5

風に乗って花と焼きたてのパンの匂いがする。

ふくよかな香りを嗅いでも気分が晴れないのは、カジノに向かったカタリナが気になるからだろうか。それとも白い壁と階段の多いテルミナの街が、ヴィーラの鳥籠に少し似ているからだろうか。
今は少し先で恰幅のいいパン屋のおば様と話しているジータが、ヴィーラを連れ出してくれたと聞いた。記憶には無い。
思い出そうとしてみるが、記憶にはモヤがかかっているようだった。

「ヴィーラさん、」

呼び掛けに顔を上げる。ジータは薄い紙に包まれた焼きたてのパンを持っていた。

「買ったんですか?」
「ううん。女性の連続失踪事件を調べてるんだって言ったらくれたの。はい、半分こ。」
「あ、ありがとうございます……。」



『お待たせ、ヴィーラさん。半分こしよう』



空耳にハッとする。

こういうのをデジャヴュと言うのだと昔誰かに聞いた。思い出せない。
思い出せないということは多分、教えてくれたのは団長なのだ。記憶の虫食い。奥歯を噛み締める。

「……新しい情報はありましたか?」
「今のところ何も。次はあっちの方で聞いてみよう。」
「噴水広場の方ですね。分かりました。」

あたたかいクロワッサンはサクサクで美味しかった。たっぷりと入ったバターのコクは、きっと紅茶にも合うことだろう。
歩きながら食べるなんて行儀の悪いこと、昔はしなかった。食べ歩きの楽しさを教えてくれたのは……そこまで考えて、フッとランプを消すように言葉が消えた。誰、だっただろうか。

ふと隣のジータを見ると、金髪が一筋口に入っていた。手を伸ばしかけて、やめる。果たして私たちはこんなことをしていい仲だったのだろうか。やるとしたら、手袋は外して?外さないまま?指先で?手の甲で?声はかける?かけない?
迷っているうちに、ビィが気付いて本人に伝えた。

「ジータ、髪の毛かかってるぜ」
「危ない危ない、食べちゃうところだった!」

『ヴィーラさん、髪の毛食べちゃうよ。』


空耳がうるさい。





噴水広場にはいくつかの出店が出て賑やかだった。
数々の露店を冷やかしながら2人と1匹で歩く。

「なかなか情報がないな。」

数歩先を歩くジータの顔はヴィーラからは見えなかったが、疲れた声だった。自分のせいでは無いはずなのに責められたような気になるのは罪悪感があるからだろうか。
足元を見ながら歩いていたら、ふと影がさした。
ジータが覗き込んでいた。柔らかな丸みを帯びた頬で、産毛が光っている。

「ヴィーラさん、元気ないね。疲れちゃった?」

いいえと言う前に、ジータがわらった。

「そうだよね。ヴィーラさん割と体力オバケだもの。何か余所事を考えてるでしょう?何かっていうか、まあ、大体予想はつくけど。」

歌うように言って、手のひらを差し出す。
日に焼けた手だ。掴んでいいのか考えあぐねている内に、手の方からヴィーラの手を迎えに来た。強く掴まれて引っ張られる。

「ちょ、ちょっと、」
「気持ちが落ち込んだ時は考え事しちゃダメなんだよ。悪い考えしか浮かばないから。考え事は良い気分の時にしないと。」
「それは……そうかもしれませんが、この手は、」
「いくよー!」


強引な振る舞いに反してヴィーラの手を掴む手のひらは優しく、力を入れたのは最初にグイと強く引いた1度だけだった。後は幼子の手を握るように包まれている。ところどころ剣胼胝のある手だ。繊手と表現するにはいささか健康的で力強い。
そういえば前にもこんなことが……と思う度、手を引かれた。優しく。その都度「見て、」と露店を指さされ、二人と1匹で売り物を見て回る。ジータは見事なガラス細工を気に入ったようだったので、買うのかと問うと、「船旅だときっと落ちて壊れちゃうからなぁ」と笑っていた。

プレゼントしようかと頭をよぎって、戸惑った。どうして。カタリナ以外にお土産を買おうなんて、プレゼントをしようなんて、滅多に思ったことがないのに。
思考の渦に飲み込まれる前に力強く手を引かれる。

「見て、ヴィーラさん。氷菓子の屋台だって!」

それは紛れもなく気遣いだった。

気遣われている側であるヴィーラに余計な気を遣わせないよう、付かず離れず、絶妙な温度感で触れてくる。

きっと彼女は優しい人なのだ。
心の奥底がぐらぐらと揺れる。

このままでは取り返しのつかないことになってしまうような、妙な焦燥感があった。
例えば気に入った硝子の置き物を寂しそうに諦める横顔だとか、街の人には社交的に笑ってみせるのにヴィーラといるときは気を抜いた顔をしているところだとか。パンを食べたばかりのくせに氷菓子を欲しがるこどもっぽいところとか。興味があちらこちらに移るせいで、歩くのが凄く遅いところとか。
そういう人間味をひとつひとつ知る度に、もうダメだった。記憶を失う前の私は彼女のこういうところが好きだったのかもしれないと思う。

