に
最悪の現場を見られた……かもしれない日から数日経った。
柳くんは相も変わらず、当たり前だが私の斜め前の席にいる。凛とした佇まいで座る彼は、やっぱり美しくてかっこいい。
あの日、柳くんは本当にアレを見たんだろうか。ここ数日そればかり考えているが、それに加え、もし見られていたとしたら私の儚い恋が終わりを告げてしまう、と嘆いてもいた。学校であんな事をしている姿を見たら、誰だって引くに決まっているし、それに私は最中に柳くんの名前を呼んでいた。それまでも聞かれていたとしたら、柳くんの事を私がそういう目で見ている事なんて明白。
私の恋心は勝手にバレて、勝手に終わっていったようなもので。しかも不純な目で見ていた事も明らかになるというオマケ付きである。
そうやって、私は最悪な結果ばかりをずっと考えてしまっているが、当の柳くんはとても普通なのだ。話こそ挨拶程度しかしていないが、私から見た彼はとことん普通。普段通りだった。
もし柳くんと私が逆の立場で、あの現場を目撃したとしたら、私はきっと彼の顔もまともに見れない。引いてしまう……かは分からないが、少なくとも普通に挨拶なんて出来ない。完全に顔に出てしまう。そしてそんな卑猥な秘密を一人で抱えきれなくなって、誰かに言ってしまう。そこから噂が広がり、カースト上位の子達が揶揄うようになり……なんて最悪の結果になりうる。
だが、私の元にはそんな噂も、揶揄いも、一切届かないのだ。見られたかもしれない相手が、口の固そうな柳くんだったから、というのももしかしたらあるのかもしれないけど、あまりにもこの数日、柳くんも周りも普通すぎて、私の心配は杞憂に終わるのでは……?とも思えるくらいだった。
「じゃあ、これ前から回してくれ」
先生がプリントを各列一番前の生徒に配り、前から順に回ってくる。もたもたしている生徒もいればスムーズに後ろへ回している生徒もいて、それを眺めていると私のところへも回ってきた。一枚取り、後ろへ回す。するとどこからか、配られているプリントが数枚、私の席の方へヒラリと静かに落ちてきた。
「ああ、すまないな。姓」
「……っ」
咄嗟に床に散らばったプリントを拾い顔を上げると、斜め前に座っている筈の柳くんが私の席の前に立っていて、思わず息を呑む。
何をされたという訳でも無いのに背中には冷や汗が浮かんだ気がしたが、「ありがとう」と微笑む柳くんに、心臓は大きく鳴った。やっぱり好きな人の微笑みにはときめいてしまう。
背中と心臓がまるで違う反応を示している事に戸惑いつつも柳くんへプリントを手渡すと、プリントの裏で柳くんの手が触れた。多分皆からは見えていないが、触れた瞬間、何か小さな紙みたいなものをスッと握りこませられた。
「……え?」
「手が滑ってしまってな。助かったよ」
ものの数秒の出来事に疑問の声を漏らすが、柳くんはまるで何事も無かった様に私からプリントを受け取り席へ戻っていった。
私は理解が纏まらないまま、ストンと席に着く。
手のひらの中のものは、一体何だ。
なんだか怖くてまだ握りしめたままのソレは、多分紙切れだが、まさかラブレターとかいう訳でもあるまい。先程柳くんの微笑みを見て、やっぱり好きだと高鳴った心臓は、今では息を詰まらせそうになるほど恐怖に鳴っていた。
何かある。ただのいちクラスメイトである私に、柳くんがこっそり紙切れを渡すなんて、そんなのあり得ない。タイミング的に考えてもやっぱりあの日の事が関係しているんだろうか。
私は紙切れを見るどころか手のひらから出す事も出来ず、ただ配られたプリントを睨んでいた。
