「肉じゃがはお嫌いですか」
透明な小さなタッパに詰め込まれた肉じゃがを一口差し出した。
その人はほんの少しの沈黙の後、箸の先に挟まれた柔らかく鮮やかな人参見詰め、薄く口を開いた。
私はそれを見ていた。
心の中では酷く驚いていたが表情がそのまま出ることはなく、代わり咀嚼された食物が喉の奥にいくまで瞬きもせずに見ていた。
混乱とは違い、心を重くさせる感情。初めて感じたこの胸に広がる名前のない感情。
早く目を逸らし、この感情から解放されたい。
「…うまい、」
たった一言で私の心を重くさせていたものは吹き飛んだ。ステインさんの漏らした言葉で、私の心は言葉に出来ない感情に包まれる。
自然に溢れた心は表に出て、私の頬を緩ませた。心の中がホットミルクを飲んだ時のように甘くて優しい温度で満たされる。
嬉しい。どうしようもなく、嬉しくて、私の頬は綻んでいた。
私はその時初めて、誰かに自分の料理を食べてもらうことの喜びを知った。
それが喜びであることを私は初めて知ったのだ。
誰かの為に食事を作る意味を知った。食事とは誰かの口に入り、その消えた命を生きる者に託すことである。料理とは生きる意味を示すものである。
1人きりの食事は慣れていた。
でも、自分の作った料理を誰かに食べてもらうことはなかった。
お父さんにも、先生にも、友達にも食べてもらったことはない。味気のない食物はレシピ通りに作ったとしても美味しいと思えたことはなく、ただの作業となっていた。
音を立てて食べてはいけないよ。
食べ物を捨ててはいけないよ。
食べ物を粗末にしてはいけないよ。
ご飯はきちんと食べないといけないよ。
誰かに教わったかすら覚えてない当たり前のことを私は今も忠実に守り続けている。
「食事とは、命を分け合う行為だ」
「だから、決して蔑ろにしてはいけないよ」
忘れないで、夕霧。
「 20××/××/×× 」
コトコト、片手鍋で似ていた野菜が音を立てて煮えていることに気付く。顔を上げ、周囲を見渡せば自分の現在地を理解することが出来た。
ここは自宅ではなく、ステインさんが住処としている場所。人の気配を失い、長い時間を掛けて己の崩壊する時を待つ場所。誰も足を踏み入れることはしない場所に私はいる。
綺麗に掃除された簡易台所。シンクは磨いたように白い輝きを放ち、水道を捻れば無色透明な飲み水としても問題ない水が出る。
狭い長方形に切り取られた空は青と紫と淡いピンクと薄い橙色の複雑な色のグラデーションに染められていた。
時間にすると五分にも満たない僅かな時、眠っていた。いや、意識がなかったというべきなのだろうか。
雄英体育祭を前日に控えた私はざわめく心を落ち着ける為にここに来た。
コンロの火を止め、味が染み込むまで放置する。他に出来ることはないかな、掃除はした。料理もした。
することがなくなった私は部屋の隅に腰を下ろす。目を閉じて、深呼吸。繰り返しては心を落ち着けようとした。――――――心が可笑しい。
ここに来る前に緑谷さんと少し話をした。ヒーローについて少しだけ、話をした。それだけの事なのに私の心が可笑しなことになっている。
何故、どうして。自問にて、答えを導く。答えは単純明快、至ってシンプル。白か黒か。その程度のこと。
言葉にしてみれば、私の中にすとん…と落ちてしまう。
「 ヒーローの素質、自身の心に宿る英雄としての素質、ステインさんの求める英雄の胤を宿した人間 」
なるほど、彼の求めていた英雄とは緑谷君のような存在のことを言うのか。
可笑しな夢を見るのも、心がざわめくのも、きっとわかってしまったから。ステインさんが求めているのは、こんな不出来で未熟で不完全な種ではない。英雄の姿を真に追い求めた胤の存在だった。涙は出なかった。心のどこかで分かっていたことだから、曖昧な部分が明確になっただけ。
ただ、それだけなんだ。
ガシャンッ、硝子が割れる音にして低く、砕けるにしては地面に落ちたときの音が少ない。
