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ふっと浮かび上がるように眠りから覚めて、ヴィーラ・リーリエは自分が眠っていたことをようやく自覚した。見上げる天井はグランサイファーの船室のものだが、生憎とベッドに入った記憶が無い。そんなに疲れていたのだろうか。
霞む目を何とかしようと目頭を抑えたら、「ヴィーラさんっ!?」と高い少女の声が頭に響いた。程なくして、金髪をショートカットにした少女が視界に現れる。
「目が覚めたのか」
続く声は聞き覚えがある、間違えようもないカタリナお姉様のものだ。
お姉様、と呼ぼうとした声が乾いた喉で引っかかる。乾咳の音を聞いて、慌てて水を差し出してくれたのはルリアだった。
何だか様子がおかしい、と気付いたのはこのあたりだ。起こした身体をすかさず支えてくれたのはカタリナで、そんなに丁重に扱われる覚えがないヴィーラは訝しく思いながらもコップを受け取った。水にはレモンの果汁が絞ってあった。
「ヴィーラ、何があったか覚えているか?」
「すみません、お姉様。それが、何が何だか……、」
「無理もない。幽世の存在が相手だったからな。どこか不調はないか?」
ベッドの上で肩を、頭を、足首を動かす。
「……痛みはありません。頭が少しぼーっとしますが。」
心配そうな表情を浮かべていたルリアがホッと息をついて、微笑んだのがわかった。「ところで、」
「そちらの方はどなたですか?」
視線の先には金髪の少女。
カタリナとルリアの時が止まった。
目を見開いたまま固まっていた金髪の少女はやがて、「……え?」と小さく声を発したけれど、ヴィーラは少女を見ていられなかった。何故だか彼女が、とても傷ついているような気がして。
おかしいのは……私?
ヴィーラの部屋にはすぐさま数人の団員が駆けつけた。聴診器を外したティコ先生が首を振る。
「残念だけど、打つ手がないし。」
フュンフも難しい顔で頷いた。
「からだも、こころも、まんまるパズルのまんまだかんねー。」
「医学的には、『怪我』の状態にないし。身体も心も健康そのもの。私の治癒魔法じゃ治せないし。カリオストロの方はどう?」
「俺様に出来るのは器をいじくり回すこと。ガワはいくらでも好きに変えてやれるが、肝心の『中身』がそれじゃあ、錬金術で出来ることはねぇよ。」
「そうですか。」
応えた声は無機質で、我ながら他人事のように聞こえたが、実際我が身に降りかかった出来事だという認識は薄い。ヴィーラの認識では何も忘れてなどいないのだ。カタリナの属する騎空団の仲間はラカム、オイゲン、イオ、ロゼッタ、ビィ、そしてルリア。今は沢山増えたけれども、最初はこのメンバーで旅をしてきたはず。騎空団にはリーダーなどいないし、ビィには相棒なんていない。いないはずだ。
カリオストロが気遣わしげに『団長さん』を見た。
『団長さん』は陶器で出来ているかのような無表情をしていたが、ヴィーラの視線に気づくと、にっこりとお手本のような笑みを浮かべた。口は開かない。
割り込んだのは幼い声だった。
「私が視てみる。」
ヴェトルだった。夜空を映した湖と同じ色の豊かな髪を揺らして、いつの間にかベッド脇に立っていた。夢占いが得意な彼女の正体は、夢を司る星晶獣らしいと噂で聞いた。
「ヴェトルちゃん?何か分かりそうなんだし?」
「夢は記憶がつくるもの。記憶は夢に表れるもの。うつつのみんなが分からないなら、これはきっと、私の出番。」
繊手に肩を押されて、ヴィーラはベッドに寝かされた。ヴェトルの豊かな髪が、ヴィーラの周りに紗を下ろすようだった。白い手が閃いて、前髪を優しくかきわける。
おやすみなさい、という声が耳に届く頃にはもう、眠りについていた。
〜〜〜〜〜
「記憶はある。」
夢の世界から戻ってきたヴェトルは開口一番にそう言った。ジータは口調が乱れないよう心がけて、慎重に声を出す。
「どういうこと?」
思ったより何でもないような声が出て安心した。
「夢の世界には、記憶の扉が沢山あるの。ヴィーラさんの記憶の扉には、鎖で雁字搦めになって、開けられないものがあった。紫と白のシマシマ模様の鎖。」
「幽世の力ってやつか。」
