◎二雫目
今日も月明かりだけの暗いプールで泳ぐ。
まるで私だけが隔絶された世界にいるような気分になれる。
「ヨォ。名前チャン。」
そんな小さな世界への数少ない侵入者。
プールサイドに近寄ると自転車競技部のユニフォームを纏った細身の影がしゃがみこむ。
「こんばんは、荒北先輩。」
度々来ては少しおしゃべりをして帰って行く先輩。
口は悪いけど優しい人。
「今日はどうされたんですか?」
「別に、シャワー室がいっぱいだったからコッチ来ただけだヨ。
名前チャンこそいつまで入ってるつもりィ?」
「さすがにそろそろ帰らないと夕飯食べ損ねちゃうのでもう上がるつもりです。」
「いくら室内プールだからって女の子1人で危ないんじゃナァイ?」
「平気です。誰も近づきませんよ。」
だって夜になると幽霊が出るんですよ。
そういうと荒北先輩はガシガシと頭をかいて言いにくそうに目をそらす。
「ソレだけどさァ。人魚が出るって噂になってるんだよネ。」
誰かが私の泳いでいる姿を人魚だと思ったらしい人がいて、幽霊よりもそっちの方が今は知られているんだとか。
私が人魚?ずいぶんとユーモアあふれた人もいたもんだな。
でも、
「あながち間違いではないのかもしれません。」
「ハァ?」
「王子様を助けたけど忘れられたまま、一緒には暮らせず。悲しくて海に飛び込んだはいいけれど泡になりきれず、ずっとここに留まっている。」
ねぇ、そうでしょう?
同意を求めたけど先輩は何とも言えない表情をしていた。
そんな顔をしないでくださいよ。
「まぁ人魚姫のように愛する人を守れずただこうして泳いでいるだけの私はただの魚になりきれなかった人間ですけどね。」
私も人魚姫のように泡になれたらよかったのに。
ポツリと言うと頭を叩かれた。地味に痛い。
「バカなこと言ってねぇでさっさと帰る用意しやがれ。オレがシャワー浴びてる間に終わらせねぇと送ってやんねぇならナ!」
「送ってくださるんですか?」
「女の子1人で帰すわけにはいかないでしょォ。」
「………ありがとうございます。」
なんだかんだ言っていつも送ってくれるんだよね。
ザバリとプールから上がり軽く水気を拭いてからシャワー室に歩き出していた先輩の後を追う。
「シャワーゆっくり浴びてくださいね。女の子は支度に時間がかかるんです。」
「くだんねぇこと言ってないでさっさとしねぇと置いてくぞバァカチャン。」
そう言いながらいつも外で待っててくれるくせに。
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