「………松野、今のお前なら男だと分かってても付き合える気がする」
「キメェこと言うな」
「松野、今度その格好で一緒にショッピング行かない?」
「行くわけねぇ」
「松野くん、文化祭の後そのままプリクラ撮りに行こうよ」
「ぜってぇ嫌」
「千冬、オレ他校のダチに彼女いるって嘘ついて困ってんだわ、彼女役してくんね?」
「シメんぞ」
クラスメイトに囲まれる姿を遠巻きに眺めてにこりと口角を持ち上げる。何度も何度も練習したブルベのナチュラルメイク。胸元で緩く巻かれたミルクティー色の髪、男らしい骨格が隠せるようにと選んだロングスカートとオーバーサイズのゆるふわニット。ウィッグが浮かないようにニット帽もかぶせて、完璧だ。我ながら完璧だ。クラスで一番可愛い男の娘が出来上がってしまった。
ゆるふわヤンキー松野くんのお願いについて
文化祭当日、私が仕上げた千冬の女装はもう女装というよりも殆ど作品の様なものだった。メイク中も着替え中も千冬は最後まで「死にてぇ」って繰り返しボヤいていたけど。今も表情が抜け落ちて愛想のない顔をしているけれど。それはそれで、クールなゆるふわ女子という新たなジャンルが出来上がっていて悪くない。唯一無二だ。
「千冬、私生きてて良かった」
「オレは今人生で初めて死にたいと思ってる」
「そんなこと言わないで、ほら笑顔笑顔」
化粧が落ちないように人差し指の先を左右のほっぺたにあてて、口角を持ち上げるように優しく力を込める。垂れていた眉を更に下げた千冬は、千夏オマエ、約束忘れてねぇだろうな、と力のない声を発した。
「困り顔可愛い。並行眉にして大正解」
「聞けよ、オレが何言ってもオマエにもう拒否権ねぇからな」
「もちろん、私が出来ることにしてね」
こんなに可愛い推しを拝めたのだから、何だってやってやろうじゃないか。なんだかんだ千冬は優しいから私に出来ないような無理難題は言わないだろうし。どんと来い、ってやつだ。今の私なら何でも出来る気がするぞ。
「明日、文化祭二日目はオレといること」
「なにそれ、ただのご褒美じゃん」
「じゃあこれはお願いにカウントしねぇ」
「いや、それはズルくない?」
千冬が徐々に私に対して横暴になってきていることについては目を瞑ることとする。そういえば今日、武道くんが文化祭にヒナ呼んでるって言ってたよ、この可愛い格好見てもらおうね、ニコニコと語りかけると千冬は白い顔で項垂れた。
♢
画面に映った猫顔の男の娘を覗き込んでニマニマと口元を緩ませる。一人でニヤけながら歩いているから随分と怪しい人になってしまっているけれど、我慢できないのだから仕方ない。
写メは数枚。私が撮ろうとするとすぐにバレて怒られるから、こっそり友達に頼んでおいた。不貞腐れた顔でドリンクを運ぶ姿も、女子に可愛いと褒められて何とも言えない顔で目尻を赤らめる姿も、全部全部堪らない。武道くんに爆笑されて真っ赤な顔でキレている写真が一番のお気に入り。可愛いって分かってはいたけど想像以上。やはり私の目に狂いはなかったのだ。
無事文化祭一日目を終えて、今にもスキップし出したい気分で帰路に着く。帰ったらもっとじっくり写真を見返そう。そうやって浮かれていたのがいけなかったのかもしれない。
俯き携帯を弄りながら歩いていると、すれ違った人と肩がぶつかってしまった。それはもうガツンと盛大に。その勢いで私の手から携帯が吹っ飛んでいく。ごとんっとアスファルトに叩きつけられるグロテスクな音がして血の気が引いていった。壊れてませんように。
「ごめんなさ」
「テメェ、前見て歩けや」
「………………」
威圧的な声にヒュンと心臓が縮こまる。ギギギ、とロボットのように動きを軋ませながら顔を上げると、目の前にガラの悪い不良が1、不良が2。眉毛を剃りすぎて人相が悪い。「ごめんなさい!」と震える声で叫んで、地面に落ちた携帯に手を伸ばした。が、先に不良さんに携帯を拾い上げられてしまう。そんなぁ、
