遺孤の夜更け


ナザリック移転後、我々が我々の意志でもってアインズ様に忠誠を捧げると誓ったその数日後の夜。
彼女の泣き顔を見た。
声は我慢しているのか、遮音の魔法でも使っているのか、全くと言っていいほど聞こえない。
しかし両膝をついてわんわんとしきりに動く口を見れば、多少のことは読み取れる。――おかあさん、おとうさん――実際には創造主の名前なのだろうが、デミウルゴスにはそう叫んだように見えた。血筋上の親は存在しないし、概念もよく分からないのに、何故かそう見えたのだ。
ふと、この地に最後まで残られた御方の言葉を思い出す。御方は我らシモベを自分の子ように思っていると仰った。そうであるならば、いやそうでなくても彼女の行動は不敬に値するのではなかろうか。慈悲深き御方がこの地に残られたことに喜びこそすれ、何故我が創造主がこの場に居られないのかなどと子供のような駄々をのたまうとは。しかし実際、遠くで小さくうずくまり何かを掻き抱いて肩を震わせる名前は、親の愛情を一心に願いながらも今後絶対に満たされることはないという事実に絶望する子供そのものだった。見たくない現実から目を背ける為に泣いている、つまりは現実逃避だ。デミウルゴスはそう思ったし、同時に自分自身ひいてはこのナザリックNPC達(ただ一人を除いて)全ての体現そのものであるとも思った。
ウルベルト様…。つられるように自身の創造主のことを考えかけ、これ以上は不毛だと首を振る。

「悲痛ですね」

私もそうなのだ、と。
頭では分かっているが、どうにも受け入れられず、他人事のような呟きしか出てこない。
あの姿を見ていると、自分の心臓も潰れそうに痛いのに目を逸らせない。あの様になりふり構わず泣けたならどれほど良いだろうか。自分はそんな機会も逃してしまっていた。
月も隠れてしまった暗い夜に、夜目が効かぬというのにスルリと地上へ抜けていく名前を不審に思いつけてきた結果がこれとは。未だ周辺に何があるとも分からない中、軽率に(許可は取っていると信じたい)外に出た名前に守護者としての自覚と責任は、と。呆れと憤りさえ持っていたというのに。
どれほどその場に留まっていただろうか。時間にして1時間にも満たないだろう。どうにも邪魔できず、しかし燻った感情は憐憫とある種の侮蔑にも似た色に変わっていた。
女の震えが収まってきた。ならば小言と一緒に連れ帰れるべきだろう。もちろん最初にアインズ様への報告と謝罪。泣き腫らした顔のままではいけないので先にポーションで…、そこで思考は途切れてしまった。
見間違いでなければ、彼女は、女は笑っていた。ヤケになったのかと思ったが、暫くしたら自分でポーションを飲んで立ち上がっていた。つまり…恐らく彼女は正気だ。
理解が追いつかず呆然と眺めていると、名前は何事も無かったかのようにナザリックへ戻ろうと足を出し、「誰だ」ぎゅるりとこちらを向いた。一瞬で距離をつめられ「何だデミウルゴスか」伸ばされた手は首元に触れており、攻撃の一歩手前で止まっていた。敵かと思った、と少しだけ残念そうに口を尖らせる名前はいつもと何ら変わりなく、つい先程までの途方に暮れた姿は幻だったのではと思わせる。身内と分かり気が抜けたのか、本当に敵でなくて残念だと言わんばかりにやわやわと親指で喉仏に触れ、その他の指で頚椎を擦る。この仕草から察するに、首をへし折ろうとしていたのだろうか。

「…いつまで触ってるんですか」
「まさか本当に草原なんだな」

不愉快だと態度に表しつつ手首を掴んで急所から遠ざける。名前はこちらの質問に答えようともせず、マーレは作業大変だったろうな、とか聞いてもいないことをだらだらと喋り続け、そのうち怪訝そうにこちらを覗き込んできた。そんな顔をしたいのは私のほうだ。

