日常編16



外では相変わらずジーワジーワと蝉が鳴く。
ガタガタと机を運んでいるクラスメイト達を眺めながら手の中の「40」をぐしゃりと握り潰した。


「隣苗字さん?よろしく」

「よろしくね」


大人しそうな男の子が隣にやってきて私に挨拶をしてきたので、私も笑ってそれに返した。
引いたクジは40と記されていて、つまりは席の移動がない事を表していた。教室内は一喜一憂する声で溢れていたが、私一人だけ不動を貫いているこの状況が酷く不安にさせた。まるで私という存在だけが隔絶しているかのような錯覚に陥る。

本格的な夏が始まり幸村と屋上で昼食を取ることはなくなった、チーム青春のグループトークは今日も動かない、隣から柳がいなくなった。
たったそれだけの事なのに、世界から拒絶されているような気持ちになる。いいや、これでいいのだ、これが日常だ。そう何度思っても私の中の不安が消える事はない。

私の気持ちを誤魔化してくれていた蝉の声はいつの間にか聞こえなくなり、青すぎる空と白すぎる雲、誰もいないグラウンドに目眩がする。気分が悪くなる。
ああダメだ、保健室。


▼▲▼




フと気が付くと世界はオレンジ色に染まっていた。
どうやら六限まできっちり眠ってしまっていたようだった。養護教諭の先生も起こしてくれれば良かったのに、と夕焼けで染まった保健室で暫しぼうっとする。外からは運動部員のものであろう掛け声が聞こえるので、六限どころか放課後じゃないかと溜め息を吐いた。

さっさと荷物を取りに行って帰ろう、今晩は眠れるだろうか、とぼんやり考えながら二年生の教室が並ぶ廊下に差し掛かったところで違和感。
放課後だというのに騒がしい。そしてその騒がしさは今まさに向かおうとしていたC組の教室から聞こえてきているような。
考えていても仕方がないので意を決して扉をガラリと開けたところで後悔した。


「……どうも」


突然開かれた扉の音に驚いたのか、はたまた入室してきたのが私だったから驚いたのか、先まで騒がしく感じていた教室内はシンと静まり返る。騒がしさの元凶達の視線は皆等しくこちらを向いていた。


「苗字さん、体調悪かったんだって?」

「うん、まあ」

「もういいの?」

「そうね」


藍色の王子様がアルカイックスマイルでこちらにゆっくり歩み寄る。そこはかとなく怖くなって、ジリジリと後退りながら表面だけは取り繕って強張った笑顔を張り付けてみるが、王子様の歩みが止まる事はない。


「どうして逃げるの?」

「……近付いてくるから?」

「大丈夫、何もしないよ」


思わず当たり前だ、と言いそうになる。
しかし尚も歩みは止まらず、とうとう私の背中は廊下の窓にトンと受け止められた。目の前に迫る神の子はきっと食物連鎖の頂点なのだろう。
獲物を見つけたライオンもとい幸村は私の手首を優しく掴むとC組の教室に引きずり込んだ。

先は現実逃避をしていたが、やはり教室内にいたのはテニス部の面々で「どうしてC組にいるんだ」とか「部活はどうした」とか色々な疑問が湧いてくる。それでも聞けなかったのは、やはり気まずさが優っていたからだろう。


「ええと、鞄を取りに来たのだけれど……」


幸村に手を引かれ促されるまま"特等席"に着席させられた私の声はどんどんと小さくなり、やがて空気に溶けて消えた。


「とりあえず仁王の質問に答えて」


私が着席してからどれ程の時間が経っただろうか、実際には数秒なのだろうが、この普通じゃない状況のせいで恐ろしい程長く感じた。
幸村が口を開いた事で重たかった空気は幾分か軽くなり、視界の端にヒョコと銀色が入り込む。質問とは一体なんだろう、と唯でさえ硬直している身体が更に強張る。