「あ?コイツ、元東卍のヤツじゃね?確か壱番隊にいたヤツ」
「マジで、オレ昔そこの隊のヤツらにボコられたことあんだけど」
私の携帯を手にした不良さんは、私の待ち受け画面を見て何か訳の分からない事を言っている。トーマン?一番隊?なにそれ。待ち受け画面はしばらくずっと変えてない。千冬と初めて遊んだ時に動物園で撮ったツーショットだった。もしかしてこの人達、千冬のことを知っているのだろうか。
「間違いねぇ、ロン毛の野郎の横に引っ付いてた奴だ」
「でもそのロン毛野郎は芭留覇羅との抗争でおっ死んだんだろ」
「そーそー、思い出したらムカついてきたわ」
「コイツなら今からでもボコれんじゃね?」
ぼこ…ボコ?私の人生の中では到底聞き慣れない言葉にヒヤリと冷や汗が伝う。二人同時に振り返ってメンチを切ってくるから、雑魚な私はそれだけで腰が抜けて地面にへたり込んでしまった。ああ、携帯なんて犠牲にしてさっさと逃げれば良かった。後で解約できたし。でもバックアップ取ってない。千冬専用フォルダが消滅してしまうのは嫌だ。
「オマエ、コイツの女だろ?呼べよ今」
「よ…呼んで、何するんですか…というか、女じゃな」
「ああ?いいからさっさと呼べや、それともちょっと痛めつけた方が」
大きな手が顔面に向かって伸びてきて恐怖のあまり固まってしまう。なぜ真面目に慎ましく生きてきた私が、こんなガラの悪い不良に絡まれなきゃいけないのだろうか。震える手を押さえつけてズリズリと必死に後退った。もうダメだ、腰が抜けて立ち上がれないし、このまま顔面掴まれて、握り潰される、死ぬ。
背後からタッタッタッと軽快な足音が聞こえてきて不良の仲間が来たのかもしれないと、絶望の淵に突き落とされた。ああいい人生だった、と潔く諦めて脱力した次の瞬間。背後でタンッと地面を蹴って飛び上がる音がした。
「え゛」
私の顔の横から足が伸びてきて、目の前の不良の顔面に勢いよく靴底がめり込んでいく。メキッ、と不穏な音がして魂が抜けそうになった。人間の顔面から聞こえちゃいけないような音がしたんですけど、大丈夫ですか。私は不良の抗争とやらに巻き込まれてしまうのかもしれない。
「はぁっ、ま、間に合った…!」
「あ…」
「大丈夫?怪我してない?」
スローモーションに靡いた銀髪。振り返った垂れ目がちな瞳。唖然として声を出せずに固まっていると「大丈夫そうだな」と一人合点したようにその人は呟いた。派手な髪色で眉毛に剃り込みが入ってるから、この人も不良だ。でもこの人達の仲間ではないらしい。
座り込んだまま唖然としてる間に、突然現れた銀髪さんは不良二人をポコポコと(そんな可愛いもんじゃない)殴り倒してしまった。人が来る前に逃げよう、と私の手を引いたその人は、一つ、二つ目の角を曲がって私の手を離す。ハッとして視線を落とすと可愛らしい四つの目が私を心配そうに見上げていた。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「あ…うん、大丈夫」
「ルナ、マナを連れて先に家に帰ってくれるか?」
「あの、私大丈夫です!一人で帰れるので!」
「さっきの奴らの仲間がいるかもしれねぇし、送ってくから」
お兄ちゃんは強いから大丈夫だよ、と可愛らしい笑顔ではにかむ女の子に後押しされてコクリと小さく頷いた。たしかに、仲間がいたら怖い。
私を助けくれたこの人は三ツ谷さんと言うらしい。妹二人と買い物に行った帰りに不良に絡まれる私を見つけたとか何とか。三ツ谷さんが来てくれなかったら私はどうなっていたんだろう。考えただけで身の毛がよだつ。
家まで送り届けてくれた三ツ谷さんは「気をつけて」と一言残してすぐに踵を返そうとしたけれど、命を助けて貰ってそんな薄情なことはあるかと、私は咄嗟に口を開いていた。
「あのっ、連絡先教えてくれませんか?」
「え?」
「助けて頂いたので、今度お礼します」