「…珍しく真顔だな。何かあったのか?」

…とっくにそんな顔をしていたらしい。

「何故、」

笑っていたのか。泣いた理由なら十二分に分かるが、何故。見られていたと気付いている筈なのに、素知らぬ態度なのも白々しい。

「何故…?あー外出許可ならアインズ様に頂いている……んだけど、……え、もしかして不足か?」

あわあわし始める名前にため息しかでない。幸い手首は掴んだままなのでこのまま連行しよう。軽く引っ張れば特に抵抗もなくついてくる。行き先はナザリックだと分かっているからだ。

「私が聞きたいのはそちらではありませんが…まあいいでしょう。
名前、ちなみになんと言って許可を頂いたのですか?」
「外を警戒してきますとお伝えした」
「その割には一所に居たようですね」
「このような草原、動き回らずとも見渡すことはできる」
「ふむ。では暗視アイテム、またはポーションを見せていただけますか?」
「…、持ってきたポーションは使い切った」
「おや、ではまだ効力もあるでしょう。手を離しても問題ないですね」

手首の拘束を緩めると慌てたように掴み返される。名前の種族は広範囲かつ動体視力に優れた視野をもつが、そのペナルティとして暗視はマイナスに振り切っている。アイテムやポーションで補助をしなければ、月明かりで影ができるほどの夜でさえ歩行が覚束ない。
その情報をもってカマをかければ罰が悪そうな沈黙が返ってくる。

「嘘はないようですが、隠し事とは感心しませんね」
「私が襲いかかった時からわかってたくせに…意地が悪いぞデミウルゴス」
「悪魔ですので、この程度は戯れと思っていただければ」
「なんたる…なんたる…」

名前は観念したようにため息をつき、隠して悪いとは思っている、と口を開いた。
後方から聞こえた声に顔だけ振り向き、数歩後ろの姿を見やれば、空いた手で大事そうに(クシャクシャになってはいるが)外套を抱えている。とても見覚えのあるそれは、名前の創造主がよく身に着けていたものだろう。禄に足元の見えない彼女にとっての暗闇の中で、足を取られないように俯いて慎重に歩く姿は、忘れ形見の残り香が消えてしまうのを恐れているようにも見えた。ようやく先程の彼女と、目の前の彼女が自分の中で線となる。なんだ、よく見れば少しも変わらないじゃないか、と。私の視線に気づいたのか、たまたまこちらを向いただけなのか、妙に意志のこもった瞳とかち合った。(実際に名前には暗闇しか見えていないはずなので、これは私の勘違いなのだが)月の無い夜でも星の光を反射してちらちらと無数に光るその視線は、自然と私の意識を惹き付けて離さない。

「最初に言っておくが、アインズ様に許可は頂いている。
…その上で、私はお前には話さない。コレは私と創造主様の問題だと判断したからだ」
「御方のご意思の元とあれば、シモベの私に異論は無いですよ」
「異論は無いが……って冗談だからそんな顔で見ないでくれ」

きっぱりと告げられた境界線と共に、ふい、と視線が逸らされる。また足元に注意を払い始めたのだろう。見えなくなってしまった瞬きを追い、自分も視線を足元の草原へ落とす。さくさくと細長く薄い葉が軽い音を立てながら自分の足の形に潰れ、くたりと揺れる。

「御方の御天命とあれば胸の内なぞ些末事、私も同じだ」

名前の声色にはアインズ様への親愛と忠誠が溢れていた。それでもやはり、言葉の端には隠せない寂寞の痛みが滲んでいる。

「そんなことは言われずとも、ナザリックの皆が分かっていますよ」

この体は、この忠誠は、この行き場のない思いでさえ、全ては至高の御方のために。

「私も役に立てるだろうか」
「それを証明するのがこれからの私達ですよ、名前」

手のかかる末子のようだ。迷子の手を引くように、お互いに手首を掴んだまま、彼女の先導のために歩幅を合わせて歩く。
さくさく、さく、さく。
不揃いな足音と共に草原を踏みしめる帰り道。
連れ合う2人は、今は無き人を思ってしばしの沈黙に包まれていた。