絶望を味わって

薫いつも僕が他の女といても顔色一つ変えないで平気そうだから


それ、本気で言ってる?












仕事で遅くなると言っていた悟が帰ってきた時、ふわりと女物の甘い香水の匂いが鼻を掠めた。今思えば、これが最初の違和感だった。
でもまだこの時は、そこまで深く考えていなかったと思う。どうせまた依頼主とかに気に入られてベタベタ触られたんだろうなあって、そのくらい。
そりゃあ勿論いい気はしなかったけど、悟がモテるのは嫌というほど知ってるし、そもそも仕事だから仕方ないよなぁってその日は特に何も悟に言わなかった。


ーーごめん今日も遅くなる

ーー任務が長引きそうだから先に寝てていいからね


だけど。その違和感は日に日に確信に変わっていくことになる。
その日から悟は毎日甘い香水を匂いを纏いながら帰ってくるようになって。流石に毎日はおかしいって疑うようになって、任務が長引きそうだとLINEが来てからすぐに伊地知に電話をした。ほぼ99.9%黒だと頭では分かっているのに、残りの0.01%を信じたかった。僅かな希望に縋りつきたかった。悟のことを、愛してるから。
心臓がバクバクした。緊張で胃液が込み上げてくる。

「え?五条さんの任務は夕方には終わっているはずですが…………芹澤さん?」

あまりのショックに茫然自失して、そこからの記憶はない。


どれだけの時間が過ぎたのだろう。
気付けば部屋の中は真っ暗で、目の前には心配そうな顔をしている悟が俺の顔を覗き込むようにしゃがみ込んでいて。
浮気してるくせになんでそんな顔してるんだよ、とか傑のことを忘れさせてくれるんじゃなかったのかよ!とか、俺のこと本当は愛してなかった?とか。言いたいことや聞きたいことは山ほどあるのに、いざ本人を目の前にしたら何も言えなくなってしまって。唇をぎゅっと噛みしめる。

「ちょ、電気つけないままそんなところで座り込んでどーしたの?体調悪い?大丈夫?」

おでこに大きな手のひらを当てられて、「んー熱はないみたいだけど」と安堵したように呟く悟の手を払いのける。驚いたように悟の目が見開いた。

「……薫?」
「今までどこにいたの」
「え?だから任務…「伊地知から聞いたよ。夕方には任務終わってたんだよね?もう一度聞くね。悟は今までどこにいた?」

悟の目を真っ直ぐに見据えながらそう言えば、悟は困ったように眉を下げる。

「はは、あーうん。ごめん。ラブホにいた」
「……………は?」
「……ぶっちゃけ最近疲れててストレスやばめでアドレナリンどばどばでさぁ。大事な薫には乱暴したくないし、ストレスの吐け口として誘ってきた女適当に抱いてた。ごめんね?許して」

何にも悪びれる様子もなく、ヘラヘラと笑いながら吐き出される悟の言葉に、何一つ理解が追いつかなかった。これは、本当に俺の愛してる悟なのだろうか。信じれなくて、こんなこと信じたくなくて。胸の奥底がキューっと締め付けられて、苦しい。
ぎゅうっと悟に包み込むように抱きしめられる。「僕が愛してるのは薫だけだよ」本当に愛おしそうにそう囁かれても、ただ嫌悪感しか感じなかった。




ねえ、悟。

俺のことを愛してるのに、なんで他の女とセックスするの?








2017年12月24日の日没直後に新宿・京都で傑が起こした大事件、「百鬼夜行」。
その日、悟はたった一人の親友である傑を、殺した。

傑が死んだ。
辛かった。だって本当に愛していたから。この人になら自分の全てを捧げてもいいって本気でそう思っていたから。だけど。自分の手で親友を殺した悟は、どんな気持ちだったんだろう。どれほど苦しかったんだろう。悟と悲しみを分かち合いたかった。俺が絶望した時に悟が救ってくれたように、今度は俺が悟のことを救いたかった。


だけど俺じゃ駄目だったみたい。


悟はまるで寂しさを埋めるように、毎晩女を抱いて帰ってきた。俺はもう怒ることも泣くこともなかった。色々なことがありすぎて、考えることを放棄していたのかもしれない。悟は次第に女の子を家の中にまで上げるようになって、気付いたら俺の目の前でキスやエッチなことまでするようになった。ここまでくると、もうどうでもいいやって思えるようにまでなった。こんな男なんてどうでもいい。
完全に冷めてしまった。


両親に愛されず、傑に捨てられて、悟にまで裏切られて。

俺の人生ってなんなんだろ?
なんのために、俺は産まれてきたんだろう。

















「…………薫?」

ふわりと意識が浮上する。視界いっぱいに心配そうな顔をしている傑が広がって、目が覚めても傑がいる幸せを噛みしめる。どこにも行ってほしくなくて、そのままぎゅっと傑を抱きしめる。