「いいよ。アイツら大した事なかったし」
そういう問題なのか…?いや違う。
「ちゃんとお礼しないと私の気が済みません!」
必死の形相で叫んだら三ツ谷さんはぱちくりと目を丸めた後、静かに携帯を差し出してくれた。妹さんもまだ小さいのに二人で家に帰してしまったし…お礼する時、妹さんも連れてきて下さいね、そう告げると三ツ谷さんは優しく笑ってくれた。少し前の私なら不良に連絡先を聞く勇気なんて微塵もなかったのに。
♢
「ついてる」
お礼、何にしようかな。落ち着いてて歳上な感じだから、ファミレスとか安っぽいお店じゃ失礼だろうし。ぼんやりと校舎の二階を眺めながら焼きそばを啜っていると、不意に口の端をグイッと拭われる。ハッとして振り返ると千冬の指先がソースで汚れていたから、慌ててポケットからティッシュを取り出して拭い取った。
「ご、ごめん、汚いね」
「寝不足?すげぇボーッとしてるけど」
「そう、昨日の千冬の写真見返してたらもう深夜2時でさ、びっくりし」
「おい、撮るなって言ったよな」
鼻をぎゅっと摘まれてフギャとカエルが潰れたような汚い悲鳴が上がる。一口食べた焼きそばのトレーを千冬に返して赤らんだ鼻の先を摩った。
文化祭二日目は千冬といること。千冬は命令のつもりだろうけど、私にとってはただのご褒美。というか本望。願ったり叶ったり。友達と一緒に回らなくていいの、などと野暮なことは聞かない。千冬の真意がなんであれ私には得しかないのだから。
中庭のベンチに並んで座って、色んなクラスを回り買い漁った食べ物を貪り食っている。千冬に食べてもらいたいものばかり選んだけど「こんなに食いきれねぇ」って結局全部半分こ。綿菓子とかリンゴ飴とかソフトクリームとか。半分こならもっとご飯系も買えば良かった、と絶賛後悔中。ソースの辛さが身に染みる。
「ねぇ」
「なんだよ、お前が買いまくったんだからちゃんと半分食えよ」
「違うよ、そうじゃなくてさ」
「?」
「歳上の男の人をご飯に誘うならどういうお店がいいと思う?」
こういうのは同じ男の人に聞くのが一番だ、と安直な思考。顎に手を当てうーんと唸った。昨晩、千冬の写真を見てて夜更かしは本当だけど、三ツ谷さんにお礼するお店を悩んで眠れなかったのもある。連絡先聞いたからにはちゃんと早めに連絡しなきゃだし。
「安っぽい店は違うじゃん?でもお洒落すぎてもなんか違うし…丁度いいお店が分からないっていうか…なんかいいお店知らない?」
振り返ると焼きそばを啜る途中のままフリーズした千冬と目が合って、私も数秒静止する。すごい、瞳孔開いてる。
「千冬?」
「ひょっとまっへ」
「なんて?」
ズルルッとそばを吸い上げて頬に含みもぐもぐと咀嚼を繰り返す様子をじぃっと眺める。ハムスターみたいで可愛い、と言ったら怒りそうだから言わない。人に指摘しておきながら、千冬も口の端にソース付けてるし。これも可愛いから黙っておく。
千冬はペットボトルの蓋を開けてお茶でゴクゴクと咀嚼物を流し込んだ後、一つ大きく深呼吸をした。
「ちょっと待って」
「待ってたじゃん」
「歳上の男ってなに」
「そのままの意味だけど…難しいよねお店選びってさ」
「……駅前のファミレス」
「ええ…それはちょっと」
「安くて美味いが一番だろ」
「うーん、せっかくだからもうちょっと良いところにしたいよ」
何故かラーメンやら牛丼やらチープな店ばかり提案してくる千冬に眉根を寄せる。本気で言ってるのかな、これ。参考にならないと早々に話を切り上げて半分残ったチョコバナナに齧り付いた。
「まぁいいや、もうちょっと考える」
そわそわと落ち着きのない千冬の口に最後の一口を突っ込んでベンチから立ち上がった。そろそろ体育館で三年生の劇が始まる時間だ。トレーやら割り箸やらをポリ袋に雑に詰め込んで口を締める。身体が重い。絶対に食べ過ぎた。
「千冬は次どっか回りたいとこある?私、三年生の劇見に行きた…っ、え、ええ…?」