「かくりよの人は、たぶん、ヴィーラさんのことが怖かった。星晶獣シュヴァリエと仲良しだから。特異点であるジータさんのことを忘れれば、ヴィーラさんが離れていくと思った。」
「それでジータのことだけを……、」
「落とさないようにぎゅっと握りしめた大事な記憶。今はひらけなくても手の中にある。だから、大丈夫だと思う。」
戻るのかどうか聞けなかったジータの代わりに、カタリナが「戻るのか」と聞いた。
ヴェトルはたっぷりのまつ毛をはたりと瞬く。音が鳴りそうだ。
「時間が経てばきっと。」
そうか、と応えたカタリナの声を、他人事のように聞いていた。
傷つくなと自分にまじないをかけた。私は団長。皆に心配かけるほど悲しい顔をしてはならない。傷つくな。
「……まあ、私とヴィーラさんは元々口喧嘩ばっかりだったしね!初対面に戻っても問題ないかも。」
冗談めかして言えただろうか。物言いたげなカタリナが口を開く前に、「カタリナさん。ヴィーラさんを宜しくね。」と言って部屋を出た。これ以上自分がここに居ても意味が無いと思ったからだ。
傷ついてはならない。唇を強く噛む。
個室まで早足で歩いた。途中、ルリアが話しかけたそうにしていたけれど、気付かないふりをした。
部屋の扉を努めて優しく閉め、パタン、という音を境に静寂が訪れる。
先に部屋に戻っていたビィが飛んできた。
「な、なあ……ジータ……?」
相棒の気遣わしげな声を聞いて、プツンと何かが切れそうになったけれど、深呼吸して気を引き締めた。団長だから。
へへ、と笑う。
「ヴィーラさん、私の事、覚えてないって。」
私の事『だけ』を。
傷つくな。おまじないを唱える。
「……カタリナのことは忘れなくて、良かった。」
代わりにビィが傷ついた顔をしてくれたので、それでいい。
その日の夜は夢を見た。
ヴィーラの私室に二人。頭を突き合わせて相談している。テーブルには品のいいレェスのテーブルクロスがかかり、その上には、黒い岩石……のような、カタリナの手作りお菓子が置いてあった。
ヴィーラがこの世の終わりのような顔をしている。
「……頂いたからには、残さず食べねばなりません。」
経典を読む信者のように粛々と言った。
ジータは緊張した面持ちで指先で岩石(カタリナは『クッキー』と呼んだ)を摘み、鼻に寄せる。
「サンダルフォンに入れてもらったコーヒーより苦い匂いがする……。」
「入れられた愛の量の差でしょう。」
「ヴィーラさん、さすがにそれは無理があるよ」
「いいえ。愛です。」
大真面目に言い切るのがおかしくて、ジータは笑った。そんなジータを見て、ヴィーラも少し笑った。
「では」
「お互い武運を…!」
覚悟を決めて、乾杯の後のイッキ飲みのようにふたりで口に放り込んだ。クッキーにしては自己主張の強い噛みごたえの後に、刺激的な苦味と酸味と塩味が襲ってくる。
視界のブラックアウトと共に場面は切り替わる。
ヴィーラと甲板に敷いた薄い毛布の上に寝転がって星を見ていた。
故郷でよく星を見ていた話をしたら、「星など見て楽しいものですか?」などとヴィーラが宣ったため、今日はジータ主催による2人だけの星見パーティーだった。
「あれは何座ですか?」
「分からないねぇ。」
「分からないんですか?ジータさんが星見に誘ったのに?」
「星座なんか分からなくても星は楽しめるよ。ほら、あれは、あそこが頭で、あれが羽で、ビィに似てるからビィ座」
「……まあ、言わんとしていることは分かりますね。」
「ヴィーラさんには何か見える?」
ヴィーラは夜空を見上げた。
暗い夜空に、転々と星が浮かんでいるだけだ。
じっと見た。
ジータが教えてくれたのは『楽しみ方』だ。
「あちらの星と、あちらの星を繋いだら、シュヴァリエのビットに……見えません、か?」
自信なさそうに呟いたが、ジータは嬉しかった。
「見える!ヴィーラさん凄いっ!」
拍手をして、二人で笑った。
夏の可惜夜。
浮かび上がるように、目が覚めた。
あまり眠った気がしないけれど、いつ眠ったかの記憶が無いから寝ているのだろう。
未だ夢の中のビィの狭い額を撫で、深呼吸をした。
ヴィーラとは、
「……今日から、他人だ。」
(20240303)