日常編08



(side柳生)


その日は朝から偏頭痛が酷かった。
仁王君も時々気圧の変化にやられて頭が痛むことがあるようですが、私のこれは雨など関係なしに幼い頃からよくある事でした。医者である父から処方箋も無しに薬を分けてもらう事はあれど――本当はいけませんよ――毎回という訳にもいかず市販薬に頼る日々。

梅雨入りをして何日か経った今日、いつもカバンに入れていた筈のピルケースが見つからず、この偏頭痛を抑える術が見当たらない事に酷く絶望した時、ちょうど良く彼が現れた。


「調子悪そうじゃのう。いつものか?」

「ええ、しかし薬を忘れてしまったようで……」


私とした事が、忘れ物をしてしまうなんて。
彼に説明をすれば、私の意図が伝わったのか男子トイレへと連れて行かれる。そう、入れ替わりである。


「こんな事ですみません」

「どんどん顔色悪くなってきとおし構わんよ」


彼に貸し与えられたウィッグの締め付けで更に頭が痛む。着替えてメイクを施してもらいながら、段々と視界が霞んでいる事に気が付いた。
偏頭痛というものは、酷い時は視界まで悪くなるのだから全く困ったものです。私に成り代わった仁王君への礼は後でする事にして、重い足を引きずりながら保健室へと向かった。

ノックをしても中から返事が聞こえる事はなく、それでも徐々に酷くなる頭痛に立っていられるのもやっとだった為、断りも入れずにドアを開けた。


「誰も……いない」


思わず口をついて出た声は仁王君のものとは似ても似つかず、上手く成り切れない程に弱っているのだと思い知らされる。本来ならば入室ボードに学年やクラス・氏名を記入しなくてはならないが、そんな元気は既に無くベッドへと向かい閉まっていたカーテンを開いた。


「――うわっ」


あまりの痛みに冷静さを欠いていたのでしょう、カーテンが閉まっているのは使用中だと言っているようなものなのに、それにも気づかずベッドの主に失礼を働いてしまった事に酷く後悔をする。


「なんだ仁王だったのね」


眼鏡を掛けていないせいでボヤけた視界の中で、横たわったベッドの主が私を見つめていた。どこかで聞いた覚えのある声だが、今は思い出すどころではなくて、目の前の彼女を当たり障りなく躱して隣のベッドに倒れ込んだ。



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遠くの方から声が聞こえた。
深い水の中で、上か下かも分からないまま揺蕩いながら、その優しい声がなんと言っているのか聞きたくて耳を澄ませる。澄ませど澄ませど、確かに声は聞こえてくるのに内容までは理解出来なかった。
ふと頭の痛みを思い出す。その猛烈な痛みに思わず顔を顰めると、今まで私を支配していた水は泡のように溶けて消えていき、代わりに優しい声がすぐ目前で聞こえてきた。……夢でしたか。

薄く瞼を開くと、相変わらずボヤけた視界で一人の女子生徒が私を不安そうに覗き込んでいる景色が飛び込んできた。輪郭線こそブレているものの、距離が近いので相手が誰であるかはすぐに分かった。


「苗字、さん……?」


喉から絞り出すように彼女の名を呼んで見れば、その表情は少しホッとしたものに変わる。


「仁王平気?つらい?」


彼女が私を"仁王"と称したことで、今は仁王君に扮していたのだと思い出した。私は仁王雅治で、柳生比呂士は今F組の教室で授業を受けている。そうです。そうでした。


「ああ、ちょっと、頭が痛くての」

「薬は?」


頭が痛いと口にすれば、よりその痛みの主張が激しくなったような気がする。先生がいなくてまだ薬を貰えていないと伝えれば、彼女はポケットから市販薬を取り出して見せて、それを分けてくれると言う。
薬を持って保健室にいるという事は、彼女だって調子が悪いだろうに、自分を差し置いて私を気にかけてくれる彼女の優しさに言葉が出なかった。

水の入ったコップとその市販薬をサイドテーブルにコトリと置いた音に、ハッと意識を戻される。いけませんね、いくら偏頭痛に苦しんでいるとは言え、女性にお世話をさせてしまうとは。


「お大事にしてね」


焦点の合わない目で苗字さんを見れば、彼女はそう言ってカーテンに手を掛けた。彼女が行ってしまう前に礼を言わなくては。


「ありがとう」


私の言葉はチャイムの音に掻き消されてしまい、彼女の耳に届くこと叶わずカーテンは閉められた。
一体私のどこが紳士でしょうか。呆れますね。

サイドテーブルに置き去りにされた濃紺と白のバイカラーの箱から、苗字さんに言われた通り2錠だけ取り出し、水と一緒に喉の奥へと押し込んだ。夢の中で聞こえた彼女の優しい声を思い出したら、そのまま睡魔が襲ってきたのでゆっくりと瞼を閉じた。



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ゆるりと目を覚ませば、私の格好をした男がベッドに腰掛けていた。目が合った彼は緩やかに微笑んで口を開く。


「仁王君、調子はいかがですか」

「……お陰様でな」


寝起きくらいは入れ替わらなくてもいいのではないだろうか、そんな風に恨めしげに見つめるが、目の前の私――仁王君はどこ吹く風と1ミリもズレていない眼鏡の位置を正した。


