にしたことは一度もないらしいことが、午後の練習もほっぽりだして円陣を組む面々の証言で判明した。

「だいたい、なんで名前を知ってやがるんだ?」

 マッハウインディが応接室のある辺りを見上げながら言った一言は、その場にいる全員の疑問を代弁している。
 やわらか人間が表舞台に出たことはもちろんない。
 女性ながらメカニックを勤める“ギャップ萌え”なるものを狙ったルリーにドキュメンタリー系番組の出演を持ち掛けられていたこともあるが、ムテンソードもかくやという切れ味でバッサリ一刀両断していた。目立つのはあんまり⋯⋯とは本人の談である。
 工場長のメッケルならまだしも、一介のメカニックがメディアに露出する機会というのはそういう特殊な事情がない限り、まずないと言っていいことだ。そんな裏方を知っているとなると、よほどのファンか個人的な知り合いということになる。

「それにしても、アポも取らずに来るなんて」

 腕を組んで言うマグナムエースは、個人の繋がりよりもそっちの方が気になったらしい。
 彼に言わせれば、親しき仲にも礼儀あり、である。
 ゴールド三兄弟ならまだしも、ほとんど喋ったこともないフラッシュキッドへの対応でルリーが可哀想なことになっていたのは見ていられなかった。
 だが無理もない、ルリーも年頃なのだ。リーガーといえどイケメン。それも世間が持て囃すようなイケメン。リーガー同士の間でも「あれで気性が荒くなければなあ」と言われるイケメン。それが紳士的に話し掛けてくるのだから、心中は推して知るべし。

「オーナー、大丈夫かな⋯⋯」

 頬を赤くしながら応接室へ案内していった彼女を思い、リュウケンのヘッドパーツがヘニャヘニャと項垂れた。こうなるとルリーの安否(?)を確かめるまで立ち直ることはないだろう。

「名前知ってるくらいなんだからやっぱ知り合いだよなぁ?」
「そうだとしても、出会いが謎だな」
「考えられるのはワールドツアーのときか」
「敵チームのメンバーと知り合ったのが気まずくて言わなかったのかもネィ」

 赤、水色、紺、ピンク⋯⋯と発言が重ねられる中、ウインディがハハッと軽く笑った。

「でもワールドツアーのときってファイター兄弟の登場でぶっちゃけフラッシュキッドどころじゃなかったよな」

 焦りのあまり盲目になっていたあの時のことが思い返される言葉に、マグナムエースは苦く笑った。
 ウインディ、お前、自覚はないだろうけどな。俺の心にクリティカルだぞ。
 そんな笑みである。

「まあ、どうしても気になるのなら後で聞けばよい。練習を再開しよう」

 マグナムエースの心中を察したのかどうか、十郎太が言う。「ええ〜。もう?」と言いたげなトップジョイだったが、真面目なメンバーがバラバラとポジションに散っていってしまったので会議はそこでお開きとなった。



 グラウンドがそんな状況になっているとは露知らず、当のフラッシュキッドは落ち着きなく応接室を見回していた。
 勧められたソファーも無視して、ホームランボールやワールドツアーの優勝トロフィーが飾られた棚とか、そのときの記念写真、シルバーキャッスルTシャツ、キャップ、ペナント、団扇、法被、なんでこんなもんが? というような関連グッズエトセトラエトセトラ⋯⋯を眺めながら、シルバーキャッスルのオーナーが戻るのを待っていた。

 此処へ来た理由は、最初の宣言通り、メカニックのやわらか人間という女だ。
 フラッシュキッドは彼女と一度だけ飲んだことがあった。そのときのことは誰にも話していないし、そもそもフラッシュキッドは忘れるつもりだった。やわらか人間もそう言った。この夜のことはなかったことにしよう、と。



