目が覚めたらそこは知らない天井だった、と言うとつまらない小説の書き出しになってしまうだろうか。
空調が管理されている音がうっすらと聞こえる。
意外と人の声は聞こえているけれど、誰の声かは分からない。
次に感じたのは体の異変だった。
体幹には何かが付いていて、有り得ないほど体がだるい。
なんだか頭が痒い気もする。
口の中も何となく気持ちが悪い。
あとベッドの寝心地も良くない。
目が覚めて早々に文句しか出てこない。
「!!目が覚めたか」
ガタンと音が鳴ってから男の声がした。
そちらに目を向けると知らない顔があった。
「あの……」
「医者を呼んでくる。待ってろ」
私が名前を聞く前に、その男性は部屋を出ていった。
ベッドには柵が付いていて、そこにコントローラー的なものが付いている。
私は何とかそれを手にして体を起こしてみる。
肺が変な感じがする。
久しぶりにしっかり空気を吸ったような、肺胞の喜ぶ音がする。
どうやらここは病院のようで、私は個室にぶち込まれているらしい。
体に付いていたのはモニターらしきものだった。
さて、私は一体全体どうしてこんな所にいるのだろうか。
昨日はたしか会社の先輩とご飯に行って、それから普通に帰宅してビール飲んで寝たはずだ。
そのはずなんだけれども、どうして病院なんかで寝かされているのか全く心当たりがない。
しばらく過去を漁っていると、医者らしき人と看護師と先程の男性が部屋に入ってきた。
とりあえずベッドを戻してくださいと言われた。
私は病院食を食べながらもう一度現状を整理した。
どうやら私にはここ3年の記憶がないらしい。
いやいやご冗談を……と思ったが、確かに彼らと話しが噛み合わなかった。
そりゃあ私はニュースとかに明るい方ではないけれど、世間知らずでは済まされない程ここ最近の情報を持っていなかったのだ。
浦島太郎もこんな気持ちだったのだろうかと、私は昔話に思いを馳せていた。
どうやら私は事件に巻き込まれた影響で頭部に強い衝撃を受けて、記憶がぶっ飛んでしまったらしい。
その事件で気を失った私の第一発見者である尾形百之助さんがそう言っていた。
私は一週間前にその事件に巻き込まれて、今日まで昏睡状態だったのだ。
どうやらこの人生、平穏には終わらないらしい。
目が覚めてからは検査検査に検査の連続だったので疲れ果ててしまった。
外はもう暗くて、時折看護師の声がするぐらいだ。
明日は両親が会いに来るらしい。
先ほど電話をすると泣いてくれていた。
気恥ずかしいけど嬉しかった。
尾形百之助さんというのは私の彼氏らしい。
こんな色男が私と?!これこそ事件なんじゃないのか?!と、それを聞いた時には気を乱した。
尾形百之助さんとは2年前からお付き合いをしているらしい。
どちらからアプローチしたのかは恥ずかしくて聞けなかった。
尾形百之助さんは歯医者さんで、休みの日には必ず私の病室に顔をだしていたらしい。
律儀な人である。
尾形百之助さんから手渡されたスマホは確かに手に馴染むような気がする。
確かに、初めて持ったものじゃない。
何度握りなおしても確実に私の物だとわかる。
体は覚えているようだが脳は全く覚えていない。
歯を磨いて横になる。
メッセージを遡る。
友人たちに手短に現状をお伝えするとかなり心配された。
メッセージの宛名に知らない名前がなかったので、私の交友関係が3年間全く変わっていないことは分かった。
会社用のメッセージアプリには後輩らしき人から連絡が来ていた。
どうやら私は会社内でしっかり後輩育成に携わっていたらしい。
ひとまず会社は休ませてもらえることになった。
記憶を戻すためにも社会と関わった方がいい気もする。
とりあえず体力が戻るまでは休むしかないが……
今満員電車乗ったら即失神すると思う。
「よお」
目が覚めてから4日目。
朝食を食べてベッドで微睡んでいると尾形百之助さんが私の顔を覗き込んだ。
「ビックリさせないでください……」
「まだ敬語が抜けないか」
「こっちとしてはまだ会うの2回目なんで」
「……」
尾形百之助さんは窓際の椅子に腰かけて外を見ていた。
どうやら私は本当に尾形百之助さんと付き合っていたらしい。
メッセージアプリを遡ると、そうとしか考えられない履歴が滅茶苦茶出てきた。
そしてこの尾形百之助さんはどうにも言葉少なく、捻くれているらしいということは分かった。
「私ってストーカーされてたんですか?」
「……それがどうした」
「いや別に、事実確認ですね」
「もうストーカーはいねぇ。ストーカーも追いかけられたら退散するぜ」
何と私はここ半年程ストーカー被害に遭っていたのだ。
しかし文面から察するに私はストーカーへの恐怖はなく、むしろこちらから向かっていくような姿勢をとっていた。
まあ私の私への解釈としては一致する。
警棒を持って追いかけて殴ったこともあったらしい。
怖すぎるだろ……
