屋上に上がると、澄み切った青空が広がっている。空気がおいしい。数人の学生がまだお弁当を食べていたり、仲良さげに友達同士で談笑していたり。和やかな雰囲気にほんの少しだけ心が落ち着くような気がした。


「「「きゃー♡」」」」
「一ノ瀬くーん♡」
「かっこい〜♡」
「今度の練習試合も応援しに行くからね〜♡」


数人の女の子が俺たちの存在に気が付いて手をぶんぶんと振ってくれる。かわいいなあ。一生懸命で。にこっと笑って手を振り返すと、またきゃあっと大きな歓声が上がる。「相変わらずのモテっぷりだな」なんて岩ちゃんに言われて「まあね」と答えると「少しは謙遜しろよ!」と頭を思いっきりぶん殴られる。い゛……ってぇ!!クソゴリラ!理不尽にも程がある。

岩ちゃんの足がパタリと止まって、振り返る。手には俺が昨日書いたばかりの、部活の退部届があって。


「なんかあったんか」


岩ちゃんが正面からじっと俺を見つめながら口を開く。心配しているような、少し怒っているような、どことなく寂しそうな、そんな声色で。優しいなあって思う。ほんと岩ちゃんってガキん頃からずっと変わらないよな。優しくて、強くて、かっこよくて。そんな岩ちゃんのことが、昔から俺も徹も大好きなんだよ。

俺は昨日の夜に考えた退部する理由を頭に思い浮かべる。ああ嘘だってバレないようにしなくちゃな。ほんの少しの罪悪感と、まだ辞めたくないなっていう未練が入り混じって、胸がキューッと締め付けられる。だって今までずっとみんなと一緒に頑張ってきたから。白鳥沢に勝って、全国に行くために。そのためにひたすらに努力を惜しまなかった。悔しくて悔しくてみんなで泣きながら夜遅くまで話し合ったこともある。時にはつかみ合いの喧嘩になったり、くしゃくしゃになって笑いあったり。そのどれもが俺の青春で、宝物なんだよ。でもバレー部を退部することに俺の感情はいらないから。主将である徹が俺はいらないと判断した。それが全てだから。俺がいなくなることで青城が全国に行けるなら、俺はもう、それだけで幸せなんだよ。俺は影から見守って、みんなのこと、応援してるから。


「実はさ…最近成績落ちてて。このままだとまじでやばくて。ほら、俺らもう三年じゃん?流石にそろそろ進路のことも考えないといけないし…」
「……」
「ずっと悩んでて。俺、大学行きたいし、春高まではいるつもりだったけど…親も心配してるから」
「スポーツ推薦は?」
「え?」
「オマエ、リベロで高校生トップ3に入るほどの実力あんじゃん。推薦くるだろ」
「…最初から推薦に期待するより、今はとにかく勉強に集中したい」
「嘘だろ」
「えっ」
「蓮って昔っから嘘つくとき鼻かく癖あんの。知ってた?」


…シ、シラナカッタデス。つかマジ?俺嘘つく時鼻かいてんの?さっすが幼馴染。俺のこと俺以上に知ってんのな。いや感心してる場合じゃないんだけど。額から冷や汗がだらだらと垂れ落ちる。岩ちゃんは正面から射るような眼差しで俺のことをじっと見つめる。ただでさえ目力あんのにそんな真っ直ぐに見つめられると流石に怖い。


「…及川のことか」
「なんで徹?」
「及川が蓮の彼女に手出すのが耐えられないんだろ」


うーん。合っているような、合っていないような。徹が原因であることは間違いないんだけど、別に徹が俺の彼女を寝取るのが嫌で辞めるわけではないから。徹がそんなことをする理由に俺がようやく気付けたから、退部しようと思ったわけで。でもそれをどうやって岩ちゃんに言ったらいいんだろう。急に黙り込む俺に対して、岩ちゃんはなにを思ったのか「すまん」と勢いよく頭を下げて、びっくりして目を見開く。