どうやらこのプリントは問題集の様で、授業の残り時間、各々で解けという事らしい。なるべく自分で解いて、分からなければ周りの人か先生に聞けという、小テストと自習が合わさったみたいなものだった。
「柳ィ、これ教えて」
ぼうっとして、プリントにも手を付けずにいると、私の前の席の男子が早速柳くんに助けを求める声が聞こえ、ハッとする。
恐る恐る、チラリと柳くんの方を見れば、彼は椅子に、横向きに座り直した。私の前にいる男子に問題の解き方を教える為だろう。必然的に私の位置からも柳くんの横顔がはっきり見えるようになり、ぞくぞくと首筋辺りが震える感覚に襲われた。
男子にあれやこれやと言いながら教えている柳くんだが、心中は何を考えているかさっぱり分からない表情をしている。それを時折伺う様にして見てみると、その瞬間、薄ら目を開けた柳くんがこちらを向いた。
私はまるで蛇に睨まれた蛙の様に目を逸らせなくなって、紙切れを握りしめた拳に力がはいる。
そして、柳くんは男子に教えながらも自身の手の甲をもう片方の手の指でトントンと叩いた後、声を出さず、ゆっくりと口だけを動かしてみせた。
「――み、ろ」
「っ」
手の甲を叩いたのは、私の手の中にある紙切れを差している。それを見ろ、と彼は言っている様だった。読唇術なんて心得ている訳もないのに、彼の口の動きは確かに私の耳に届いた。
慌てて首を小さく縦に振り、紙切れを握っている手を開く。
四つ折り程に折られた紙は、私のものだろう手汗で少し湿っており、柔らかくなっている。一回、二回と紙を解いていけば、出てきたのは文字の羅列だった。
『姓に渡したいものがある。放課後、昇降口で待っていてほしい。俺は一度部に顔を出してから向かう。時間は取らせないから、宜しく頼む』
「……?」
大方、あの日の事に関する事……例えば脅しとか……いや柳くんがそんな事をするなんて思ってはいないけど、脅しでなくてもあの日あった事を聞いてくるとか、そんな事が書かれていると思っていた。
それに反し、ただ渡したいものがあると書かれた手紙を見て、首を傾げる。柳くんの方を見れば、彼はもうこちらを見ていなくて、私の前の席の男子に「ここはこの公式を使う」など言いながら親身に教えていた。
私は手元のプリントの分かる所だけをササッと埋め、回収されたところで授業が終わる。あとはホームルームだけで、放課後までの時間が刻々と迫っていた。
先生が連絡事項を淡々と言っているのを意識半分で聞いて、ポケットにしまった柳くんからの手紙を指先で弄ぶ。
どうしよう。行くべきか行かないべきか。私に何を渡したいのかまるで検討がつかなくて、どことなく不安だった。
バレンタインとかホワイトデーの時期ではないし、何かお礼的なものをされる覚えもない。それとも柳くんは友人へ唐突にプレゼントをしたくなっちゃう様な人なんだろうか。うーん……分からない。
好きな人からの願ってもいない呼び出しが、こんなに不安になるなんて。誰が思っただろう。
一人悶々としていれば、終礼までも終わってしまう。
途端にガヤガヤと流れ出す教室の空気に私は付いていけず、帰路についたり部活へ行ったりする皆を席に座ったまま横目で見送る。教室を出ていく皆の中には当の柳くんもいた。
あっという間に誰もいなくなった教室に一人。流れ込んで来た風が鬱陶しくて、少し開いていた窓を閉めた。そのまま窓際に凭れ掛かり、ポケットから紙切れを取り出しもう一度読んでみる。
柳くんは部活に一度、顔を出してから昇降口に来るらしい。という事はジャージ姿が見られるんだろうか。それとも部室に荷物だけ置いて、着替えずに来るんだろうか。分からないが、ジャージ姿は間近で見た事が無いので着替えて来たら良いなとは思う。が、今だに私は行くべきか止めるべきかで葛藤していた。
「……行くか」