流石に友人たちにもストーカーのことは知らせておらず、尾形百之助さんにだけ相談していたようだ。
ここ1か月のメッセージにはストーカーについての記載がなかったので、尾形百之助さんが言うようにもう被害は受けていなかったようだ。
「尾形さん、下のコンビニまで付き合ってもらえますか」
「いいぜ」
お客様にお出しする物が何もないのでコンビニまで調達しに行くことにする。
看護師に声を掛けて病棟の外に出た。
リハビリのおかげで何とか歩けているし、もっと歩いて体力を付けなきゃいけない。
尾形百之助さんは私の右を歩いている。
私の歩幅に合わせてくれている。
「すみません、ちょっとすみません」
私は彼の右側に移動した。
こっちの方がしっくりくる。
どうやら私は本当に尾形百之助さんと歩いていたらしい。
これも体が覚えている。
うんうん、と私がこの位置に納得しているのを尾形百之助さんは見ていた。
「お前のつむじはこっちからだとよく見える」
「押さないでくださいねー」
尾形百之助さんはニヤニヤしながら私のつむじを親指で押した。
院内のコンビニは私が好きなコンビニだった。
尾形百之助さんの好みは分からないが、適当に選ばせてもらおう。
どら焼きと迷ったがシュークリームにした。
シュークリームを持ってうろついていると尾形百之助さんにそれをひったくられてそのままお会計されてしまった。
「お客様なのにすみません」
「変な気遣うなよ。気持ち悪いだろ」
「親切にしてあげようと思ったのに!」
「ははっ」
尾形百之助さんは少し口角を上げた。
これも見たことのある顔だった。
人の嫌がる顔を見て喜んでいる顔だ。
帰っている最中に尾形百之助さんは看護師に声を掛けられていた。
話を聞けば以前ケガをして入院していたと。
「もう本当にビックリしたんですよ!夜遅くに顔から大出血してる尾形さんが歩いて入ってきたんですから!彼女さんも何とか言ってやってくださいよ!」
「え、ああ、なんかすみません」
顎の傷はその名残らしい。
現代医療をもってしても傷跡が残っているのを見ると、だいぶ酷い傷だったのだろう。
転んでケガをしてしまったらしいが、どんな転び方したんだ。
看護師に絡まれる尾形百之助さんは借りてきた猫のような顔をしていて面白かった。
それから病室に戻ってお茶をした。
尾形百之助さんは多弁ではないので私が質問してそれに答えてもらった。
なんと彼は昼食も購入していた。
昼になってヘルシー病院食を食べる私の隣で、尾形百之助さんはこちらを見ながらカレーを食べていた。
許せない……病院出たら復讐してやる……
負けないぞという気持ちで、こちらからも尾形百之助さんを見ながら薄味のお浸しを食べた。
その後も尾形百之助さんは特にこれといったこともせずに私を観察していた。
目力があるので気まずかったがしばらくしたら慣れた。
時々目が合う瞬間負けたくないので、尾形百之助さんが目を逸らすまで見つめ返すなどしていた。
夕方になって面会終了時間となったので尾形百之助さんは帰っていった。
彼は何か楽しかったのだろうか……?
私は楽しいとかなかったけど、こんなもんだなという気持ちだった。
尾形との3回目の面会が終わった後、私はついに退院することとなった。
面会に来てくれた友人にも親にも連絡すると喜んでくれたのでよかった。
それにしても保険に入っていてよかった。
請求書を見た私は、保険に入っていた昔の自分に対して心の底から感謝していた。
街が大胆に変わっていなければ自宅までは多分無事に着けると思う。
少ない荷物を持って病院を出て、新鮮な外の空気を思いっきり吸い込んだ。
何だかとっても懐かしいような気がした。
とりあえずどのバスに乗ればいいんだ……
「よお」
病院前をうろうろしていると声を掛けられた。
「尾形百之助……さん」
「何でフルネームなんだ」
「暇なの?」
「暇じゃなきゃ来ない」
尾形は私の鞄をひったくって歩き始めた。
歩幅は合わせて、私の左側を歩く。
3回の面会で気付いたが、尾形は基本的に私に滅茶苦茶優しかった。
口からは嫌味と悪口しか出てこないが、行動は優しかった。
駐車場に止められたオシャレな車の前で尾形は歩みを止めた。
尾形は助手席のドアを開けて、入るように私を促した。
私は促されるままに席に座って、その感触を確かめた。
これまでの入院生活で気付いたのだが、体の記憶は曖昧である。
覚えていることもあれば、覚えていないこともある。
人間の事は信用しちゃあいけない。
記憶なんか全て曖昧なのだ。
車は軽快に走り出した。
車内には謎洋楽が流れていた。
目的地は特に伝えられていないが私の家だろう。
見覚えのない景色を視界に入れながら、私は睡魔に身を任せた。
起きろと声を掛けられて目を覚ます。
どうやら家に着いたようだ。
車は駐車場に止められているようで、私はドアを開けて外に出た。
外に出るとオシャレなマンションが目の前に建っていた。
私この3年で滅茶苦茶出世してた?!