手の甲で口元を雑に拭った千冬は私の手首を掴んで何処かへ向かい歩み出す。まぁ私は千冬が行きたいところなら何処でも良いんだけど。それでも校舎の中へ戻って階段を登り辿り着いた先、屋上へ繋がる扉の鍵をこじ開ける後ろ姿を見て少し頭を悩ませる。さすがにこれは。
「先生に見つかったら怒られちゃうよ」
「バレねぇって」
ドアノブにかかったボロい板。"立入禁止"の四文字を一瞥して緊張が走る。まぁ、文化祭ぐらいハメ外したっていいか。普段は真面目な生徒(のつもり)だし、行事で少しやらかしたって厳重注意で済む、と思いたい。千冬は髪色とかピアスとか、風紀委員によく注意されているけれど。
「わ、めちゃくちゃ空綺麗!」
開け放った扉の向こう側に広がった青空を見上げて感嘆の声を漏らす。屋根も木も、遮るものが何も無いから日光が余す事なく降り注いで心地良い。校舎の下を見下ろしたくてフェンスまで駆け寄ろうとしたその時、猫の如く首根っこを掴まれて身体がグンッとつんのめる。
「お前はしゃぎ過ぎて落っこちそう。つかあんまり騒いだらバレるから静かにしろって」
「……………」
「なに?」
「きれー」
自然と喉から滑り落ちた言葉は秋の風に攫われて遠く遠くへ舞っていく。日光に照らされてきらきらと輝く金髪も、空色が反射して一段と濃くなった青色の瞳も、千冬の全てが美しく鮮烈に目に映る。私の推しは世界一格好良くて可愛くて、あととても美しい。色白なのに太陽がよく似合う。
「千冬」
寒そうな名前なのに暖かい場所がよく似合う。ギャップがあるのは見た目や性格だけじゃない。存在そのものが神聖で、
「生まれて来てくれてありがとう」
こんな素敵な人を作ってくれた神様に心から感謝。制服のジャケットから素早く携帯を取り出して、カメラを立ち上げレンズ越しに千冬と視線を絡めた。いきなり訳の分からない事を言われて怪訝そうな顔をしているのは頂けない。せっかくなら笑顔がいいんだけど。
「ねぇ、一緒に撮ろうよ。待ち受け更新したい」
もちろん千冬はいつでも眩しいけれど、綺麗な景色も相まって今日のコンディションは最高だ。待ち受け?何の話だと小首を傾げた千冬に向かって、携帯の画面を掲げて見せる。半年前に撮ったツーショット。
「…は、お前これずっと待ち受けにしてんの?」
「可愛いでしょ、千冬が」
へらりと笑うと、千冬は半目になってじっとりと咎めるような視線を私に刺す。何か悪い事でもしただろうか。ハッとして慌てて弁明の言葉を口にした。
「大丈夫!友達に見られてもそういうのじゃないってちゃんと言ってるし!千冬を独り占めしようなんて思ってないよ」
じゃなきゃ皆の前にあんな可愛い女装姿を晒さないし、千冬のファンが増えてくれたら嬉しいなって。推しの素晴らしさを布教したかっただけで。いや、それは少し嘘。ただ女装させてみたいと強欲な私が顔を覗かせただけ。許して欲しい。
さぁさぁ写真撮ろうと横に並んで内カメに切り替えたところで、私の手から携帯が消える。
「あれ」
「独り占めしてくれてもいいけど」
聞こえた言葉に息を呑んで、恐る恐る声がした方へ視線を送る。思いの外近い距離で視線が交わって、目を見開いたまま硬直した。
「あ…」
「したいならすれば?」
「そ、そんなの、おこがましい…と言いますか」
「いいよ」
先程まで空のように澄んでいた瞳の奥には、今、仄かに熱が揺れていて。思い出したのは、少女漫画さながらに事故チューをかましてしまった文化祭前のあの日のこと。これ、駄目なやつだ、と瞬時に理解して首をぐりんと180度捻る。触れそうな鼻先から逃げ出した。
「やっぱりここ入っちゃダメだよ。戻ろ」
都合が良い。初めて遊んだ時は休日に松野くんを独り占めだって浮かれていたくせに。
「お前に拒否権ねぇって言ったじゃん」
「それはお願いの話でしょ」
「うん、だから今からお願い」
「今、ですか」