好き。

考えるとぞっとした。罪悪感で息が詰まる。
ずっとカタリナお姉様が、カタリナお姉様だけが唯一無二だったはずなのに、そうではなくなってしまった世界で、私はどうやって息をしていたのだろう。

ぼうっと見つめていた先で、空模様を確認していたジータが振り返った。
幼げな印象を与える大きな榛の色の目が、ゆるりと緩んで、ほどけて、細くなる。そんな目で見ないで欲しい。そんなふうに、優しい、愛おしいものを見るような目で。




空に夕暮れ色の雲がたなびく頃、声をかけられた。

「アンタたちが居なくなった娘について調べている騎空団か?」

話しかけてきたのはやつれた印象の男だった。
そうですと応えたジータは瞬時に団長の顔をしていて、ヴィーラも気持ちを切り替える。少なくとも今この場で抱えていていい気持ちでは無いのだ。押し込める。

男はやつれた印象そのままに、疲労の色が濃い声色でぽつりぽつりと喋る。
1か月前にカジノに務めていた恋人が居なくなったこと。
それからずっと探しているが、全く手がかりがないこと。
カジノに務めている女性がいなくなるという同様の事件が、このひと月で6件も起こっていることを、涙を交えながら話した。

「それは心配ですね。」

言葉少なに共感を示したヴィーラの横で、ジータが何かを考え込んでいる。

「……あの、」

真剣な顔で口を開いた。

「攫われたカノジョさんの特徴を教えてくれませんか。」
「ええ。背丈は160センチくらいで全体的に細身、珍しい赤みがかった茶色の目で髪は金髪です。」
「金髪……、」

ぎゅと曲眉を顰める。
ヴィーラもハッとした。騎空団の仲間と押し入った盗賊のアジト。残っていた者は黒髪や茶髪ばかりだった。金髪が一人もいなかったのは、『連れていかれた』から?

「……お兄さん、カジノのオーナーの名前はご存知ですか?」
「もちろんさ。オーナーの名前は『ディートマー・エイビス』。町外れの大きな屋敷に住んでいる大地主だよ。」

ハッと息を飲む音が聞こえたと思ったが、もしかしたらヴィーラ自身が立てた音だったかもしれない。心臓が通常の倍の速さで脈打っていたから。

男性に丁寧にお礼を言ったジータは、瞬時に踵を返す。

「戻ろう、ヴィーラさん。カリオストロが何か情報を掴んできてくれるといいんだけど。」










頼みの綱であるカリオストロはグランサイファーに先に戻っていた。
ジータの顔を見るや否や、天使のようなかんばせの鼻先に皺を寄せる。臭いものでも嗅いだような顔だった。

「おいおい団長、アレはヤバいぜ。倫理観が終わってる。俺様が言うのもなんだがよ。」

自虐ネタには触れず、ジータが聞き返した。

「倫理観?」
「ああ。エイビス邸の書庫は錬金術関係の本ばかりだった。それも初級も初級、ガワの作成についてのものだけしかないところを見るに、おそらく錬金術は習得できずに途中で諦めたんだ。蔵書の内容を見るに、代わりに剥製について勉強し始めた様子だったが、犬やら猫やら狐やらだけじゃなく、あのジジイ、『ゴブリン』にまで手を出してやがる。」

ヴィーラとジータの脳裏に、数日前の光景が蘇った。玄関先。本物と見まごうほどの、ゴブリンの剥製。

「ゴブリンは『亜人』だ。個体差はあるが、だいたいは人間と同じ言葉を話す。人間が他の生物をランク付けするとしたら、同じ言語を解すか否かは結構重要なポイントなんだ。普通のやつならまずしない。命乞いをされるからな。」
「エイビス伯爵はそれをしたと?」
「ああ。あのジジイはそれが『できる奴』なんだ。近いうちに人間を剥製にしてもおかしくないと思うぜ。」

人間の剥製。消えた金髪の女性たち。
不穏な言葉に心がざわついて落ち着かない。ジータは無意識に手を握りこんでしまっていて、気付けば手のひらにくっきり爪の痕がついていた。

「おい!」

ドタバタと帰ってきて、声をかけたのはラカムだった。
丁度カジノ組の情報が欲しかったところだ。振り向いて、ラカムの様子に首を捻る。見慣れた顔には焦燥が浮かんでいた。

「カタリナ帰ってねえか!?」

ジータは思わず片方の手のひらで顔を覆った。



「やられた……!」



カタリナは白みがかった『金髪』だ。









(20250420)

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