「お前のすべきことではない、」
乾いた音が路地裏に消えた。振り下ろされることのなかったナイフを掴んだ音。夕霧の両手首を片手で掴み、刃毀れした刀で止めを刺したステインはそっと手を離した。
眼下にいるヒーローの貫通した頭部から溢れ出す夥しい量の血液が地面を濡らした。まるで、命の砂時計のようだ。身体の外へ血が流れている瞬間というのは。さらさら、さらさら、嗚呼もう少し。もう少しでこの人は本当に死んでしまう。
薄暗い光を宿した夕霧の眼は最期の瞬間を見届ける為に、瞬くことを忘れる。
ステインはそれを見詰めた。命は消え果て、夕霧はナイフをしまい、ヒーローに手を合わせた。
夕霧はステインの行為の果てに命が消える時、決まって手を合わせる。
それは彼女が現場にいても、いなくても、ステインの脳裏に蘇る記憶でいつも手を合わせている。
ステインは問う。何を思い、何を考えているか見えない子供の背中に問う。
彼女はきゅっ、と結んだ唇を開いた。ふっくらと、血色のいい唇がとても柔らかそうだと思った。
「こういう風に命を繋ぐ方法もあるのだな、と…思いました」
夕霧の夜明けのような静けさを宿した眼には、軽蔑も、恐怖も、狂気も、恍惚も、崇拝も、何もなかった。
この子供は他者とは違う目を持っていると確信したのは随分前のことだ。いつから気付いた?そんなもの、この子供を傍に置いた時から理解していた。この子供は、真理を見ることの出来る眼を持っている。
偏見も、差別も、力も、何も持たない子供はただ、無垢で無知な子供だった。
だからだろう、他者とは違う価値観により物事を見詰めるのは。
「ステインさんのしている事の意味。この人の命は消えたけど、確かにこの街に。この社会の人間に繋がれていくのだと、…思いました」
「そうか」
俺の行為の理解。それに伴う社会の変化を見届ける眼は少しずつ、確実に成長していた。
閉じられた瞳の奥で巡らせる思考、全ての答えを知るにはまだ時間が足りず、言葉が足りない。
真意を推し量るには、まだ早い。故に、刃をここで濡らす必要はない。
その手で血を掬う必要はない。その血に染まっていない手を汚す必要はない。
「行くぞ」
「はい」
不意にいつも髪を結んでいるリボンの色と形が違うことに気付く。あの時は、腰までしかなかった黒髪が、今では膝の裏まで伸びている。夜風に靡く髪が軽やかに揺れた。
「ステインさん、私高校生になりました」
季節は春。長い長い冬は終わりを告げ、地面を染めた白く砂利で汚れた雪は解けた。いつものように部屋を訪れた夕霧は、いつもとは違う装いをしていた。土に埋まった種が光を浴び、目を覚ます季節。夕霧の身を包む制服が灰色のブレザーになっていた。自身の敬愛する英雄が卒業した学校の、制服を嬉しそうに身に纏う夕霧。
「そうか」
「はいっ」
花の咲くような笑顔に眩しさを覚えた。
無垢な心が、無知な心が、夕霧の中にある種が、芽吹く日は近いかもしれない。
光を浴び、水を与え、葉を荒らす虫を追い払う。いつしか、咲いた花は他の花と出逢い、実を結び枯れていく。新たな未来を宿して、この世を去っていく。それは、自分以外の誰かがそれをする日が来るということを意味している。
回りくどいことをいっているのは分かっている。赤格子夕霧は光を浴びて生きる人間だ。光の中にいるべき人間で、自身が求める英雄の象徴になるかもしれない存在。まだ、誰にも汚されていない子供。俺が拾い上げ、世界を見せ、教え、気付かせ、考えさせ、与え、守ってきた存在。今、新たな門出に立ち、先へ進みだそうとしている。
その未来を潰すことは、殺すことは赦されない。
それが誰であれ、何であれ。
「 それでいいのか、ヒーロー殺しステイン 」
暗闇から問い掛けるそれに顔はない。闇から生まれたそれは人の形をしていた、黒いマジックで塗り潰された顔面の男を睨み、小さく溜め息を吐く。こいつが語り掛けてくる時はいつだって碌なことがないと分かっていた。
「希望を持たせるな、無理だといってやれ、早く答えを教えてやれ」
「それでは意味がない。自ら問い掛ける。何度も何度も問い、思考を止めることなく、答えを導きだす。自身に至らぬ点を考えさせる。自身に必要なものを考えさせる。自身の足りぬものを見詰めさせる。そして、■■■■■は英雄へと昇華する。聡明な子供だ、覚悟と力さえあればあれは英雄に成り得る可能性がある存在だ」
「■■はそんなこと望んではいない。それが間違った道に走ることは考えないのか」
背負った刀に手を掛け、抜くことに疑問はなかった。
「悪しき道に進むというなら、闇の中で花開こうとするなら、俺がその道を閉ざし、その芽を摘む。それだけのこと」
全ては正しき社会の為に。
目先の感情に捉われ私欲を満たそうなど、許されることではない。
俺は男の首を躊躇いなく刎ねた。この私欲に塗れたこの男を俺は許せない。都合のいい事ばかり口走る男が許せない。ヒーロー殺しステインはこのヒーロー飽和社会の影。実体無き存在。信念なく偽物が蔓延るこの世界を正すべき存在。そこに私欲はない。ただ、求めるのは世界が本来あるべき姿であること。
男は闇に溶けるように音もなく消えていく、そこには血溜まりも躯も残らない。
いつもはそこで夢は醒める。しかし、今回は違った。自分の足元にいる躯は、先程まで灰色の制服を身に纏い笑顔を見せていた子供。
赤格子夕霧は赤い花の中で咲いていた。
「ステインさん」
肩に触れられた瞬間、意識を取り戻す。
「ステインさん、大丈夫ですか?」
「……、…あぁ…」
今にも泣き出しそうな顔の夕霧はじっとこちらを見詰めていた。
夕霧の瞳が鮮やかに俺を映している、ヒーロー殺しステインともあろう男がなんと情けない顔だと思い、その視線を逸らすようにその頭を自身の肩に押し付けた。
「ステインさん、ステインさん…」
「なんだ」
「ステインさん……、ステインさん、ステインさん、…ステインさん、ヒーロー殺しステイン、さん…」
「だから、なんだと聞いてるだろ」
何度も、何度もしつこいくらいに今の俺を呼ぶ。呼び続ける。意味もなく、理由もなく、その柔らかな唇から俺を呼ぶ。こちらがもう良いというまで何度も何度も、呼び続けた。飽き足りるくらい何度も呼ぶせいで、その分だけ俺は返事を返さないといけない。面倒だ。
この三年で分かったことがある。本来は口数の少ない人間である俺達は意味もなく、こういう無駄な行為をしない。だが、たまにこういう意味のない行為を夕霧はする。理解に苦しむ。しかし、お前がすることに何か意味があるのだろうと思えば、悪い気はしなかった。