 ワールドツアーの初戦がファイター兄弟のフェアプレイ精神への喝采で幕を閉じた夜、フラッシュキッドは一人で街をうろついていた。

 ファイター兄弟の貫いた信念はラフプレイで鳴らすダークスワンに困惑と怒りを巻き起こした。それは試合中は場の空気に呑まれて二人に従ったフラッシュキッドも同じで、控え室に戻ったあと、チーム筆頭の彼はファイター兄弟と全面対決となった。しかし二人はチームメイトの暴言を歯牙にもかけず、澄まし顔でサッサと姿を消してしまった。相手にすらされなかった憤怒をぶつける場所を探して、フラッシュキッドは結局、酒で憂さ晴らしすることにしたのだ。

 露店のオイルも悪くはなさそうではあったが、落ち着いて飲みたかった。人の層は入れ替わっているものの昼間の熱気がまだ尾を引いているかのごとく騒がしい表通りでは目立ちすぎるし、並ぶのも嫌いだ。いまはファンや野次馬の相手もしたくない。
 できればバーがいいな。どっかないのか。マップデータ落としてくればよかった。

 そんなことを思いながら足早に喧騒から離れていると、タチの悪い酔っ払い共に絡まれている女を見付けた。

 それこそが、やわらか人間だった。

 放っておくという選択肢もあるにはあったが、苛立ちが面倒臭いという気持ちを瞬間的に上回った。若い女一人に三人で絡み、下卑た言葉を口にしてヘラヘラ笑っている男たちへの苛立ちは瞬く間に怒りと嫌悪に変わっていた。

「おい、てめぇら」

 ホテルにでも連れ込むつもりなのか肩に腕を回して引き摺ろうとしている男たちを、声をかけるだけで彼は止めてみせた。それほどにドスの利いた、地獄から這い出るような低い声だった。
 男たちは一瞬怯えたが、相手が誰か分かると「おお、フラッシュキッドだ」と喜色ばんだ。有名リーガーであるし、今日の白星チームの筆頭選手だ。サインの一つでもせがもうとして、ホッケーリーガーの強靭な足で踏み抜かれた地面に唖然とした。

「そいつを離せ。俺の連れだ」

 そう言って、フラッシュキッドは彼女の腕を掴むと強引に歩き出した。これでは酔っ払いと同じである。しかし、当然ながら彼女は抵抗しなかった。酔っ払いと、気性が荒いとはいえ素面のリーガー。どちらが安全かなど火を見るより明らかだ。
 フラッシュキッドはそうしてやわらか人間を酔っ払いの魔手から救出したのだった。

 彼女は場を離れたことで落ち着きを取り戻すと、「何かお礼を」と言った。気紛れで「なら一杯付き合え」と彼は答えた。幸い、彼女は持っていた端末にマップデータを落としていたので、フラッシュキッドが店を選んで二人でカウンターへ向かうこととなった。

 そのときに交わした会話を、フラッシュキッドは一部を除いて朧げにしか思い出せない。というより、その一部が強烈過ぎてほかを思い出せない。やわらか人間は終始聞き役に回っていたし、自分もインタビューに答えるときのように当たり障りのないことをポツポツ話していたように思う。
 覚えているのは、どうせファイター兄弟がどうこう言うんだろう、と思っていたことだ。
 しかし、彼女の口からファイター兄弟の名が出ることはとうとうなかった。良い試合だったとは言ったものの、二人の名には一度も触れなかった。機嫌を悪くさせると分かっていたからだろうが、それでも唸る回路を鎮められる気分になったことも覚えている。

 話していた時間は長かったのか短かったのか。それすらもよく分からない。

 彼女はフラッシュキッドの言葉通りに一杯だけ付き合うと暇を告げた。少し多目の金額をカウンターへ置いて、彼のイヤーパーツに顔を近付けると、最後に自分が何者か明らかにした。

