履きなれたブーツを脱いだ。
落ち着いた紺のワンピースが少し動きづらい。
まとめていたはずの髪が少し解けてきた。
部屋の電気が付いていることに気付いて少し口角を上げた。

苦いものが苦手な私の自宅にコーヒーの渋みが広がっていた。
征十郎がソファーに座って読書をしている。
征十郎が家にいることが当たり前になってきた。
自分が使っていたはずのマグカップが征十郎の手に馴染んできた。
温かいものを入れると絵柄が浮き出て花が咲いたように見えるタイプのマグカップ。
結構気に入ってたのになぁ。
おかえり、と征十郎が言うのでただいまと返した。

征十郎とは幼馴染というには希薄な関係だった。
私達は中学卒業後10年経った最近、本当にたまたま、偶然街中で再会したのだ。
私達の間には10年のブランクがある。
高校生と大学生、一番青春に近い年頃に私達は違う時間を歩んできた。
でもそんなブランクなんてないかのように私達は自然だった。

征十郎に合い鍵を作らされたのは何時だっただろうか。
何故か彼が征十郎に会いたいと言ったのが最初だった気がする。
私と彼と征十郎の三人で家でご飯を食べて彼を見送った後、何だったか言いくるめられて作らされた気がする。
征十郎は彼公認の男友達であった。

「何か食べる?私は食べてきたんだけど」
「いや、いい」

家に常備してあるクラッカーとチーズを皿にのせてソファー前のテーブルに置いた。
牛乳とココアを混ぜて電子レンジに入れた。
その間にクローゼットから部屋着を出して着替える。
部屋着と言ってもただのジャージだ。
そうしてから征十郎の隣に座ってテレビをつけるのがいつもの流れだ。
征十郎は本を読んでいる。
チーズを乗せてクラッカーを食べると口の中が変にパサパサする。
マグカップから昇る湯気が消えていく。

「私さぁ、結婚するかも」

今日は妙に雰囲気のある店に連れていかれるな、とは思っていた。
大学生の時から付き合っている彼氏にプロポーズされた。
もう付き合って五年は経つんだろう。
気付けば私も結婚適齢期。
確かにそろそろ結婚するのが普通なんだろう。

「そうか。おめでとう」

征十郎は本に目をやったまま言った。
それ言う時くらいこっち向いてもいいじゃん。

「ま、返事はまた今度ってことになったんだけどさ」
「そうなのか」
「だって一生を決める決定だよ?そりゃ尻込みだってするさ」

マグカップを持ってココアを飲む。
パサついた口内が生き返るのを感じた。
その代わりに舌が火傷してヒリヒリと痛む。
征十郎はクラッカーを食べていた。
いつも見ている魚の映像が流れるだけのチャンネルに変える。
ゆるゆると泳ぐ魚を見ていると心が落ち着く。
このチャンネルだけのために有料放送を契約している。
それを征十郎に伝えると呆れられたのはもう昔のことだ。

「意外だな。そんなに長く付き合っているのに結婚は尻込みするのか」

確かにそうだ。
何で尻込みしたんだろう。
まあ結婚ってなると色々大変だし生活も変わる。
それを受け入れる覚悟が自分にはなかったんだろう。
だからその覚悟をするための猶予期間がこれから始まるのだ。

「まあ私には覚悟が足りないからね」

そういうと征十郎はこちらを見てふっと笑ってからコーヒーを飲んだ。
今日初めて征十郎の顔を正面から見た。
相変わらず童顔だね。
コップの花が死んでいる。




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