「赤葦はおりこうさんだねえ」

一個年上のマネージャーの先輩、みょうじさんは、いつの頃からかよく俺にそんなことを言うようになった。

最初はなんの戯れだろうかと思っていた。ほどなくして知ったのだが、彼女には中学生の弟さんがいるらしく。きっと弟さんと重ねられているのかと、子ども扱いされているのかと思い至り、少し釈然としない気持ちになった。

「赤葦はほんと、木兎のことよく見てるね。いつもありがとうね」

釈然としない心持ちをどうにもうまいこと処理できず、「子ども扱いしないでください」だなんて幼いことを言おう言おうと身構えていたところに、彼女は笑顔でそう言った。
その時に、彼女はただ単に自分を子ども扱いしているわけじゃなかったのかと気がついた。これは彼女の気遣いだ。

とはいえ、木兎さんのことを見ているのは、嫌々やってるわけでもなく、ましてや感謝されたいなどと思ってもいない。木兎さんの振り幅激しいその波はチームの作戦に大きく関わることだから、みんながそれぞれ気にしていることで、俺に気遣ってくれるなんて、しなくていいのに。

だけど優しさでそう言ってくれているのならば、それははねつける理由にはならない。だから言われ続けていたらそのうち慣れるかと黙ることにした。

それからまたしばらくして、ふと、彼女が気遣っているのは俺だけじゃないことにも気がついた。
言葉は違えど、チームメイトに声掛けをしては、みんなの様子を見ている。
ああ、俺は木兎さんのことは把握できても、彼女のことはあまり見ていなかったんだな、なんてことを思った。それがなんとなく悔しかった。俺がわかってるのは木兎さんだけ、チームメイトのことだけだなんて、そんな自分が嫌だった。だから、俺のことも見てくれる先輩を、俺だって、ちゃんと見ていようと思った。


「赤葦!もう一本!」
「木兎さん、そろそろ終わりにしましょう。今日は少しやりすぎです」
「はあ!いつもこんなもんだろ!」

部活は終わり、自主練を始めて随分時間が経った頃。もう時間も遅く、残っているチームメイトも少ない中、まだトスを上げろとせがむ木兎さんに嗜めるように言う。が、なお喰いさがる彼に、どうしたものかと思考を巡らせようとしたときだった。

「木兎ー、赤葦の言う通りだよ。今日は、いつもより10本多く跳んでまーす」

のんびりした口調で、マネージャーのみょうじさんが横から声をかけてきた。
マジかよ、と疑う木兎さんに、みょうじさんはその手に持っていたノートをびしりと見せる。

「ほら、実はね、ちゃーんと本数チェックをしているのです」
「なんだって!」

ここ1週間の自主練のメニューやらこなした本数やらを、しっかりと認められたノート。そして今日の日付の箇所を見れば、スパイクを打った数が明らかに昨日、一昨日とこなした本数より多いことがわかる。
よし、このまま説き伏せようと、むむむ、と眉間にしわを寄せている木兎さんに、ダメ押しする。

「ほら、言った通りでしょう。オーバーワークで故障でもしたら冗談にもなりませんよ」
「ぐ、仕方ねーな……」
「明日また、練習しましょう」
「おう」

木兎さんは腑に落ちない顔をしているけれど、みょうじさんの手助けもあって今日はすんなりと練習を終わることができた。そして、にこにこしているみょうじさんは、ドリンクとタオルを俺と木兎さんそれぞれに手渡してくれる。

「お、サンキュ!」
「ありがとうございます」
「いえいえー、お疲れさま。飲み終わったらボトル、入り口のカゴの中入れといてね」
「おう」
「わかりました」

ごくごくと水分補給をする間、みょうじさんは他のマネージャーの先輩たちがビブスを干すのを手伝いに行った。それから、楽しげに笑いながら体育館から出て行く。

「……」
「赤葦ー、片付けようぜー」
「あ、はい」

その後ろ姿を眺めていたら、木兎さんに声をかけられた。言われるがまま木兎さんと、残っていた数人で片付けを始める。ボールを片付け、ネットを緩め、モップをかけて。

「しゃあ、帰ろーぜ!」
「はい」

ざっと片付けを終えて、うんと伸びをする木兎さん。マネージャーの先輩たちも諸々片付けを終えたのか、体育館からはすでに出ているようだから、木兎さんの声に従って体育館から出る。帰り支度をしに部室へ向かおうと、みんなでぞろぞろと歩いていこうとしたとき。

