空を見上げた。両手を空に伸ばした。昼の空は正午の青に比べて少しだけ穏やかで優しい色をしていた。
目の前に置かれたグランドピアノ。椅子はなく、その身を硬く閉じたそれは己がこの生涯を共に歩むべき存在を今か今かと待っているようだ。汚れも埃も、指紋一つない純黒のピアノ。

鍵盤蓋を開くと新緑の薫りが一瞬だが、鼻の奥を擽る。木漏れ日が降り注ぐ静かな森の匂いがした。

おはよう、昨日はよく眠れたか。
心の中でピアノに聞く。その問いは自ら聞けというように光を宿した気がした。


誰にも触れられたことのない白い鍵に静かに指を置く。

トーン、単調な音を出す。
トーン、もう一度。

トーン、トーン、トーン、……トーン。繰り返す問いは、すぐに応えてはくれなかった。

だが、そうだな。



「今日は機嫌が良いみたいだ」

指先が勢いよく鍵盤の上を蹴った。
脳内に広がる白紙の譜面、音符のない譜面、俺を指示する人間は誰もいない。俺を縛るものは何一つもない。

音楽家、深海初春の生まれは青と緑に囲まれた場所で生まれた。静かな場所だった、穏やかな場所だった。それも全て過去のことだった。

今はピアノがあればいい、この音を引き継ぐものがいればいい。この音に何かを見出し、慈しむことが出来れば、伝えられることが出来ればそれでいい。

そして、それを伝える相手として一人の娘を選んだ。赤格子夕霧。世間では俺の弟子と呼ばれる娘。




走れ、踊れ、回れ、繰り返せ、飛べ、雨上がりに遊びに行こうとする子供のように、水溜りを見て飛び跳ねる少女のように、傘を開いてその柄を見せつけるように踊れ、バランスを崩して転んでしまえ、大声で泣け、そうすれば駆けつけたお前を見つけた誰かが手を差し出す。お気に入りの傘が転がっていったな、お気に入りのレインコートが台無しになったな。水浸しになっても、汚れていても、その手を引いてくれるのはいつだってそいつなんだろ。

涙で濡れた顔を上げろ、伸ばされた腕はその身体を抱き上げた。そいつの腕の中はどんな感じだ。暖かいか、温かいんだな。そいつは怒っているか、こんなことをしてとお前を叱りつけるか。顔を上げてみろ。違うだろ。お前の頭を撫でて、笑っているだろ。

そいつはなんていうか考えてみろ。想像してみろ。怖くはない、怖くはない、顔をあげてみろ、そいつはお前のことをーーーーーーー。





「先生」


目を開ければ、何もない部屋で一人、床に転がり天井に向かって手を伸ばしていた。目の前にあったピアノはなくて、新緑の匂い消え、雨の匂いもどこかへいってしまう。嗚呼、最低最悪な気分だ。

室内に入ってきたスーツを着たガキは手に携帯を持って、こちらへ近づく。片膝を折り、俺を見下ろした。その双眸に見上げた木漏れ日の緑を見た。俺がこのガキを傍におく理由はそれだけ、瞳の色が綺麗だったから。


「先生お電話です」
「切れ。お前のせいで気分は最悪だ、」
「八木俊典と名乗る方からですが」
「尚更切れ、そいつのせいで更に気分が悪くなった」

犬でも払うように手を動かせば、スピーカーだった為、室内に相手の声が広がった。

「深海君、丸聞こえなの分かってる?」
「聞こえるように言ってやってるんだ。優しいだろ。しかし、業務妨害だ。お前相手に訴訟起こしてやろうか」
「ごめん!今は止めて、そういうこと得意なスタッフがいないんだから!!」
「優秀なサイドキックに逃げられた男が情けないことを言うな。自業自得って言葉を理解しろ」

鼻で笑ってやれば、反論できないのだろう。向こう側で何も言えずに悔しがる奴の顔が目に浮ぶ。良い気味だ。

「用件だけ聞く。お前のせいで仕事が捗らなくなった」
「ごめんね。…どうしても聞きたいことがあって、」


身体を起し、電話を受け取った。
画面をタッチし、スピーカーから電話口での通話状態にする。


「深海君は赤格子少女に私のことは何か話したのかなって」
「なんのことだ」
「…今日彼女と少し話したんだ、私の怪我のことを知っているようなことを言われたから」


けど、そんなわけないよね!変なこと聞いてごめんね!と、すぐに謝罪の言葉が飛び出した。
電話口での数秒の無言にこちらがどんな表情をし、どれだけ気分を悪くしたのか察したのだろう。俺がどういう人間かというのをよく理解しての行動だった。

無言は返答する意志がない事を示す。


「じゃ、もう一つ!!」


彼女が言っていたんだ。他人には見えないものが見えるって。君は何か聞いてるかなって思って。今日はやけに面倒な質問ばかりをしてくる。





溜め息は返答の印。数秒の無言の後、言葉を紡ぐために目を閉じた。
八木俊典はこちらの言葉を待つ様に口を閉じる。

「他人には見えないものが見えるっていうのは誰にも理解出来ない世界の話だ。他人の心の声が聞こえる。他人の記憶を読むことができる。それは良いことばかりではない」
「…そうだね、」
「他人には理解出来ない、他人には理解しようがない。自分で解決することの出来ない孤独を抱えてるんだ。