「え、なんで岩ちゃんが謝るの?」
「何度もアイツに言ったんだよ。やめろって。蓮に対してあまりにも失礼だって。俺だけじゃない。花巻も、松川も、ずっと及川にそう言い続けてた。だけどアイツ全く聞く耳持たなくて…みんな心配してたんだ、オマエのこと」
「…そうだったんだ。みんな全然そのことに触れてこないから知らなかった…心配かけてごめんね」
「オマエはなんも悪くねえよ!悪いのは全部クソ川だ」


悔しそうに眉を寄せて拳をぎゅっと握る岩ちゃん。そしてぐしゃりと音を立てながら握り潰される俺の退部届。うわこれ書き直した方がいいんかな…。


「及川のことは俺がどうにかする。だから部活のこと、考え直してくんねえか」
「岩ちゃん…」
「みんなで一緒に全国行こうって約束したべ」


したよ、約束。したけど…っ。俺だって本当はまだ部活辞めたくないよ。でもさ、徹が。徹が俺のこといらないって、そう判断したから。だから俺はーー。


「俺たちには、蓮が必要なんだよ」


ずっと言われたかった。一度でいい。たった一度でいいから、徹にそうやって、言ってほしかったんだよ。徹の恋人にはなれない。愛を囁くことも、手を繋ぐことも、キスも、その先のことも。だけど、同じ夢を見て一緒に頑張ってきた徹には誰よりも俺のバレーを認めてほしかった。オマエが必要だよって言って欲しかった。
鼻の付け根がツンと痛くなる。あんなに強く決意したはずの意思がこのままだと揺らいでしまいそうで、そんな自分に嫌気がさす。バレーに未練ありすぎだろ、俺。涙が出そうになるのを必死に耐える。ここで泣いたら本当はバレー部を辞めたくないことが岩ちゃんにバレてしまうから。


「なあ、蓮「なに話してんの」


え。岩ちゃんと同時に声がした方に視線を向けると、そこには僅かに呼吸が乱れている徹がいて。走ってきたんだろうか、ここまで。岩ちゃんに用があった?それとも、俺?どっちにしろこの状況は良くない。岩ちゃんの手にはまだ握られたままの俺の退部届があるから。徹には、退部届を提出してから事後報告をするつもりでいた。いつもみたいに、軽いノリで、さらっと。徹も気まずいだろうし、その方がいいと思っていたから。流石にこんな重たい雰囲気の中で退部したいだなんて言いたくない…そこまでメンタル強くねぇよ俺は。


「トイレ出たらオマエいねえしどこいんのかっていろんな人に聞きまくったわ。勝手にいなくなんなよチビ」


苛立った声に、「寂しんぼかよ」揶揄うように笑うと「は?」とまあまあなマジトーンで返ってくる。ええめっちゃ怒ってんじゃん…。弁当一緒に食べて徹がトイレ行った隙にチャンスだと思って退部届提出しに行こうと思ったんだけどまさかここまで徹を不機嫌にさせてしまうとは思わなかった。「ごめん」と口にすると、すかさず徹は「で、岩ちゃんとなに話してたの?」と聞いてくる。


「別に。クソ川には関係ねえ話」
「えー!なにその仲間外れ感!俺にも教えてよ!」
「ダーー!及川うぜえ離れろ!!」
「やだね!教えてくれるまで離れませんからー!」


ぎゃあぎゃあと騒ぎながら揉み合う二人を見ながら思う。徹はやっぱり俺のことが嫌いなんだろうなあって。だって明らかに岩ちゃんと俺への態度が違うから。岩ちゃんといる時の徹はよく笑う。心の底から、楽しそうに。俺の時も徹は笑うけど、それ以上にこうやってよく機嫌を損ねてしまうから。相性、なんかな。俺は徹のこと大好きだし一緒にいれるだけで幸せでめちゃくちゃ楽しいけど、どうやら徹はそうではないらしい。一方通行すぎて、悲しさ通り越していっそのこと笑えてくるよ。


「あっ」


揉み合ってる中、岩ちゃんの手からぐちゃぐちゃに丸まった退部届が地面に落ちる。やべ、とすぐに手を伸ばした岩ちゃんよりも先に、徹がそれを手に取り丸まったそれを広げる。流石の反射神経。てか、うん。詰んだ。