 ──シルバーキャッスルのメカニックだ、と。

 絶句である。
 チームの内情をベラベラ喋るほど浅はかではない己にフラッシュキッドは心底感謝したが、しかし彼女は無邪気に笑った。

「わたしだけあなたの名前と所属を知っているのはフェアじゃないでしょう?」

 それから、こう付け足した。

「他チームのメカニックと二人きりで飲んだなんて知れたら、わたしはともかく、あなたはとってもマズいでしょうから、今夜のことはなかったことにしましょう。もちろん、助けてくれたことは忘れません。わたしだけの秘密にしますから⋯⋯」

 本当にありがとう、とお辞儀をして「試合、頑張ってくださいね」と言った彼女は、数歩行ったところでふと何か思い出したように振り返った。

「フラッシュキッド」

 あまりにも深く、真摯な、声と瞳だった。
 真っ直ぐな視線にややたじろいだ自分に、フラッシュキッドは内心で驚いた。何を気圧されているのか。たかがメカニックというだけの小娘に。

「⋯⋯ラフプレイなんかに負けないで」

 次いでそっと呟かれた言葉に、フラッシュキッドはついに反応出来なかった。
 フェアプレイを貫くファイター兄弟に言うならまだしも、ラフプレイは自分の土俵だ。意味が分からない。対処の仕方も知っているし、そもそもやられる前にやるだけだ。そして、やられたら何倍にもしてやり返す。

 彼女は困惑に固まったフラッシュキッドを待ってはくれなかった。
 ドアの向こうへ消える細い背中を見詰めるしか出来なかったフラッシュキッドは、舌打ちした。飄々とした態度がどこかファイター兄弟に似ていて、ひどく腹立たしかった。まったく苛々する。要領を得ない最後の言葉のせいで余計にだった。

 それが、出会いだった。

 ワールドツアーが終わった今、ダークスワンのプレイスタイルはもはや根底から変わっている。それは選手たち自身が変わったということを示していて、フラッシュキッドも例に漏れずだ。正々堂々としたフェアプレイの精神に目覚め、だからこそ理解できた。
 あの夜、あの去り際で。彼女の言った言葉に込められた、本当の意味が。

 相手のラフプレイに負けるなと言ったのではない。彼女は、ラフプレイに走る自身の弱さに負けるなと言ったのだ。
 そのことに気付いたとき、いてもたってもいられなくなった。もう忘れられるはずもなく、一言でもいいから、とにかく謝辞を述べたかった。敵チームだというのに応援してくれたことを、その事実がとても嬉しかったのだと。



「フラッシュキッドさん?」

 いつの間にか練習場を望める大きな窓の前に立っていたフラッシュキッドは、はっと我に返った。気付けばやわらか人間が背後に立っていた。気を遣ってくれたのか、オーナーの姿はない。

「お話があると伺ったんですが⋯⋯。ボーッとして⋯⋯大丈夫ですか?」
「⋯⋯ああ、いや⋯⋯」

 待ち人が来たことの喜びと、声を掛けられるまで沈み込んでいた思考を引き戻された驚きにまごついて、歯切れ悪く返す。

「ええと⋯⋯あの⋯⋯何かご用でしょうか?」

 やわらか人間が言う。
 まるで初対面のような、あの夜のことなど忘れてしまったかのような態度で。

「礼を言いたくて⋯⋯ここに来た」
「お礼を言われるようなことをした覚えはありませんが⋯⋯」
「あの夜のことだ」
「あの夜」

 はあ、と反応の薄い彼女に、フラッシュキッドはにわかに不安が湧いた。
 まさか覚えていないのでは。いや、そんなまさか。しかし本当に忘れているとしたら、一から十まで説明して、だから礼を言いに来たと言わなければならないのか、もしかして。そんな恥ずかしい思いをしなきゃならんのかとフラッシュキッドは軽く絶望した。

「一緒に飲みましたね」
「そう、それだ、その夜だ!」
「⋯⋯そんなに嬉しかったんですか⋯⋯?」

 思い出したのかと色めき立てば、友達いないの? という哀れみの眼である。馬鹿か、お前は。違ぇよ。そこじゃねぇよ! 一緒に飲む友人くらいおるわ!