浴室からしたということはステインさんに何かあったのだろう。気付いた時には身体は自然と動いていた。
「ステインさんっ」
脱衣所に飛び込み、浴室の扉を開く。絶え間なく流れ、地面を打つ水音。湯気で滲んだ輪郭と血の匂いが鼻を掠めた。
静かに流れ落ちる命の欠片。視線を下に向ければ、手の甲から指先に赤い雫が落ちている。
背後には一点から放射線状に罅割れた鏡、静かに欠片が落ちる音がして、底無しの憎悪を感じさせた。
虚ろな瞳の彼の瞳には何も映っていなかった。
「何か、見えましたか」
「…何も」
「では、手当をしましょう」
「必要ない」
私の提案に尽く断るステインさん、私はそれを無視した。
傷だらけの身体、鍛え抜かれた四肢の割には胴体は異様に細く、無駄な脂肪は見当たらない。筋肉はあるのに、無駄なものを削ぎ落とした体は人間のものとは思えなかった。
アンバランスな身体は成すべきものの為に。成すべきものの為の道具にしか過ぎない。貴方はそうやって生きてきた。この先もそうやって生きていく。誰の声も届かずに、誰の言葉も響かずに、己の信念の為に生き続ける。
洗い立ての真っ白なバスタオルで傷だらけの身体を包んだ。何も言わずされるがままのステインさん。
構わずに手の甲にもう一枚のタオルを巻く。綺麗な赤色が吸い込まれていく。早く手当しないと。
手を引く。タオル以外身に纏ってないステインさんの後には透明な滴がついてくる。
「何を考えていたんですか」
「この世界が過ちを忘れること、」
振り返った。相変わらず、何も映っていない。それでも私は…。
「忘れませんよ、」
「何故言い切れる」
「言えます」
だって、―――――「私がいます」
自分でも驚くほどあっさりと、言葉に出来たものだ。
ご飯、食べましょう。今日は肉じゃがです。反応するように顔を上げた。その前に傷を見せてください。
薬を塗ってガーゼを乗せ、固定の為に包帯をする。早く治るようにと願いを込めて、包帯の上から額を押し当てる。
どうかこの人の歩く道が閉ざされないようにと願いながら、手を離した。
そろそろ服を着てもらわないと目のやり場にも困ってしまうので、服を渡して私は冷めて味の染み込んだ肉じゃがを温め直しに行く。
正直に言うと何度見たってあの体を直視することが出来なかった。醜いとか、そんなのではない。どうしてかは分からないけど、直視できなくって触れることが怖くて、それでも触れれば柔らかい肌とは違う。男の人、を感じた。心臓の音が煩い。
ご飯を食べた。一緒に小さな机に甘い香りの湯気が立つ肉じゃがと別の部屋で見つけた土鍋で炊いた白米。茶碗もお箸も味噌汁のお椀も全て、拾ってきたもの。それでも十分だった。一人で食べるご飯よりもずっと意味があって美味しくて、命を分け合っていると感じられる。
何も要らない。
貴方とご飯を食べたい。貴方と向き合い食事が出来る時間が愛しい。知ってますか。貴方が分け与えてくれる特別を。
たまに林檎を持ってくると何も言わずに剥いてくれる。うさぎの形の林檎。可愛くて好き。今にも動き出しそうな気持ちになってついつい眺めてしまう。それを容赦なく頭から齧る。酷いと言おうと思えば、口の中に押し込まれて同罪となる。
しゃくしゃく、林檎特有の濃厚であっさりとした甘みが広がる。
「ナイフを使いこなす為にしていた時があった」
貴方がくれた一言は、きっと貴方が人間だった頃の記憶。一つ特別が増えた。
共に眠りにつく。お腹がいっぱいで、温かい腕の中にいて、外敵のいない小さな世界は私にとって全てだった。
平和の象徴には成れないけど、あの人に選ばれなかったけど、それでもいいですか。英雄になれない私はまだあなたの傍にいていいですか。
「明日、頑張るから」
見て欲しい。私がきたって、笑って言うから。
私はこの時、あの夢のことなんて忘れていたんだ。
何も覚えていない過去のことなんかよりも、この人と生きる明日のことを考えていた。
当たり前のように私は忘れていたんだ。私が一体何者であるか、英雄にもヒーローにもなれない私の与えられた役を。