「あ」
「どしたー?」
「ちょっと顔洗ってきます、先行っててください」
「おうー?」

木兎さんたちにそう言い残して、俺は方向転換、ひとりで体育館のすぐ近くの水飲み場へ向かう。
わざわざ木兎さんたちと別れて、薄暗いそこに行く理由はひとつ。

「みょうじさん」

ボトルの入ったカゴを抱え、水飲み場へ向かうみょうじさんの後ろ姿をちらりと見てしまったから。
ぱしゃぱしゃと音を立てながら、みょうじさんは俺や木兎さんたちの、居残りをしていた人たちのボトルを洗ってくれていた。みょうじさんは俺の呼びかけにのんびりと反応する。

「あ、赤葦ー。どうしたのー?」
「……顔を洗いたくて。洗い物、ありがとうございます」
「なーに、仕事ですから」
「手伝います」
「いいよ、すぐ終わるから」

いいから顔洗いなさいな、とみょうじさんは笑った。
本当は、顔を洗うなんてしなくたっていいんだけど。そういう口実で来てしまったし、と俺は洗いものの邪魔にならないように、とみょうじさんと少し離れた場所の蛇口をひねる。

「他のお二人は?」
「タオル片付けたり日誌書いてるよー」
「そうですか」

濡れた顔を拭きながら尋ねれば、みょうじさんは最後の一つを洗い終えながら答えてくれた。

「よし、終わり!」

キュキュ、と水を止めたみょうじさんは、タオルで手を拭いてボトルを入れたカゴを持つ。そして歩き出したみょうじさんを見て、部室の一角に干しに行くのだと気づく。

「みょうじさん」
「なに?」
「持ちますよ」
「えー、いいよ、これくらい。軽いし」
「いえ、持たせてください」
「……じゃあ、お願いしよっかな」

少しはにかんで、みょうじさんは言った。
お願いします、と俺にカゴを渡してくる。それを受け取って歩き出す、前に、このままみんなと合流したくなくて、まだ話をしていたくて、前を行こうとする小さな背中に声をかける。

「さっきはありがとうございました」
「んー?」
「木兎さんの。みょうじさんのおかげで、すぐ納得してもらえました」
「ああ、いいのいいの。赤葦はいつも大変だね。えらいえらい」

と、目の前の彼女が伸ばす、手。
ふわ、と俺の前髪に触れて、よしよしと撫でられる。少し背伸びをして、にこにこと。水を触ったからか冷えた手が額に当たる。
その瞬間、かあ、と熱が頬に集まるのを感じた。暗くてよかった、明るかったら今、どうしようもなく恥ずかしいのを隠すことなんてできなかった。

「……」
「あれ、どした」

どうした、だなんて。
仮にも思春期真っ盛りの男子が、女子からの突然のよしよしに戸惑わないわけがないでしょう。
でもそんなこと悔しいから口には出せない。それにその悔しさはきっと、突然翻弄されたからだけじゃない。
弟のように思われてるんだろうことも、俺がいつも気にかけられている側の扱いをされることも。
そうじゃない、そうじゃないんだ。

「俺も、おなまえさんのこと、見てますからね」
「へ」

俺は幼くない。たった一つしか歳の変わらない、後輩で、チームメイトで、でも。

「おなまえさん。いつも、ありがとうございます」
「……ありがとう」

感謝の気持ちは本物で、だけど、少し困ってしまえばいいのにだなんてことを考えたのに、にこりと笑ってくれた目の前の人。
名前で呼んだら戸惑うかなだなんて、やっぱり俺は幼い思考なのかもしれない。

「さ、帰ろ、赤葦もしっかり休みなさい!」
「……はい」

とん、と背中を押されて、みょうじさん、いや、おなまえさんは軽い足取りで部室へ向かう。
悔しいから、明日からもずっと、おなまえさんって呼びますね。なんて、心の中で呼びかけた。

燻る熱は真っ逆さまに


ああ、触れられた背中が頭が、どことなく熱い。
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