「⋯⋯。覚えてないのか? 自分の言ったことくらい」
「⋯⋯何か言いましたっけ?」

 お前、本当に忘れてしまったのだな。
 やるせなさと同時に、しかしフラッシュキッドは納得もしている。きっと、彼女は相手が自分でなくとも、同じことを言ったのだろう。忘れているとは思わなかったが、それはごく自然にああ言えるからこそなのだ。

「⋯⋯ラフプレイに負けないで、とお前は言った」
「⋯⋯言いましたか。すいません、酔っていて、あんまり記憶が」

 一杯しか飲まなかったよな? 酒弱いんだな。
 新たな一面を知れて嬉しいが、やっぱそこじゃない。

「言ったんだよ。確かにな。ワールドツアーの試合で俺も目が覚めた。そして、お前の言葉の意味が分かった。だから礼を言いに来た」
「──そんなことで、わざわざ?」

 目を丸くするやわらか人間にフラッシュキッドは、やはり、と思う。

「お前にとっては、そんなこと、なんだろうな。だが、俺には⋯⋯」
「そんな⋯⋯あの、本当に、お礼を言われるほどのことじゃ」
「お前にとってはそうでも、俺には違う。俺は、俺には⋯⋯」

 もちろん感謝はしている。だが、それ以上の感情だった。

 言葉の真意に気付いた瞬間、初めてフィールドの外で回路が熱くなった。あのときの衝撃といったらない。試合以外でこんなに回路が発熱することもあるのかと頭を殴られたようだった。そんな爆弾を、彼女は無自覚に仕込んでいったのだ。
 矢も盾も堪らず、練習も何もかも投げ出して、アポを取るのももどかしく押しかけたこの衝動を、フラッシュキッドはなんと呼ぶべきか知っている。そういう事象もあるという知識はあって、しかし自分が身を持って経験するとは思っていなかったモノだが、悪い気はしなかった。心地良くさえある。ただ、受け入れられなかったらという恐怖もあって、だからどうすればいいのか分からない。
 ラフプレイで痛みを受けても怖いなどと思ったことはなかった。痛みはそのまま怒りとなって、自身をフィールドへ駆り立てこそすれ、そこへ立つことを恐怖させるようなものではなかったからだ。
 衝動と、それに相反する恐怖が甘く回路を軋ませる。なのに何故だか笑い出してしまいそうな愉快さもあって、動力炉が好き勝手に暴れ出す。まったく、なんて厄介なものを置き土産にしてくれたのか。

「⋯⋯とにかく、改めて、礼を言う。敵チームの、それもラフプレイを得意としていた俺に、あんな真剣に言葉を掛けてくれたこと、本当に感謝している。⋯⋯ありがとう」
「⋯⋯いいえ、どういたしまして」

 やわらか人間は諦めたのか素直に応えてくれた。しかし、伝えるべきことを伝えてしまうと、次の言葉が見つからない。収まり悪く途切れてしまった会話をどうすべきか迷ったが、監督たちが血眼になって探している頃だろうか。
 これ以上迷惑をかけるわけにもいかないし、沈黙の間で彼女と相対する心構えが出来ていないことに気付いたので、フラッシュキッドは今日のところは退散することにした。

「その⋯⋯また、会いに来てもいいか」
「ええ、もちろん」
「⋯⋯個人的にだぞ」
「はい」
「また、一緒に飲んでくれるか」
「わたしでよければ」
「今度は、俺の友人として、だぞ」
「あなたがそう望んでくれるなら」

 望むとも。できるなら友人以上の関係を。
 ──なんて。いまは言えない。それでもいい。確かに掴んだ繋がりを育てていけるのだという確信だけで、いまは。

「それじゃあ⋯⋯また、近いうちに」
「はい、お待ちしてます」

 淀みなく頷いたやわらか人間に、フラッシュキッドは微笑した。澄んだ湖面を想起させる美しい笑みだった。

 水面に映る面影に、仄かな恋の香りがあったことを、フラッシュキッドはまだ知らない。




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