「今何時じゃ」

「ちょうどお昼休みですよ」


なるほど、サボり癖のある彼の事ですから、柳生比呂士として真面目に授業を受け続けるのも飽きてきたのでしょう。様子を窺いに来て、回復していそうだったら入れ替わりは終わり、と。
視線を隣のサイドテーブルに移すと、そこにはまだ市販薬の箱と空になったコップが置いてある。頭は驚くほどスッキリしていて、ふわりと脳裏を苗字さんが過ぎった。そうして、礼は仁王君として言うべきか、私として言うべきか迷う。


「仁王君、入室ボードは書かれましたか?」


そう言えばまだ書いていなかった、とサイドテーブルから仁王君に視線を戻すと、彼はニヤリと口角を上げた。私の顔でそういう表情をするのはやめたまえ。
乱れていた衣服を整えてから、入室ボードが置いてあるテーブルまで移動すれば、彼が(はした)なく笑っていた理由に気付く。


「これは……」

「苗字さんの字でしょうね」


二年B組仁王雅治、と見慣れない字で書かれたすぐ上には苗字さんの氏名が書かれていて、その二つの筆跡が酷く似ていた。本当に彼女には感謝してもしきれません。


「のう柳生」

「なんですか仁王君」


自分の名前を呼び合うのは、未だに慣れない。


「昼休みが終わるまで待ちんしゃい」


仁王君の眼鏡の奥側にある目が丸くなる。すぐに入れ替わりを終えるつもりでいたのでしょうが、もう少し待って頂きますよ。私にはやらなければならないことがありますから。



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そのまま向かうはC組の教室で、ドア付近にいた女性たちに声を掛けて苗字さんを呼び出す事に成功した。渡り廊下まで来れば他の生徒はもう見当たらず、ここで良いかと足を止める。
突然呼び出した事を謝罪すると、彼女は私の調子が良くなったのかと心配してくれる。それがなんだか母親みたいで、いつかにジャッカル君が言っていた事を思い出した。

薬の箱を返したら、「すぐに気付けなくてごめんね」なんて申し訳なさそうにするから、居た堪れなくなり再度頭を下げて礼を言う。そうして何度か感謝と謝罪の応酬が続き、先に折れたのだろう苗字さんの安心したような声が聞こえて、こちらもホッとして頭を上げた。


「あれ」

「どうしたんじゃ」

「いや、何か……」


目が合ってからすぐに、彼女は私の顔を眺め始める。もしも視線に物理があるならば、今頃私の顔は穴だらけでしょう。
どこか納得できなそうな表情で依然として向けられた視線が擽ったく思えて視線を逸らすと、廊下の端に寂しげに佇む自販機が目に入る。別に礼が足りていない様子でもなさそうですが、飲み物一つご馳走しただけではまだお釣りが来るくらい、それくらい彼女には感謝しています。


「なんじゃ、ジュースでも奢っちゃろうか?」


努めて仁王君らしい表情で提案する。
すると彼女は合点がいったかのように笑った。


「――ああそうだ、琥珀だ」


琥珀、ですか。蜂蜜色をした天然樹脂の化石であるあの琥珀のことでしょうか。
それと私の顔を見つめる事になんの関係も見出せず、普段から読書を嗜んでいる癖に、肝心な時に想像力が働いてくれないのだと少しガッカリする。
意味が分からないと首を傾げて見せた。


「琥珀じゃないんだ」

「おまんさん、何を言っちゅう?」

「柳生に聞けば分かるよ」


柳生に聞けば、はて。
貴女の目の前にいるのが正しく柳生比呂士です、だなんて言っても伝わらないでしょうが、それでもその柳生本人である私には理解が出来なかった。
……もしや。

彼女は「それじゃあね」と手を振り去って行く。完全に姿が見えなくなった頃、B棟側から仁王君が歩いてきたので、手近な空き教室に入りお互いの装いを元に戻した。


「礼は済んだんか」

「……ええ」

「なんじゃ、歯切れが悪いのう」

「仁王君、貴方は琥珀なのですか?」


仁王君は仁王君に、私は私に戻る。
いつもの姿に戻れたというのに、何故だか気持ちがスッキリしない。釈然としないまま尋ねてみれば彼の眉が僅かにピクリと動いた。


「ピヨッ」

「なるほど、やはり貴方の事でしたか」


いつもの謎のオノマトペで驚いたのを誤魔化しているようですが、何年貴方とパートナーを組んでいるとお思いですか。
苗字さんの言う"琥珀"が何を指しているのかは未だに分かり兼ねるが、彼女が我々を見分けられていることには確信が持てた。


「私が仁王君ではないとバレました」


今度こそ仁王君の目が大きく開かれて、そこでようやっと気付く。ああ、彼の瞳を琥珀に例えたのですね。詩人のようなセンスを持つ彼女にもう少し関わってみたいと思いました。
できれば、次は柳生比呂士として。


「今後はカラーコンタクトレンズを用意する必要がありそうですね、仁王君」

「……プピーナ」


06〜08話まで続いた頭痛パート、仁王の正体は柳生でした。
仁王は内心震え上がっていそうですね。
20190710 お肉