その年、アイアンリーグは一つの過渡期を迎えた。

 他を圧倒する実力とプレイ、その絶大なカリスマで人気を誇ったシルバー三兄弟が、それぞれのシーズンが終わるのを待って、揃って引退したのだ。
 紙面には来シーズンを案ずる記事が踊り、引退を反対する声も上がった。

 しかし彼らは戻ってこなかった。
 メディアにも一度も姿を見せなかった。
 彼らがどうなったのか、何をしているのか、誰にも分からなかった。公式のデータバンクにも引退の文字があるだけで、博物館にもその姿が現れることはなかった。

 そして次のシーズン、彼らが去ったフィールドはどこか冷めた空気があった。
 正々堂々のクリーンファイトが陰りを見せ始めたのはまさにこの頃だ。観客はスタープレイヤーの穴埋めに暴力的なプレイを求めているようでさえあった。

 アイアンリーグに到来した厳寒ともいうべき時期、観客をふたたび熱狂させたのはダークキングスのピッチャー、ゴールドアームだった。
 前エースのシルバーフロンティアの後輩であり、粗暴ながらもどこかお行儀の良いピッチングだった彼が、そのシーズンの終盤にジェノサイド・スクリューというとんでもない魔球を携えて登板した。

 その魔球の破壊力に人々は熱を上げた。
 彼のラフプレイを止められる者も、また、そうしようという者もいなかった。彼が展開する凄惨を極める試合に観客は酔い痴れ、さらに過激なプレイを求めた。求められるまま、ゴールドアームは溺れるように、さらにラフプレイへのめり込んでいった。

 ゴールドアームは、激烈な怒りと憎しみを抱えていた。それは、誰にでも、何にでもない、理由も行き先も見当たらない憎悪だった。
 練習のときですらバッターマシンを何台も破壊して、歪んだ高笑いを上げていた。

 それでも彼は時折、正気ともいえる穏やかさをふと覚える瞬間があった。

 自分は、いったい何をしているのだろう?

 何か、とても大切なものをどこか遠い場所に置き忘れたような焦燥。
 けれど、マウンドに立てば全てを忘れた。忘却が心地良いのは逃避だからだ。ジェノサイド・スクリューを投げながら、そんな自分にゴールドアームは気付かない。

 その頃のゴールドアームは公私共に荒れ果て、一試合をジェノサイド・スクリューで完投することもあれば、ハイウェイを無茶な運転で飛ばすこともあった。監督やメカニックの苦言などどこ吹く風で、自分の機体すら顧みていない節があった。

 そんな折だ。打ち捨てられたような公園を彼が見つけたのは。

 エアカーで無意味に走り回って海岸沿いの寂れた倉庫街の近くまでやって来たゴールドアームは、長らく整備もされていないらしい公園を偶然見付けた。海岸からも微妙な距離のその公園は、周囲の風景よりも一足先に夕焼けから夜の闇へ沈むところだった。

 路肩にエアカーを停める。
 都市部緑化の一環で植えられた樹木は好き勝手に伸び放題で視界が悪い。“自然”に触れるのはフィールドの土と風くらいのゴールドアームにはゾッとしない景色だった。

 虫とかヤバそう。絶対入らねェ。

 普段のゴールドアームならそう思うだろうが、その日の彼は何かが違った。
 なんとなく⋯⋯そう、本当になんとなく、エアカーから降りた。
 まだ冷え込む春先の夕暮れが、蕾をつけ始めた木々を寂しく覆っている。
 ゴールドアームは公園の入り口へ足を向けた。外周を辿っていたら、薄暗い公園からキイキイと、金属の軋る音がする。
 音につられて、ゴールドアームは木々の合間を縫ってそちらを窺った。
 そこには、小さな背中が丸くなって震えているのが見えた。項垂れて、肩を揺らしている。風の音に似た啜り泣きが聞こえた。

「おい」

 導かれるように公園に入り、反射的に声をかけた理由が、彼自身にも分からなかった。ゴールドアームが自分自身に戸惑っているうちに、その生き物は顔を上げた。泣き腫らした、お世辞にも可愛いとは思えない、むしろ涙でぐちゃぐちゃで「汚いな」とすら思う顔が、彼を見上げた。
 あまりに悲痛な形相にゴールドアームは少したじろいだものの、辺りを見回しながら尋ねた。

「こんな時間に、独りで⋯⋯親はどうした」

 彼女は、うう、と呻いた気もする。それが返事だったのかもしれない。
 声を上げて泣き出したその生き物に、ゴールドアームは半歩引いた。製造されてから初めて覚える“恐怖”というものによく似た感情を持って。
 しかし、ダークキングスの筆頭たるラフプレイヤーとしての矜持が、ゴールドアームに逃げを許さなかった。