「どーしたの?すごいうなされてたけど…怖い夢でも見た?」
「……ん、女装した夜蛾センに迫られる夢」
「それは怖いね」
「うん。ちょー怖かった」

クスクスと笑いあって、ちゅっと触れるだけのキスをする。

「薫、好き」
「ん、俺も傑のこと好き」
「どれくらい?」
「これくらい!」
「え、それだけ?」
「じゃあ、これくらい!」

両腕を思いっきり広げても、傑はお気に召さなかったようで唇をツンとわざとらしく尖らせる。

「じゃあってなに」
「うわ、めんどくさい彼女かよ」
「いや彼女は薫でしょ。私に抱かれてあんあん喘いでるんだから」
「そんな喘ぎ方してねえわ」
「いやしてるよ。昨夜だって…「傑クン?」
「ゴメンナサイ」

しゅんとなる傑が可愛らしくて思わずふっと吹き出してしまう。かわいいなあ。この頃の傑は同世代の人より落ち着いて見えていたけど、まだこんなにもガキっぽかったんだ。かわいくてかわいくて、愛おしさが込み上げてくる。

「傑」
「なあに」
「愛してる」
「…私も。薫のこと愛してる」

やっぱり俺には傑しかいない。だってこの頃の俺達は本当に上手くいっていたんだ。
傑は悟とは違う。誠実で、浮気なんて絶対にしない。傑も確かにモテモテだったけど、俺に変な心配をかけさせたくないからって付き合ったその日に女の子の連絡先を目の前で全消去してくれたし、任務上どうしてもって時はちゃんと俺に許可を取って、メールのやり取りも全て俺が聞かなくても見せてくれていた。だから傑と付き合っている時に女関係において不安になることなんて一切なかった。



そうだよ。
俺の運命の相手は傑であって、悟じゃない。
このことを絶対に忘れてはいけない。
強く心に誓う。














手を繋いで部屋を出る。同時に隣の部屋の扉もガチャリと開いて、まだ少しだけ眠たそうな顔をしている悟と視線が交わって、すぐにその視線は繋げれている手に向けられる。

「おはよう、悟」
「…おはよ」
「……チッ。朝からリア充自慢かよ。うっざ」

眉を寄せて不機嫌そうに顔を歪める悟に傑は「挨拶はきちんとしないといけないよ」と諫めるけれど、悟は「ハイハイ。説教かよ。オッエ〜」といつも見たく聞き耳持たず。
分かってる。この頃の悟はあの頃の悟とは違うってこと。でも悟は悟だし。顔を見たらどうしてもあの浮気してる時の姿が頭に過ぎってイライラしてしまう。それもこれも、全部今朝見た夢のせいだ。

「傑」
「ん?どうし……」

背伸びをして唇を重ねると、驚いたように切れ長の目が見開く。それはそうだろう。俺も傑も基本的に人前でイチャイチャするタイプの人間ではないから、悟や硝子の前で手を繋ぐことはあってもそれ以上のスキンシップはとったことがなかった。
ちゅ、とわざとらしくリップ音を立てながら唇を離すと、傑の顔がみるみる真っ赤に染まる。

「ちょ、薫!?」
「なあ、悟」
「……」

口をぽかんと開けたまま呆然と立ち尽くす悟に向かって、ぎゅうって傑に抱きつきながら告げる。

「リア充だから仕方ないだろ?」
「……は、」
「俺、傑のことちょーー愛してるもん」
「ちょ、薫…」
「……」
「悔しかったら悟も恋人作りなよ」

真っ黒なサングラス越しでも分かる。悟の顔がぐしゃりと歪んで、ああ傷付いてるんだなって思った。分かりやすいなぁ。なんでこの頃の俺は悟の好意に全く気付かなかったんだろう。鈍感にも程があるだろう。

「…………………余計なお世話だっつーの」

まるで独り言のようにそう呟く悟にじわじわと真っ黒な感情が込み上げてくる。悟も俺と同じ思いをすればいい。
俺があの時どんな気持ちだったと思う?
死にたくなるくらい辛かったよ。それなのに、悟はそんな俺を平気そうだと言った。
は?ふざけんな。恋人が浮気して平気な人間なんてどこにいる。ショックだった。辛かった。苦しかった。なのに悟は、浮気をやめることはなかった。
なあ、悟。
お前は俺の、何を見ていたの?

「俺は一生、傑だけのものだから」

悟の喉がひゅっと鳴る。
大人気ないのは分かってる。
けど神様だってこのくらいの意地悪は許して下さるだろう。

「………………あっそ」

泣いて苦しんで俺と同じ絶望を味わえばいいんだ。バカ悟。世界で1番、大っ嫌い。