夕霧はヒーローにはなりたくなかった。でも、ヒーローになればあの時見えなかった少し先のことが見えるかもしれないと思った。
あの人の見てるものが見えるかもしれないと思った。進路のことを考えると、必然に養父である赤格子時雨に連絡を取らなくてはいけなかった。あんなことがあっても、待っていた連絡。
その答えがこれだった。
「弱い人間は要らないってこと早く理解しないとダメだよ」
「……いら、なぃ…」
「そう。この世界は弱いものには優しくないだろ?」
『弱い方が淘汰される、』知っている。
あの人の言葉だもの。あの人の心だもの。一語一句だって覚えている。忘れられない言葉だもの。
不意に伸ばされた腕。
あ、。無意識に頭を抱え守るような姿勢とる。それが気に食わなかったのだろう。お父さんは腕を掴んで、片手で持ち上げた。水面から足が浮く。全身から滴り落ちるお湯、その水音に私は何も感じていなかった。
お父さんは笑う。テレビの向こう側のあの笑顔で。
「受験は好きにしていいよ。受かるかどうかは君次第だから」
強くなりなよ、夕霧。ぶんっ、と一振り。支えを失った私の身体は濡れたタイルの上に叩き付けられる。受け身を取れなかった。私は壊れた人形のようにその場から動けなくなった。
去っていく背中、遠退いていく気配にやっと呼吸が出来る。ああ、生きているんだと思った。
痛む身体を引きずり、脱衣場へ向かう。ずるずる、ずるずる、地面を這う芋虫のような無様な姿だ。
「……っ、…誰が…命の価値を決めていいのでしょうか…」
「大丈夫、助かって良かったですね」
「命を救う条件は、命が救われる条件は」
「必ず、助けるから」
「犬には悪いけど、人命が優先」
「君に何かあったら親御さんが悲しむだろ」
「ヒーローでもないのに、」
空っぽの言葉。
空っぽの心。
欠片のような感情。ほんの少しだけ心を傾け、ただ読み取ろうとする行為。思い出す言の葉の数々。どんな思いだったのだろう、あの人達はどんな思いであの言葉を口にしていたのだろう。
ヒーローとは何でしょうか。
ヒーローとは何でしょうか。
ヒーローとは何でしょうか。
「 ■■■■ 」
この世界はこの言葉で溢れている。でも、私はその言葉の意味を知らない。
身体を起そうと棚に手をついた。その時、綺麗に畳んでしまっておいたタオルを掴んでしまう。力の行き先を失った身体はバランスを崩した。
ふわりと宙を舞ったバスタオル、真っ白で柔らかい匂い、視界を白く染めた。意識は弾けて、飛びはしなかった。
真っ白、何も見えない。私はまた地面に倒れて動けなくなってしまう。不意にこの光景をどこかで見た気がした。
事後を思わせる匂い、皺だらけのシーツ、掛布団の隙間から見た傷だらけの男の人の手。
顔に被ったタオルはあの人との一時を思い起こすのに十分だった。
動く気にもなれず、そのままごろり…と横になった。
頭に触れれば思い出せる、あの無骨な暖かい手を。重ねるように、あの時の手を思い出すように自分の頭に触れた。
乱暴ではない。まるで壊れ物にでも触れるかのように優しかった。
遊ぶように、楽しむように、髪の毛に指を絡め、時々耳に指が掠める。擽ったい。貴方は笑う、どうして笑っているのか分からなかった。でも、いつも静かに燃える眼が優しかった気がした。
「 違う 」
そんなの幻想だと分かっていても、縋ってしまう。
貴方は私をなんとも思ってない。ただ、自分の信念を理解しようとする者を好ましいと思っているだけだ。
私のこの思いは私だけのもの。一方通行の一方的な思いだ。―――――――それでもいいよ。
手、温かかったよ……。
「大丈夫、私は…大丈夫だよ」