この眼差しの先を知る
注油用の固形油の缶を開けようとして、BP-115はうっと呻いた。
ヤバいすっごい固い。
身体がぷるぷる震えるほど力を入れてもびくともしない。最後に使ったのは誰だと少し恨めしく思いながらBP-115はさらに踏ん張ってみたのだが、やはり駄目だった。
この缶は、仲間の指間接の注油をしょっちゅうやっているからいちいち引き出しにしまうのも面倒になってデスク上に置きっぱなしにしているものだ。隣のよしみでガンマックスに「勝手に使っていいですよ」と言ったらなぜかドリルボーイや兄二人まで使いだし、そのままほぼ全員で使い回すという流れになって久しい代物でもある。缶自体は代替わりしているものの、やっていることは変わらない。
それはべつに構わないのだが、たまにこういうことがあるから困る。しかも、あいにくとちょうど自分のものを切らしていて固形油がこれしかない。
「ぅー⋯⋯」
ふたたび呻いて、BP-115はチラと振り向いた。いま、このデッカールームにいるのは自分と、そして黙々と書類に向かっているデュークだけ。
デッカードかシャドウ丸が戻ってくるのを待とうかとも思ったが、不快に軋む指と待つ時間を天秤にかけ、渋々立ち上がった。
「あの、デューク。ちょっといいですか?」
「ん──ああ、なんだい?」
書類から顔を上げ、首を傾げたデュークに、BP-115はそろっと缶を差し出した。
「あの⋯⋯すいません、これ開けてもらえませんか?」
「ああ、いいよ」
デュークは快く頷いて、缶を受け取った。よほど固いのだろうと身構えて力を入れたら、あっさり蓋が回ってしまってちょっと驚く。本当にこれが開けられなかったのだろうかと戸惑って思わず彼女を見れば、かなり微妙な表情をしているものだからさらに戸惑う。
「ええと──はい」
「⋯⋯ありがとうございます」
缶を返せば、ささくさと背中を向けた彼女に、なぜか焦る。
「あ、その、BP-115」
「なんですか?」
「あの、いや⋯⋯ええと、そう──そうだ、ついでだから、注油させてほしいんだが」
「はあ⋯⋯」
曖昧に頷いてふたたび缶を差し出してきたBP-115の手を、デュークはぎこちなく取った。
「え? あの、させてほしいって、わたしの指をですか?」
「ああ。嫌なら、無理にとは言わないが」
「いえ、べつに嫌では⋯⋯いやでも、デュークも暇じゃないでしょう」
「気分転換にはちょうどいいさ。ほら、こっちに」
手付きはぎこちなさを残していたものの、口調からは遠慮が消えていた。デュークはすでに取り上げた缶をデスクに置いて中身を指で掬っている。有無を言わさぬ流れに、BP-115は断るタイミングも逃がしてしまい、されるがままになる。立っているのもあれなので、仕方なくデスクに寄りかかった。
「⋯⋯。君は⋯⋯本当に指が細いな。折れてしまいそうだ」
「⋯⋯わたしは、人間との頻繁な接触を前提に造られてますからね。とくに手、指は、パワーより繊細な動きが出来るようにと」
「うん」
「だから、出力の確保はできてるのに、ガンマックスよりも握力が弱いんです。それでももちろん実動に耐えうるだけの最低レベルはクリアしてますけど、」
「うん」
「⋯⋯あの──ちょっと? バカにしてません?」
「まさか。綺麗だなと思っていただけさ」
「⋯⋯人前に出るにあたって、デザイン優先で造られてますからね」
拗ねたようにそっぽを向く彼女に、デュークは苦笑した。
「本当に、馬鹿になどしていないよ。私たちの手ではできないことが、君の手ならできる。それは素晴らしいことだと思わないか」
「⋯⋯わたしの代わりなんて誰でもできますよ」
「そうかな。君の代わりなんて、この世のどこにもいないのに?」
黙りこんだ彼女の指先を引き寄せ、デュークはそこに唇を触れさせた。大きく震えたそれを宥めるように、やわく押し付ける。
「⋯⋯もっと、自分を大切にしてくれないか。私は君が心配だ、BP-115。戦闘において君の力が及ばないことは間々あるかもしれないが、それは決して君のせいではないし、我々はそれを責めたりなどしない。君はもっと大事なものを我々に与えてくれている。役に立てないと卑下しないでくれ」
「⋯⋯まるで、わたしを解ってるみたいな言い方ですね」
「気に障ったならすまない。だが、君がいつか無茶をしそうで私は怖いんだ。
君を失いたくない──私だけではない、皆が思っていることだ。どうか忘れないでくれ」
ぼんやりと自分の手を見つめながら、よく気に掛けてくれているのだな、とBP-115は思った。前線においての力不足を常々感じていることは、口にせずとも同じ悩みを抱える兄のシャドウ丸しか気付いていないと思っていたのに。
「⋯⋯気をつけます⋯⋯」
「うん」
昼間に、そんなことがあった。
仕事から上がり、BP-115は自室のデスクでぼんやりと自身の手を見つめながら、デュークとのやり取りを思い出していた。あのときは事態を把握していなかったというか思考に気をとられて流してしまったが、よくよく考えてみたら指先にキスだなんて、すごいことをされたのではないかと思う。まったく、期待させないでほしい。
──いや、いやいや。自分は期待しているのだろうか? あれは、特別な意図を持って触れたのだと?
いやあ〜〜、いやいやいや。それこそ有り得ない。デュークの“特別”はレジーナだ。間違っても有り得ない。
きっと、イギリス人は皆ああなんだろう。深く考えないほうがよさそうだという確信に、無理やり自分を納得させるが、一度意識してしまうとダメだった。
だってこれはただのきっかけで、薄々気付いていた。自分の気持ちが分からないほど鈍くも疎くもないことを恨んでしまうくらいには、彼に心を傾けている。もう目を逸らすことなんてできない。知らない振りをすることなんでできない。
デュークが、好きだ。
彼は、プライドが高く理屈っぽいが、反面、とても繊細な感性の持ち主だった。優しくて、それゆえに傷付き苦悩する。そのアンバランスさが妙に子供っぽくて放っておけない、そんな人だった。
放っておけなくて、そして、気付いたときには、デュークを見ていた。自分の見ているものを知りたいと言って隣に並んだ彼の端正な横顔を見つめていた。
今や知りたいのはこっちのほうだ。どうすれば諦められるのか、この気持ちを捨て去るにはどうすればいいのか。どうして惹かれたのか、どうして気付いてしまったのか、どうして、どうして──デューク、だったのか。
世界が引っくり返ったって、彼の心はレジーナのものなのに。