尾形が車に鍵を掛けて歩き出した。
私は後ろから追いかけた。
何だか凄い場違いな感じはあるが、私は胸を張って歩いた。
エレベーターで上の方まで来てしまった。
尾形は迷うことなく一つの部屋を開けたので、私もすかさず中に入る。
「おかえり」
「うん、ただいま」
そう返すと尾形は少しだけ口角を上げた。
私もつられて笑った。
尾形は当たり前のように部屋の中を進んでいく。
そして何個かあるドアのうちの1つに入っていった。
私は自分の部屋でありながらもどうすればいいのか分からず、とりあえず進んでリビングらしき場所に辿り着いた。
部屋はグレーで統一されていて、これは私の趣味であるとわかった。
片付けようとする意図は感じるが、片付けられていないところが私らしい。
そして申し訳ない程度に造花が飾られている。
「そうか、記憶がなかったな」
「ああ、うん。そうそうそうなんだよ」
尾形が戻ってきた。
ラフな格好になっており、新鮮な感じだ。
手を引かれて一つの部屋に入れられる。
そこは多分私の部屋だった。
作業用の机とパソコン、それとベッドとぬいぐるみたち。
確かにここは私の部屋だった。
恐る恐る入ってベッドに座って、枕元のぬいぐるみを抱いてみる。
大きめのハムスターには小さい黒いシミがあった。
「私が、コーヒー吹き出して……」
そうだ、このシミは私が何かで笑った拍子にコーヒーがかかって出来てしまったものだ。
理由が思い出せないので、ここ3年の出来事らしい。
でもこの子はずっと前からいる子だ。
社会人1年目の時でかいぬいぐるみがどうしても欲しくなって通販で購入した子だ。
なんだか久しぶりに会ったような気がする。
「飯でも食うか」
尾形はぬいぐるみを抱きしめる私を見ながらそう言った。
一旦ハムちゃんをベッドに戻して尾形の後を追った。
尾形は冷蔵庫を漁って、玉ねぎとベーコンを取り出した。
そのまま玉ねぎを手際よく捌いていく。
「……見世物じゃない」
「暇だから」
「病み上がりなんだから座ってろ」
私は促されるままソファーに座って、またその感触を確かめる。
少し奥に見える尾形はフライパンに火をかけているようだ。
しばらくすると醤油が焦げるようないい匂いがしてきた。
チャーハンだ。
私はチャーハンがすごく好きだった。
市販の合わせ調味料ではなく、結局醤油で作るチャーハンが至高なのだ。
「食えよ」
「ではありがたくいただきます」
尾形は私の前にチャーハンを置いて、その隣に尾形のチャーハンを置いた。
尾形が私の隣に座るとソファーがもう一段階沈んだ。
美味しいチャーハンだった。
焦げた醤油が少し苦くて、それがアクセントになっていてかなり美味しかった。
「尾形ってご飯とか作るんだ」
「まあな」
「全部ウーバーとかで済ませてそうだから……」
「自炊ぐらいする」
チャーハンを食べながらテレビを見る
ある芸能人が不倫したとか、アイドルが新曲出したとかそんな話が流れてくる。
当たり前の日常なはずなのに、平常ではない。
チャーハンを平らげて、尾形が食器を洗う音を聞きながら部屋を観察する。
当たり前のような大きめソファー。
明らかに私の趣味ではないガジェット。
そして当然のように出てきた対になった食器。
「あの、もしかして私達同棲してた?」
「もしかしても何も、1年前から同棲してる」
導き出される答えはそれだった。
まさか私が同棲していただなんて。
メッセージアプリの履歴からじゃ分からなかった……
尾形が水仕事を終えてまた私の隣に座った。
「そろそろ籍を入れたいんだが」
「入籍?!」
「入籍だ」
この人は何を言っているんだ?!
このタイミングで言うことじゃないだろ?!
「なんで今?意味がわからない」
「来月俺の誕生日だろ。俺は俺の誕生日に興味はないが、お前が俺の誕生日を特別にしたいって言ってたから」
「あー……私なら言いそう」
私よ、記憶喪失になるタイミングが悪すぎないか?