嫌な予感しかしない、と思いながらも千冬の言う通り私に拒否権はない。固唾を飲んで身構えたのに「今度の休み遊びに行こうぜ」と聞こえた声に拍子抜け。なにそれ、なにそれ!やっぱりただのご褒美じゃないですか!目を輝かせ尻尾を振って見上げると、千冬は「あとそれから、」と言葉を続けた。え?お願い2個?ひとつって言ってたよね。
「ここ座って」
「え?」
屋上の片隅、程よく陽を遮る貯水タンクの裏に移動して千冬は一言そう告げた。正座で、と。
「何の修行…?」
コンクリートの上に正座とは。一体何の戒めだろうか。いや私は戒めるべき部分が大いにあると自覚しているけれど。困惑して狼狽えていると千冬はフッと吹き出して小さく肩を震わせた。
「わり、正座はうそ」
先に壁にもたれ掛かるように片膝を立てて座り込んだ千冬はポンポンと隣を掌で叩く。素直に隣に腰を下ろして三角座りで膝を抱え込んだ。あ、ここ、丁度足下にだけ陽が当たるからポカポカして気持ちいいかも。
座ってなにするの、と尋ねようと口を開きかけた時、コツンと肩に重みを感じて目を瞬く。寄りかかって来た丸い頭が誰のものか、なんて。ここには私達以外に誰もいないから、答えは分かりきっている。
「………あ、の」
「昼寝、付き合って」
腹いっぱいでねみぃ、といつもより少し高めの鼻にかかった声がする。まるで、甘えてるみたいな。
「寝るの…?」
「1時間経ったら起こして」
「長いよ、お尻痛くなっちゃう」
「お前なら耐えれる」
「千冬、」
近いよ。もたれかかってくる身体は制服ごしでも分かるほどに熱くて、肩口で揺れるブロンドは風に舞う度に甘い香りを漂わせる。シャンプーの香りなのか千冬の匂いなのかはよく分からない。女装の代償が昼寝に付き合えなんて可愛すぎるでしょ…!と冷静に滾るどころではなくて。いや、冷静に滾るって何だ。
それより距離が、近くて。心臓が口からまろびでそう。
「お前の心臓、すげぇバクバクしてる」
そんなこと、一々言わなくて良いのに。
「寝顔、盗撮したら怒る…?」
「別に」
「寝てる時に髪の毛一本抜いていい?」
「それはキレる」
「千冬が寝たら暇だから、私も寝ちゃっていい?」
「寝顔盗撮されてもいいなら」
「ヤダよ、そんなの撮ったら千冬の携帯が穢れちゃう」
軽口を叩き合っていないと胸のむず痒さに耐えきれない。こつん、と千冬の足に触れた指先を丸めて引っ込める。折り畳んだ膝に額を押し当てて固く目を閉じた。
何を考えているのか分からないところが松野くんの魅力的なところ。でもこれは本当に訳がわからない。だって自分からくっついて来たくせに、私の心臓の音を掻き消すぐらい千冬の方がバクバクしてる。
「千夏、寝た?」
寝たフリ行使で現実逃避。無言を貫いていると遠慮がちに伸びてきた手が私の頭に乗せられる。優しく髪をかき混ぜられて、膝を抱える手に一層力を込めた。これがお願いじゃなかったなら、私はその手を振り払って屋上から一目散に逃げ出してたんだけど。
千冬は人肌恋しいだけなんだ。文化祭を一緒に回る男女なんてカップルばっかりだし。俺も彼女欲しいなぁとか、そんなことを思ってたり思わなかったり。へばりついてくる丁度いい女が近くにいるから、疑似彼女的なそれ。ただきっと、それだけのこと。
♢
『三ツ谷さん、こんばんは。今度の日曜日空いてませんか?』
『こんばんは。仕事休みだよ。妹二人も友達と遊ぶ予定はないって』
『じゃあ、ここのお店に12時集合でお願いします!』
『了解』
帰って来たメッセージを確認して携帯をベッドに放り投げたところで、トュルルと少し長めの着信音。覗き込んで発信者を確認した後、真新しい下着を引っ掴んで部屋を後にした。お風呂入ってましたって後から返事するので許して下さい。今千冬の声を聞くとおかしな気分になるんです。
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