「苗字さんの恋人」

「……はい?」


それはもしかしてこの間の話の続きだろうか。
想像の斜め上を更に上回る発言に、全身の力が抜けていく感覚がした。その話は君達の勘違いにより既に終わったのでは、そんな気持ちを込めて改めて仁王を見遣れば、彼はニヤリと悪戯っぽく笑った。


「ほんまはおらんのじゃろ?」

「何が言いたい?」

「苗字さん、君は質問される側だよ」


仁王の意図が読めず思わず聞き返すが、それを許すものかと幸村が口を挟む。
折角うまく勘違いしてもらえて、正真正銘平穏な毎日を過ごせていたと思っていたが、どうやら彼達はそれを良しとはしないようだ。じゃなければ部活の時間を使ってまでこんなことしない。


「本当はいないというか、私はいるとは一言も言っていないよ」


観念したようにそう言えば、仁王は困ったような顔で「そうじゃな」と返して幸村へと視線を向けた。
困った顔をしたいのはこちらの方だ、と私も幸村へ視線を向けると、彼は相変わらずのアルカイックスマイルで口を開いた。


「こいつら最近練習に身が入っていなかったんだよね」

「……そうですか」


どうしてだと思う?なんて可愛く小首を傾げて言ってくるが、その表情は普段の可愛い幸村ではなく、まるで尋問官のように貼り付けた笑みだからなんだか心臓がヒヤッとする。


「苗字さんに彼氏がいるとかいないとかでみんなソワソワしちゃってさぁ。もうすぐインターハイだって言うのに本当情けないよね。酷いと思わない?そもそも彼氏がいるなら俺とデートなんて行かないもんね。ねえ苗字さん?聞いてる?」


ニコニコとしながらまくし立ててくる尋問官に私は「聞いてます」と小さくこぼす事しか出来なかった。それでも言いたい事を言い切って満足したのか、幸村は「ほらお前ら部活に戻るよ」と踵を返す。それに倣うようにして、ずっと(だんま)りを極め込んでいた他の部員達もバラバラと教室を出て行った。

一体なんだったのだ。なんの時間だったのだ。
一人残された私は暫くその場で浅い呼吸を繰り返してから、漸く鞄を手に取り昇降口へと向かった。


「苗字」


下駄箱で靴を履き替えたところで、突然背後から呼びかけられ分かりやすく身体を跳ねさせる。


「すまない、驚かせるつもりはなかったのだが」

「柳」


振り返れば申し訳なさそうな顔をした柳がいて、さっき教室では黙り込んでいた癖に今度は一体なんなのだ、と小さく溜め息を吐く。
それが聞こえていたのか、彼は相変わらず申し訳なさそうな顔のまま曖昧に笑って「今日は席替えがあっただろう」と切り出す。何が言いたいのか分からず、頭上に疑問符を浮かべて見せた。


「席は離れてしまったが、困った事があればいつでも俺を頼ってくれ」


転入してきた日、そしてこの前の東屋でも同じような事を言われた。そしてその言葉に救われていた私がいた。


「お前の事を好きな男としてではなく、お前の頼れるクラスメイトとしてだ」

「……うん、ありがとうね」


私なんかよりも柳の方がずっとずっと大人じゃないか。なんだかそう思ったら大人とは一体なんなのかと猛烈に気になりだして、そうして私は一つやりたい事を見つけてしまった。
新しい人生で初めて能動的にやりたい事柄を見つけられた喜びで思わず頬が緩む。それを見て安心したのか、柳は「そういえば」と切り出す。


「精市とデートをしたというのは本当か?」


ああ、そういえば。
先の教室で幸村がそんなことを言っていたなと思い出す。それからあのデートの日は職権濫用により部活が半休になっていたような。ああ、そうだった、頭が痛い。
私は半歩だけ後退る。


「一体いつデートしたんだ」


幸村め、こうなる事は予想できただろう、もう構っていられるか、と私は逃げるように校門へと駆け出した。
幸村への恨めしい気持ちで頭がいっぱいになっていたせいか、背後から聞こえる深い溜め息には気づかなかった。



幸村と柳はバチバチにやりあってほしいです
20191202