やわらか人間は、奴隷商から命を捨てて逃げてきた娘だった。
 親に売られて、戸籍もなく、戸籍というものさえ知らないほどに歪な世界の中に生まれ落ちた。呼び名は「お前」で、売られてからは番号が彼女の名となった。彼女は文字通り身一つで、己の命一つを抱えて砂漠に飛び出したのだ。奴隷となるなら死んだほうがマシだと思える程度には、人間としての矜持が残っていたのだろう。

 彼女を拾ってから、シスレーたちは苦労の連続だった。人間の子供など育てたことがないのだから当たり前だ。水や食料といった必要な物は大体分かるが、塞ぎこんだ子供の笑わせ方なんて知るわけがない。毎日が、知識としてだけ存在するものを経験に変える日々だった。
 我ながら滑稽だと自嘲するほど彼らは悪戦苦闘したが、その甲斐あって、暫くするとやわらか人間はどうにか笑うようになった。シスレーたちが“人間ではない”ということそのものが、彼女の警戒を解いたのかもしれない。
 どこかたどたどしかった喋り方がはきはきと明瞭になり、笑顔を見せて彼女のほうから話し掛けてくるようになると、シスレーは一つの思いを抱いた。

 明るい世界へ返してやらねば、と。

 アイアンリーグを追われて盗賊となった自分たちとやわらか人間は違う。
 彼女が努力さえすれば、全うな道へ戻れるはずなのだ。
 たとえば病にかかったとき、ここでは医者にも診せてやれない。こんな環境では遅かれ早かれやわらか人間の身に危険が及ぶのは明白だった。
 さらに長い目で見れば、彼女の番となれる男もこの船にはいないのだ。伴侶を得、子を成し、家族という群れの中で死ぬ。それが人間の普遍的な幸福だとシスレーは知っていた。

 だから彼は、やわらか人間が同族の中へ戻れるよう、教育を始めることにした。

 まず、やわらか人間は読み書きができなかった。それにも驚いたが、足し算すらできないことに何より驚いた。複雑な演算をナノ単位で処理する彼らにとって、足し算は数式のうちにも入らない。最初に因数分解をさせようとして、泣きそうな顔でこちらを見たのをよく覚えている。
 一つずつレベルを落として確認し、たどり着いたのが足し算。千里の道も一歩から、という言葉を痛感させられる出来事だった。

 シスレーはやわらか人間に紙と鉛筆を与え、とりあえず先に文字を覚えさせることにしたが、人間というのは厄介だ。シスレーたちにとって卓上の勉学は単なるデータの塊でありメモリーに落としてしまえば知識となるが、やわらか人間には違う。何度書かせても間違える文字もある。それでも根気強く、シスレーはやわらか人間に文字を教えた。

 しばらく経って文字が単語に、単語がそれなりの文章になってきた頃に、恐れていた事態が起こった。
 やわらか人間が体調を崩したのだ。
 幸いタチの悪い熱病などではなかったため数日もすれば回復したが、シスレーが危機感を覚えるには十分だった。弱って床に伏せる姿の哀れさは、回路を歪ませるような痛みを齎した。
 そして、それを感じたのはシスレーだけではなかったらしい。人間そのものを嫌ってやわらか人間を邪険にしていた部下までもが、その頃を境に彼女に構うようになったのだ。

 その時にはもう、群れに返してやらねばという使命感にも似た思いを、全員が持っていた。

 それから彼らは自分たちの知り得る限りのいわゆる“人間の常識”というものも教え始めた。
 そしてシスレーは、万が一のときのために、砂漠で人間が生き延びるための術も叩き込んだ。原始的な火の熾し方や、水の在り処や、星で方角を知る方法や、砂嵐の前触れ、それのやり過ごし方といったサバイバル技術。さらに、自分たちの身体の仕組みと、基本的なメンテナンスの仕方も教えた。リーガーのメンテナンスが出来れば食いっぱぐれることはおそらくないだろうと踏んだのだ。
 シスレー本人もその部下も、進んで彼女に身体を差し出した。装甲をへこまされようが、間違って切らなくていい配線を切られようが、重要なケーブルの束を無遠慮に掴まれようが、それでも。
 卓上の勉学と平行して行われたそれらの教育のほうが、やわらか人間には向いていたらしい。彼女は感覚で掴むもののほうが覚えが良く、また上達も同じだった。砂漠が雨を飲むように、やわらか人間は教えられたことを素直に自分のものにしていった。




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