お前のサイドキックだって同じ、お前には理解できない世界を見ていた。未来を見るということはそれだけで苦痛だ。いつだって望んでいる未来は見えない。誰もが羨ましがる綺麗な未来等ない。望まないものに手を伸ばし、届かない叫びを、届かない願いを、手の届かない場所から嘆くしかない。それは苦痛だよ、八木俊典。

拷問に等しいよ。いや、拷問のほうが優しいかな。自分を傷付けられるだけで済むならいくらだって自分の身体を差し出そう。だが、自分の身体が壊されるよりも、汚れてしまうよりもずっと、――――――――ずっと自分の存在を否定したくなるんだ。自分の存在する意味を否定したくなるんだ。」



お前には理解できないだろう、八木俊典。
救いを求めるもの全てに手を差し出し、全てを救い出そうとする平和の象徴であるお前には絶対に無理だ、オールマイト。

お前を救おうとする人間の手を振り払う傲慢なお前ではな。




「もしかしたら、夕霧も同じ領域に達してるのかもしれない」
「…彼女の個性は姿を消すだけだろ?それと相手の不調とか、歪みとかが見えるとは言ってたけど」
「他人には理解できない領域の話をしたって時間の無駄だ。本人の視点と他人の視点、理解し合うことなんて出来るわけないだろ。次、夕霧に要らぬことをさせたら殺す」
「電話の相手が間違ってたら、脅迫罪だよ。相変わらず口が悪いんだから」
「殺しても死なないやつが言えることか」

臓物引き摺って病院運ばれたって聞いたときは、本気で引いたの忘れたのか。
ははっ、そうだね。ありがとう、邪魔をしてごめんね。

電話を切り携帯を床に投げた。本当に煩わしい男だ。







部屋の窓を開けた。
湿った冷たい風が頬を撫でる。


「知るかよ、俺の方が聞きたいくらいだ」

赤格子夕霧の眼の孤独な目を俺は知っている。その孤独を救えるのお前じゃない。あの孤独を救えるのはお前の狂気に当てられた英雄擬きではない。お前は赤格子夕霧を救えない。ヒーローに赤格子夕霧は救えない。

俺にも赤格子夕霧の孤独を埋めることはできない、与えた音楽はお前の生きる道筋となればいいと思っていた。

しかし、お前の音色はどこまでも透明な水面のようなものだった。演奏者の顔が見えない感情のない音楽。機械から流してるよう完璧な音楽。


透明人間は愛を歌う曲を奏でる。その指で、その体で。

だが、お前の音楽はいつしか変わったな、変質したとも言ってもいい。変異を遂げたとも言ってもいい。

その指先から奏でられる音楽は、透明人間の演奏は…俺に言わせてみれば








「なんて、醜いラブソングなんだ」

理由は分からない。赤格子夕霧が人に恋なんてものが出来るとは思えない。
人間の感情に突き刺され、人間の感情に飲み込まれ、人間の感情に殺され続け、人前で涙さえも流せなくなったあの娘が人間を信用出来るものか。

あいつは誰も信用していない。
あいつは誰も信用出来ない。

人間を愛することなんて出来ない。
自分を愛することなんて出来ない。


だがら、自ら孤独に立たせその身に宿す感情を音楽に乗せる。誰かに愛される為に弓を弾く。誰かに愛されているんだと信じるように、叫ぶ為に指を動かす。

その愛は孤独であり、自分だけのものだというように夜の海に佇む。黒い海を見詰め、波に打たれながら底へ進もうとする。

その先には何もない。暗くて深い闇しかないことに気付け。
一体いつからだ、いつからそうなっていたんだ。





赤格子夕霧はいつだって白い棺に花を添えられ、眠るときを待っている。自身の体が焼かれ、灰となり空へ飛び立てることをいつだって望んでいた。

あの体に詰まったものは鮮やかな臓物ではない。あの体に詰まったのは、あの身を動かすものは自分の血ではない。自分は生きなければならない、生かされてしまった、その為に生きるという行為を脅迫されるようにも思えた。

あの体に詰まっているものは、ひたすら孤独であろうとする狂気だ。誰も触れるな、誰も近寄るな、誰も私の邪魔をするな、誰も私を探るな、誰も私を救おうとするな、誰も私を求めようとするな。

お前は悲しい狂気を宿しながらも、触れることさえ許さない透明人間なのだろ。

お前はいつからそんな娘になったんだろうなぁ。



「夕霧は変わったか」
「いいえ、お嬢さんは何一つ変わってません」

私と出逢った時から何一つあの方は変わってません。真面目な顔で、そいつは言った。




「ただ、最近楽しそうだなと思う時があります」
前よりもほんのすこしだけ、笑う数が多くなったと思います。



「……そうか、」


先ほど頭の出来た曲のタイトルが決まった。
途切れた譜面の続きが、再び降り注ぐように音が降ってきた。続きが書けそうな気がした。



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