一抹の不安は残るが、やはり黙って行かないのは柳くんに失礼である。彼は部活があるし、その合間を縫ってまで私に何かを渡したい、という事だし。来ない事を知らず待たせてしまうのは申し訳ない。
それに、不安に思っているのは私の杞憂で、柳くんは純粋に何かを渡したいだけなのかも。あの日の事なんて露ほども知らず、私が勝手に「見られたかもしれない」と怯えているだけかもしれない。見られていない可能性も大いにあるのだ。この数日、何事も平和だったのだから。というかそもそも、見られたとしたら「何をしてるんだ」とか、あの場で直ぐに言ってきそうなものである。それも無かったという事は、やはり見ていないと考えるのが……妥当、なんだろうか。
鞄に荷物を詰め込み、うーんと唸りつつも教室を出る。柳くんはもう昇降口にいるだろうか。
足取りは軽いものとは言えないが、全ての不安を頭から無理矢理消し去り、ジャージ姿の柳くんへ想いを馳せる。事だけに集中する。
しかし私の頭の中で柳くんがゆっくり、焦らすようにジャージを脱ぎだしたので、自分の頬をパチンと叩き喝を入れた。妄想するのはなるべく帰ってから。あの日から、私はそう決めたのだ。
「……まだ来てない」
昇降口に着いて、柳くんがいない事を確認してからひとまずローファーへ履き替える。
そうして、下駄箱に凭れ、携帯をいじっている事数分、「待たせたか」と耳心地の良いテノールが聞こえた。顔を上げれば思った通り人物である柳くんがいて、しかも私が勝手に希望していたジャージ姿の柳くんだった。
「いや……全然。待ってない、よ」
「そうか」
襟元をキッチリ、上までファスナーを閉めて長袖のジャージを纏っている上半身とは異なり、制服の時とは違う半ズボンに目が奪われてしまう。俯くフリをして柳くんの引き締まった脚を思い切り見つめ、目に焼き付けていると、ふと、柳くんが手ぶらである事を思い出した。
背に隠している様子もないし、渡したい物というのはジャージのポケットに入る程小さいものなんだろうか?そうなんとなく考えていると「姓」と名前を呼ばれた。
「渡したい物があると言って来て貰ったんだが……それを渡す前に、少し良いか」
「え、う、うん。なに?」
「手を貸してくれ」
柳くんが右手を差し出すので、向き合っている私は自然と左手を出した。なんだろう。今になって凄く緊張してきて少しだけ手が震える。
柳くんの右手に受け取られた私の左手から、彼の暖かさが伝わってきて、妄想もしていないのに身体が疼いた。――そして。
「……え?! あ、ちょ、柳くん?!」
「シー……。悪い様にはしないから。少し大人しくしていてくれるか」
「う、えあ、」
唐突に柳くんは、私の手首辺りをまさぐりブレザーの袖の中へ指を滑り込ませてきた。驚きのあまり肩が跳ね腕を引こうとするものの、いつの間にか柳くんのもう片方の手が同じく私の左腕の肘辺りを掴んでいて逃げられなかった。
そして、ブレザーの中に入り込んで来た彼の指は器用に私のシャツの、袖口のボタンを外す。そこで漸く、これは本気でヤバいと頭で警鐘が鳴った。
そこは……その左手首には、私が自分でやった噛み跡があるのに。
「……ああ、やはりな。跡が残っている。お前は強く噛み過ぎだ」
やはり、と言った柳くんに、私は目を見開く。そして彼と同じように「やっぱり」と内心思った。
彼はやはり、あの日屋上で私を見てたんだ。快楽に溺れきった声を押し殺す為に手首を噛んでいたところを見られていた。
「……っ」
今の状況と、見られていたという事に動揺して、息が詰まり、上手く呼吸が出来ない。私の恋と、平穏な学校生活が終わった気がして言葉も出ない。