「なっ、なんで泣くんだ!」

 ゴールドアームは子供の泣き止ませ方なんて知らない。そもそも、子供が目の前で泣いているという異常事態にも出会ったことがない。
 反射的に怒鳴ったものの、彼は少女を見つめたまま固まった。その場を離れることもそれ以上何か言うことも出来ないまま、相手がリーガーなら一発ぶん殴ってるところだ、と八つ当たりに近い気持ちで小さな頭を見つめていた。
 しばらく眺めていると、彼女がしゃくりあげながら、また彼を見上げた。

「ぱぱも、ままも、おじさんも、いなくなっちゃった」

 衝撃だった。
 どこか遠い世界で起こっている紛争のようにさえ思われる言葉だった。

「死んだのか?」

 ゴールドアームは呟いた。お互いに茫然自失になっている。

 その後のことは、ゴールドアームにはいまいち現実味がない。しかしはっきりと覚えている。

 彼女の様子がおかしくなって、触ってみたら熱かったから、とりあえずダーク本部に連絡した。場所を伝えると、救急に連絡を入れておくからお前は帰って来いと言われて、そのまま外をぶらつく気にもなれなかったからその通りにした。
 それで終わるはずだった。
 なのに、いつまで経っても妙に気にかかっている。一応、ちゃんと保護されるまでを確認もしたのに、それでも。

 こんなのはおかしい。

 事象として知っているだけのことを、不意にポンと目の前に投げつけられたせいだ。盗塁をまんまと許してしまったような、そんな屈辱さえ感じた。
 だから、ふたたび公園へ足が向いたのは、ゴールドアームにしてみれば当然のことと言える。出塁されたのなら奪い返すまでだ。方法は分からなかったが、ウダウダ考え続けるよりは牽制球を投げてしまうほうが性に合っている。投げ続ければ見えるかもしれないと、そんな希望的観測すらあった。

 過ぎたのは一月か、二月か。
 ゴールドアームは練習とメンテナンスの間を縫って、公園へ赴いた。
 いない可能性のほうが高いだろう、と彼の優秀なAIは早い段階で答えを出している。それでも、投げるためには徒労となろうがマウンドへ上がるしかない。
 道を辿り、以前と同じように路肩にエアカーを停める。漠然とした不安を抱えて見通しの悪い公園へ入った。

 はたして少女はそこにいた。
 啜り泣くだけで静かなものだ。牽制球を投げるつもりで、しかし掛ける言葉が見つからず、ゴールドアームはただ傍で立ち尽くした。
 「いなくなった」と「死んだ」は決してイコールではないが、それをいま確認するのはさすがに酷だということは彼でさえ分かっている。
 どうにかしてやりたいと思わないでもなかったが、やはりどうすればいいのか分からない。

 項垂れる小さな頭を見ているうちに、ゴールドアームは自分の中の何かが音を立てるように変わっていくのをまざまざと感じた。そんな己の変化についていけない。

 まったく、どうしろというのだ、こんな弱々しい生き物相手に。

 自問するが答えは出ず、彼は結局、どうしようもなくなって隣に座り込んだ。
 泣き止ませ方なんて知らない。だったら泣き止むまで待つまでだ。もう何時間かかってもいい、トコトン付き合ってやる。

 そう思っていたのだが、少女は意外にもわりとすぐに反応した。
 泣き腫らした目がゴールドアームを見る。赤くなった皮膚が痛々しく、思わず呟いた。

「大丈夫か?」

 そんなわけないだろう、と即座に自答する。

「だ、れ?」
「⋯⋯俺はゴールドアームだ」
「ごーるどあーむ」

 舌足らずな発音が聴覚回路に甘い。
 思えば決定的な変化はまさにこの瞬間だった。ゴールドアームは庇護欲というものも知らなかったが、そのとき芽吹いた感情はそうとしか言いようのないものだった。彼は無意識下で、名前さえ知らない感情を持て余し、解析不可能と投げ出した。そして、いつの間にか彼女の話し相手になっていた。

 彼女について分かったことは、やわらか人間という名前で、年齢は七歳。実親が死に、引き取った先の保護者も先日、事故で亡くなったらしいこと。自分は周りを不幸にすると思い込んでいること。だから誰とも仲良くしてはいけないと、幼いながらに自分を律していること。
 馬鹿じゃないのか、とゴールドアームは内心で笑い飛ばした。同時に、頭の悪くない子供なのだなと思った。
 ガキというのはもっと自分本位で我が儘で手に負えないイキモノだとなんとなく思っていたのだが、そうでもないらしい。
 リーガーの自分ですら健気に遠ざけようとしたやわらか人間に、興味が湧かなかったといえば嘘になる。庇護欲に比例して、残酷な、深い好奇の視線をゴールドアームは彼女に注いだ。

 季節は春。

 ゴールドアームは、やわらか人間を見つけた。




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