人の人生のターニングポイントにぶち当たってるじゃないか。
尾形だって記憶のない私には言い出しづらかったろうに……
「1年同棲して大喧嘩とかして別れようってなったりしなかった?」
「一度もなかったな」
「そしたら結婚しても大丈夫そうかな?私滅茶苦茶適当だけどいい?」
「そんなことは嫌というほど理解している」
「じゃあ大丈夫か……じゃあもう来月とかには顔合わせとかしたほうがいいか」
それから親と連絡を取ったりしてお互いに日程を決めることになった。
なんだかすごくスムーズすぎて怖い気もする。
その日はぼーっと一日過ごして、その後は自分の部屋で夜を過ごすことになった。
確かにこの部屋にはいたような気がするのだが何だか変な感じもある。
いや、確かに自分の部屋はこんなだったような気もするが……
うまく言語化できない違和感がある。
病院にいたから感覚が狂っているのかもしれない。
ハムちゃんを見ても何も答えが返ってこないのでそのまま眠りに着いた。
それから穏やかに時は過ぎて行って、事件があって私が記憶喪失であることなんて嘘みたいだった。
尾形が仕事の日は近所を散歩してみたりパンを買ってみたり。
日常生活は大丈夫そうなので、そろそろ復職ということになった。
退院してから2週間後に職場に顔を出してからは、リモートで働くことになった。
復職してから驚いたことは、記憶喪失でも仕事はどうにかなるということだった。
記憶がないといっても仕事の仕方は変わらないし、後輩ともなんとかやっていけている。
家でリモートしながらなんとなくご飯を作って、帰ってきた尾形と食べる生活が当たり前になっていった。
仕事も落ち着けば次は結婚だった。
尾形のお家が複雑な感じだったので、それぞれの親に挨拶へ行くことになった。
それから尾形の誕生日に籍を入れたので、私も尾形になった。
尾形は珍しくゆるりと口角を上げていた。
珍しい表情をするものだ。
もしかしたら記憶喪失で悩む私に、悩む時間を与えないために入籍を早めたのかもしれないな……
まあ私は悩んだりとかは特にしていないのだけれども。
私が記憶喪失になってからもう5年が経っていた。
記憶喪失であることすら忘れる程だ。
なんと私は妊娠していた……
私としてはもう少し二人の生活を楽しみたい気持ちもあったが、尾形がどうしてもと懇願してきたのだ。
まあ年齢のこともあるし気持ちは分からなくはない。
尾形が必死に何かを頼むことはこれが初めてぐらいだったので、私はそれを了承したのだった。
まあまあお腹が大きくなってきて産休まであと数ヶ月の頃、知らない番号から着信があった。
「え、ああ、そうですか……」
私のストーカーだったらしい男が遺体で見つかったようだ。
遺体はだいぶ白骨化が進んでいたらしい。
大きなストレスになるかもしれないからと、名前は伏せられてしまった。
他のことはしつこく聞くと教えてくれた。
尾形のところにも連絡が行っていたようで、尾形は焦って帰ってきた。
大丈夫か、とか頭痛くないか、とか言われたけれども私は元気です。
「殺され方エグすぎるよね引いたわ」
「相当恨みを買ってたんだろうな。そんなことよりもお前、体調は大丈夫そうなのか」
「つわりもだいぶ良くなったし、腰が痛いぐらい」
「そうか。……これだけは変わってやれないからな」
「まあしょうがないよ」
結婚する前からだったが尾形は割と過保護だ。
躓いた時には傷がないか全身をチェックされる。
結婚を機に一緒になった寝室に寝転がる。
なんだかわからないが尾形こだわりのマットレスらしい。
私が目を閉じていると、尾形がベッドに入ってきた。
尾形の方を向くと頬を撫でられたので、されるがままになっておく。
そういえば警察の方が、遺体の顎が滅茶苦茶に砕かれていたと言っていた。
歯が一本も残っていなくてかなり残忍な殺され方をしていたらしい。
私のストーカーをしたのだがら許せない奴ではあるが、なんだか複雑な気分だ。
彼はいつ殺されたんだろうか。
私のストーカーなのであれば私が始末をつけてやりたかったような気もする。
おもむろに尾形の口に指を突っ込んで歯列をなぞる。
尖った犬歯を爪でカリカリ弄っていると、顔を背けられた。
怒っちゃった。
「おやすみ」
尾形の低い声は耳障りが良い。
入眠にはちょうどいいのだ。
彼はなんで殺されてしまったんだろうか。
私のストーカーをやめた後は何をしていたんだろうか。
顔も分からない。
そもそも、もう記憶がない。
土の中は冷たかっただろうか。
もう死んでいたのならそんなこともわからないだろうか。
尾形に背を向け、クッションを抱えて横向きになる。
今はこれが一番楽な姿勢なのだ。
後ろから尾形の手が伸びてきて、大きくなったお腹に巻き付いた。
温かい布団の中で、尾形の手だけが冷たかった。