だが頭の片隅では、柳くんに手首を触られている感触に少なからず喜びもしていた。怖いのに嬉しい。焦っているのに気持ちいい。感情がぐちゃぐちゃで、どうにかなってしまいそうだった。
「や、やなぎく、ん……あの」
すりすりと、跡を確認する様に触ってくる柳くんは、もしかして態とやっているんだろうか。そう思ってしまうほど彼の触り方がいやらしく、私の息は次第に荒くなっていく。
このままじゃ駄目だ。ただ手首を触られているだけなのに、自分で妄想して、自分で慰めている時よりも頭がくらくらする。
どんな風に触るんだろうといつも柳くんの手を見て思っていた事が今、現実になっていて、そして現実の方が、よっぽどいやらしい。
掴まれていない方の手が自然とスカートに伸びそうになるのを毛ほどしか残っていない理性でなんとか抑え、ぎゅっと拳を作り握りしめた。
すると手首に、何かを嵌め込まれた感触がして、そちらを見る。
「これを渡そうと思ってな。俺の使い古しで悪いが、使うといい」
「こ、れ、リストバン……ド?」
「今日床に落ちたプリントを拾う際、少しだが袖が捲れて見えていた。昨日も、一昨日も、腕を動かす度に見えている。お前は注意が足りないな」
手をあっさり離されて、柳くんはズボンのポケットに両手を突っ込んだ。私は何がなんだか分からなくて、先程までの身体のムズムズも相まってか足の力が抜けてしまう。下駄箱に寄り掛かっていたおかげで転びこそしなかったが、ズリズリと地べたにしゃがみ込んでしまった。
「どうした。大丈夫か?」
「……大丈夫、」
「そうか。では俺は部に戻るが……姓、最後にまた少し良いか」
私と目線を合わせるように、柳くんも片膝をついてしゃがみ込み、向かい合う。
今度は何だ、と柳くんを見上げると、彼は私の顔の横に片手をついた。そしてもう片方の手は、あろう事かスカートが捲れ上がって剥き出しになってしまっている私の太ももをスルリと撫でた。
ひ、と上擦った声が出て、下腹部が今まで経験した事の無いほど疼き、涙が出そうになる。
「お前がどうして、学校の屋上で自慰行為に浸っていたのかは聞かないでおこう。他言もしないよう努めるよ」
「あ、っ……ぅ」
「そうだな、その代わりと言ってはなんだが、――これから、俺が良いと言うまで自分を慰めるのは我慢だ。いいか?」
落ち着いた口調でものを言いながら、私の太腿を摩る手は休めない柳くん。ゆっくりと足の付け根辺りまで手が進んで来て、怖さと気持ちよさが混じる。止めてほしいけど、柳くんの手でこの身体の切なさをどうにかして欲しい気持ちが膨れあがり、彼の問いに上手く答えられないでいた。
すると痺れを切らしたのか、私の顔の横に付いていた柳くんの手が、今度は私の顎を掬う。下を向いていた顔を持ち上げられ、薄っすらと開いた彼の目と、視線がかち合った。
「どうなんだ、できるか?」
「わか、わかった。がまん……する。できるっ」
柳くんは人の弱味につけ込んだ脅しなんてしない人だ、と思っていたのを今訂正したい。私に脅し紛いな事をしてなんのメリットがあるのかなんて全く分からないが、ひとつだけ分かった事がある。
柳くんは人の良い顔をしながらも、とんでもなく意地悪な人という事。
私の返事に彼は綺麗な微笑みを浮かべて立ち上がる。そして踵を返し去ろうとするが、「ああそうだ」と何かを思い出した様に振り返った。
「自宅でならバレない、などと思わない事だ。俺が良いと言うまで、どこであろうと我慢だ。いいな」
それだけ言って、今度は本当に昇降口を出て行った。
私は柳くんの言葉に絶望して、まるで蛇の生殺しの様だと一人ゴチる。
左手首には渡されたリストバンドが嵌められていて、それに顔を擦り付ければフワリと柳くんの匂いがした。