いきたくない、でもいかないといけない。
名残惜しい気持ちはあった。今にも壊れそうな錆び付いた鉄製の階段を駆け下りる。カンカンッ、タンッ。早足で駆け下りて、そして振り返る。玄関の外にはまだステインさんが居た。赤い瞳がまだこちらを見ている。
ああ、ちゃんと見ていてくれている…。見つめ合う、なんてロマンティックなことはない。でも、目が合うことに心臓が少しずつ早くなっていくのを感じている。
「 ステインさん、また来てもいいですか? 」
なんて言葉は言えなかった。本当は言いたかった、でも、貴方は別れ際に沢山私に触れてくれた。そして、最後には決まって頭を撫でてくれる。たまらなく嬉しかった。その手の温度も、力の加減も、皮膚の硬さも、ほんのり石鹸の香りがした手が好き。だから、言いいません。大丈夫。貴方のおかげでまた、頑張って生きていけるから。
きっとこの先も、その言葉を口にすることはないのだろうと思った。
「立て、夕霧」
見上げた先にはテレビで何度も見ていた顔があった。三日に一度聞いていた声に温かさはなく、冷え切った声音は有無を言わせない威圧感があった。広い和室に佇む男と頬を押さえる夕霧。
家に戻るといつもと違う空気に息を呑んだ。玄関を開ければ、一人の男が私のことを笑顔で出迎えた。
「ただいま、戻りました」
男は目を細め「おかえり」の一言も言わずに、付いてこいと言わんばかりに背を向けて歩き出した。
「もう一度言う、立て」
男はスッと目を細め、立ち上がった夕霧の顔を拳で殴り、蹲ったところを鋭い一撃が腹部にめり込んだ。
「オ"エ"ッッ」びちゃびちゃびちゃ、床を汚す多量の汚物。酸っぱい液と喉が焼けつくような痛みに呼吸が出来なくなる。痙攣した身体がピクピクと跳ね続け、強烈な痛みに耐性のない夕霧は動けなくなった。
声も上げられず、助けてくれる人もいない。
髪の毛を掴まれ、物でも扱うように引き摺り回される。痛みで顔を歪める。こちらを向く様子はない。止める気配はない。止めて、嫌だ。なんて言葉は言っても通用しないのは二年前から理解していた。和室の近くにあるお風呂場。檜の広いお風呂にはたっぷりのお湯が張ってあり湯気が立ち込める。このお風呂が好き。だけど、この時は嫌いだった。
髪の毛を一層強く掴まれ、そして勢いよく投げ込まれる。まるでゴミ収集車にゴミを投げ入れる作業員のような行為だと思った。身体が浮いて、数秒後に背中からの着水する。お湯が入っていたのが不幸なのか幸いなのかは分からない。ごぽごぼごぽっ。肺の中の酸素が逃げていく、必死にもがき水面に這い上がれば、その人はまた見下ろしていた。
「夕霧、ヒーローは弱かったら務まらないんだよ。今の君じゃそこら辺の敵にさえ勝てはない」
それがどういう意味が分かるかな?
まるで小学生にでも問い掛けるような言い方だ。口を閉ざし、言葉は返さない私にお父さんは、頭を鷲掴み、湯船の中に思い切り沈められた。強い力だった。簡単には抜け出せず、水中で意識を失う一歩手前でやっと手を離される。
「君から連絡があった時は驚いたよ。けど、連絡が遅くなってごめんね」
「ごぼっ、げほっ…ゲホッ……!ッッ!はっ……はぁっ!」
「でも、ヒーローなんてやめときなよ。良いことなんて1つもないよ」
「………ッッそ、れ……でも、……わだ、しは…ひぃ、………ろ………ぉに…」
「弱いヒーローなんて誰も望んでないんだよ」