今思えば、今日一日家でぼんやりしていればよかったのに、アップルパイを作って、明日テルマさんにも分けてあげよう、なんて唐突に思いついてしまったのがそもそもの間違いだったのだ。

パイを作る材料は揃っていたが、肝心のリンゴが足りないことに気が付いたわたしは果物屋に出かけた。美味しそうなリンゴを吟味して、果物屋のおばちゃんと軽い会話をして。そして袋に詰めてもらったたくさんのリンゴを抱えながら引き返すように道を歩いていた。
わたしの家へと続く道は町でも特に薄暗い裏路地で、とても静かでなかなか人は歩いていない。だからあの緑も油断していたのだろう。

重たい袋に幸せを感じながらせっせと歩いていたら、突然私の真横が一層暗くなった。それは普通じゃありえない現象だ。
え、何事?なんて思って反射的にそちらを見たら、それは家と家の間から出ていた。不可思議な現象に本能なのか思わず目を凝らして何が起きているのかを把握しようとしてしまう。そこで見てしまったのは、黒に包まれながら狼が人へと姿を変えた瞬間だった。
息をのみ、ぴしゃりと体が固まった。しかし狼から緑の服を着た男になったそれは、都合のよいことにこちらに背を向けていて私に全く気付いていなかった。

そこでそっと逃げることができたら何も問題はなかったのに。
しかし現実はそんなにうまくいかず。目の前で起きたあり得ない事象に体を硬直させたまま動くことができず、抱えていたリンゴを袋ごとがさりと落としてしまったのだ。
その音に気が付いた男が振り返る。彼の傍に、黒くて小さいものが浮遊しているのも見えたが、それは驚いたように体をびくりとさせてすぐに消えた。
振り返った男、いや、青年はとっても綺麗な顔立ちだった。
青色の瞳がわたしを捉える。が、いくら綺麗だからって素直に見惚れたりなんかしなかった。

だって要するにこの人、狼男じゃない!
え、狼男って満月の夜だけじゃないの!?
わりと自由自在なの!?

わたしは一歩近づかれたのを見て、瞬時に体を翻して駆け出していた。
これは本能が体に呼び掛けたのだ。逃げなきゃ、死ぬ!

待って、と声がしたのは聞こえた。
待つわけない、待つわけがない。
これ絶対食い殺されるでしょ!

そして逃げ出した先は人の多い大通り。よく逃げ出した、えらい!
けれど人ごみに紛れて走りながらちらりと後ろを見てみたら、遠くに緑の帽子が見えた。まずい、このままだと追いつかれてしまう。
そこでとっさに隠れる場所を考えて、思いついたのがここ、テルマさんの酒場だったということだ。

……なんて理由があってここにやってきたわけだけど、この話を信じてくれるかどうか。いや、それよりもわたしがこの話をすることでテルマさんにも危険が及んだら大変だ。だって正体がばれたら困るもんね、狼男。

なんと答えてよいものかわからずにただ言葉に詰まっていると、テルマさんは黙り込んだままのわたしの答えが待てないのか、理由を推察し始めた。
一体どんな想像をするのか、場合によってはそれに乗ってしまうほうがいいかも、なんてことを思ってテルマさんが答えを出すのを待っていると。
突然なにか閃いて、ぱんっ、と軽快な音と共に手を合わせた。

「もしかして、街でリンクに声をかけられたのかい?」
「……へっ?」

そしてわたしの答えを聞かずして、テルマさんは恥ずかしがらなくていいんだよ、と楽しげに笑ってわたしの肩を抱く。うんうん、とうなずくテルマさん。ああなんてあたたかい、けど、違うんです。
確かに声はかけられたけど。今テルマさんが言っているのは街で見かけた気に入った女の子をハンティングするアレのことだ。まあハンティングされそうですけどね!

「あ、あー…、その、」
「それで逃げてきたんだね?」
「え、う、そ、そんな感じ、かもしれないです」

嘘ついちゃったー!
ものすごく中途半端に嘘を吐いてしまった。
だけど、そうだ、これはテルマさんのためなんだ。だからごめんなさい、許してください。

小さく答える私とは真逆に、テルマさんは高らかに笑った。

「リンクもやるねえ!」
「は、はは……」

苦く笑い返すと、テルマさんはにっこり笑ってみせる。

「大丈夫だよ」
「え?」
「リンクはいい男だよ。ちょっとだけでもいいからさ、話してみたらどうだい」
「え!!いや、いいです、遠慮します!」
「なんだい、照れなくていいのにねえ」

完全にわたしがリンクという緑狼男から気に入られたんだと思い込んでしまったテルマさんは、なんだかとても楽しげだ。
騙してしまってごめんなさい、テルマさん……。

と、ガチャリとドアが開く音がした。反射的にわたしはカウンターに身を隠す。

「こんにちは、っておなまえちゃん何してるんだい?」

シャッドさんの声だった。とろかったわたしは隠れた瞬間を見られていたのか、不思議そうに声をかけられてしまった。ああ、やつじゃなくて本当に良かった。
ほっと胸をなでおろしながら、カウンターの下から出て「こんにちは」と笑っておく。

「これがねえ、ちょっとした事件があってねえ」

いらっしゃい、と言いながらテルマさんは本当に楽しそうで。それを見たシャッドさんは珍しくカウンターに座って身を乗り出した。

「ええ?なになに、聞きたいなあ」
「それがね、」
「テルマさんっ!」

お願いします、在りもしないことなんだから変に噂を広げないでください!
嘘ついたわたしのせいだけど!

「照れなくていいだろう?」
「おなまえちゃんが照れること……あ、わかった。男、かな?」
「ちが、違いますっ!シャッドさんなに飲みますか!?」

結局この日は、お休みもらってたはずなのにお店で働いてから家に帰ることになった。
だけどもあらぬ噂を広げられてしまうのは困る、し、そもそもすぐに町に出るのは怖すぎる。
わたしは明日からどうやって生きていけばいいものか、テルマさんとシャッドさんの楽しげな声に挟まれながらもんもんと考え込むしかなかった。


「そう言えば、リンクは大量にリンゴ抱えてたね。なにするつもりだろうねえ」

(ああっ、私のリンゴだ!)


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