「なにこれ」


心の芯まで凍る冷たい言い方だった。周りの温度が下がる。なにこれって、それはオマエが望んだことなんじゃないの。流石にもう誤魔化せないから「退部届、だけど」小さな声でポツリと呟くように言えば、徹は「見りゃ分かる」と言って、いきなり退部届をビリビリに破きだす。…は!?嘘だろ!?岩ちゃんと共に目を見開く。


「おいおいか「後数ヶ月後に春高控えてんのになに勝手なことしてんの」
「え、だって
「しかもなに?主将である俺より先に岩ちゃんに相談するとかふざけんのも大概にしろよ。自分勝手にも程があんだろ。女とばっか遊んでるからこんな大事な時期に辞めようなんて考えが浮かぶんだよ。つーかなに?オマエにとってバレーってその程度のものだったわけ?及川さんがっかり〜。ま、今回のことは特別に大目に見てやるからこれを機に気持ち切り替えて女よりバレーに専念することだな」
「及川!オマエいい加減にしろよ!蓮がどんな気持ちでっ「もういい」
「は?」
「蓮?」


なんかもう涙も出ないや。片思い中の相手にここまでズタボロに言われる人間もなかなか珍しいんじゃないかな、なぁんて。アホらしい。今まで死ぬ思いで頑張ってきたバレーを全否定されたような気分。いや実際されてるんだけど。恋してる人に彼女を寝取られても、理不尽に叱られても、今まで徹になんにも言わなかった。だって好きなんだもん。大抵のことは許してしまう。それに徹のいいところだってたくさん知ってるしだめなところもいいところも全部ひっくるめて徹のことが大好きだったから。一途すぎて重すぎてキモいのは分かってる。いつかこの気持ちを諦めなくてはいけないことも。
それが今、この時だと思った。なんかもう色々疲れたよ。


「みんなに迷惑かけちゃうなら、部活は辞めない。でも、部活以外で今後一切俺に近寄ったり、話しかけてくんな」
「は?」
「じゃ」


徹と岩ちゃんに背を向けて足を進めると、ガシッと力強く腕が掴まれる。視線を向ければ、そこには酷く焦ったような顔をしている徹がいて。何で今更そんな顔するの。俺にここまで言わせたのは、間違いなくオマエだというのに。悲しみと怒りがぐちゃぐちゃに混ざり合う。もう別にいいだろ。俺に部活辞めてほしくて俺の彼女寝取ってんのかと思ったけど、それも違うなら本当にただの嫌がらせじゃん。そんなに俺のことが嫌いなら、俺のことなんてほっとけばいいだろ。


「待って」
「待たない」
「ごめん、さっきは言いすぎた…っ」
「部活辞めないからもう俺に用はないだろ」
「近寄んなって、話しかけんなって、なに」
「そのまんまの意味だけど」
「ねえ、ごめん。ほんとにごめん。少しでいいから話したい…っ」
「むり」
「蓮…っ」
「もう、むり。顔も見たくない」


目を見開く徹の手を振り切ってスタスタと歩く。徹も岩ちゃんも追いかけて来なかった。それでいい。今徹といたら変なことまで口走りそうで怖いから。なんかもうマジで疲れた死にそう…。廊下を歩いていると、友達と笑いながら歩いている松川がいて、「あ、蓮じゃん」ニコッと笑う松川に一気に涙腺が緩んでぽろぽろと涙が床に溢れ落ちる。


「んー?どした?悲しいことあった?」
「っ、ん、」
「そっか。とりあえず松川さんの胸でたくさん泣きなさい」
「うう、まつかわありがとぉ…っ」


ガキん頃からずっと好きだった。ずっと徹だけを見てきた。だけどもう、おしまいにしなくちゃ。死ぬほど辛いけど、きっとこのまま好きでいる方がもっともっと辛いはずだから。さよなら俺の初恋。俺はよく頑張ったよ。これからはきっと幸せになれる。泣き続ける俺に、松川は何も言わずにただ頭を優しく撫で続けてくれた。次に恋をするなら松川みたいな人がいい。もう二度と、こんな思いはしたくないから。
 

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